礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年12月30日
 
「恵みによって、今の私に」
年末感謝礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
第一コリント15章3-10節
 
 
[中心聖句]
 
  10   神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(第一コリント2章10節)


 
聖書テキスト
 
 
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
 
始めに
 
 
2012年をもう一日余りで終えようとしています。感謝を込めた聖餐式をもって礼拝をささげていますが、改めて、私たちに与えられている神の恵みを感謝したいと思います。

第一コリント15章は、キリストの復活の確かさを述べているところですが、復活のキリストが現れなさった人間のリストの最後に、パウロは自分を挙げて、神の恵みを感謝しています。この礼拝では、パウロが捉えていた恩寵観について、表記の聖句からの思い巡らしをさせて頂きたいと思います。

パウロはここで恵みという言葉を三回使っていますが、一つずつ考察します。
 
1.今の私に導いた恵み
 
 
第一は「今の私に導いた恵み」です。10節で「神の恵みによって今の私になりました。」という前の8−9節で、その前の自分を振り返っています。そこから考察を始めましょう。

・「月足らずで生まれた」私:
パウロは自分のことを「月足らずで生まれた」人間と表現しています。この言葉については、二つの解釈があります:
@未熟児:
文字通り未熟児として生まれて、体のハンディを背負っていた。非常に小さい(パウロという名前の意味)、病気がちとか、何かの弱点があったらしい。しかし、多くの聖書学者は、次のAの解釈を取る。
A後発の信者:
クリスチャンとなった時期に関するもので、キリストの在世時代に入信したペテロら使徒達からみれば全く後発の信者という意味で「月足らずの」末っ子という意味も含まれていたかもしれない。もっと言えば、他の使徒達の様な自然な形での入信、訓練、派遣という形ではなく、その全てが一遍に来てしまったという意味で突然回心したクリスチャンであった。復活したキリストご自身にお会いしたのも最後であって、他の使徒達は復活後40日以内にお会いしたのに、パウロがお会いしたのは、それから約4年後である。その意味では番外である。だから「使徒の中では一番小さいもの」という。これは言葉の上の謙遜ではなく、心からそう思っていた。エペソ3:8−9で「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え・・・るためにほかなりません。」と言っていることからも明らかである。

・「神の教会を迫害した」私:
パウロは自分を神の教会を迫害した赦すべからざる大罪の張本人として、描いています。それが自分の良心に基づいた行動であったと自己弁護する風もありません(その面が無くはなかったのですが・・・)。キリストなき過去の生涯と行動が如何に罪深いものであったかに関する深刻な自覚が、パウロの恩寵感の基礎でした。第一テモテ1:15にも、その罪深さを悔いているところがありますので参照しましょう。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」更にガラテヤ1:13にも「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。」とその乱暴な教会荒らしの態度を悔いています。

・神の恵みによって救われた私:
恵とはギリシャ語でcharisと言います。これはchairoo(喜ぶ)から派生した名詞で、顧み、親切、恩沢という意味です。新約聖書で155回使われ、内133がパウロ書簡に出てきます。この恵が神に結び付けられると、「相応しくないもの、価値のない者に無代価で与えられる神の愛の賜物」と定義されます。パウロは、神の愛を受ける価値も無かったどころか大きな罰を受けて当然の人間でした。そのパウロに対して、神はキリストの十字架の功に免じて、全き赦しを与えなさったのです。パウロはエペソ2:8で「恵みの故に、信仰によって救われた」と語っています。私達の救いは、徹頭徹尾神の恵みによるのです。何も誇ることはない、一方的な神の恵みによるのです。神との関係の土台は恵みです。恵みだけです。恵みを讃えましょう。ある人は信仰によってとあるから、信じる私達の行為も大切と言います。しかし、信じる力も元々恵みによって与えられたものです。それを活用するかどうかは私達の決断ですが、その決断力とか、どうやって恵みを捉えたかという心の遍歴が誇りの対象とはなりません。ウェスレーは「信仰とは、神の恵みを空っぽの手で受け取ること」をと言っています。

・使徒に任じられた私:
神は、何の実績もない、それどころか反抗していたパウロを敢えて信任して宣教師として用いて下さいました。使徒9:15には、「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」と救われた直後に、もう宣教師として召しなさいました。1テモテ1:12にも「キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」と言っています。人に信用されると言うのは驚くべき恵みです。特にパウロの場合は海のものとも山のものとも付かないうちに、いわば、先物買いのようにして、主は彼の可能性を信じて一気に使徒と任命なさったのです。私達が今ある立場、責任をよくよく考えると、どうしてこんな者がこんな立場にいるのだろうか、とか、どうして、私に出来ないような仕事が与えられるのだろうかと正直、不思議に思います。しかし、それは神の間違いではなく、神の信頼の証です。私が付いているから、君ならやれるよ、という信頼が注がれているのです。これも恵みです。神が任命なさった時から、第一コリント書を書くまでに約20年が経っていますが、パウロが弱いときに強くし、迫害に遭ったときに一緒にいて助けを与え、心挫けるときに新しい力を与えてくださいました。
 
2.恵みによる勤労
 
 
パウロは「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と、自分の働きは誰にも負けなかった、と正直な告白をしています。

・「恵みによるのだから怠ける」のではない:
恩寵の強調が怠惰への言訳に陥る危険があります。私はいい加減でも主は万事良くして下さる、という誤った恩寵感です。試験勉強などしなくても、いざとなれば神は助けてくださるという便利な、自分勝手なご利益主義が、案外私達の真面目な信仰生活を妨げています。パウロはそう考えませんでした。恵みが溢れているから、誰よりも多く働こう、と考えたのです。

・「恵みによるのだから、律法はいらない」のでもない:
また、全てが恵みによるのだから、生活はいい加減でも良い、むしろいい加減のほうが恵みを感じることが出来るという誤った考えも起き得ます。パウロは、ローマ書の中で、この考えに対して「恵みが増し加わるために、罪の中に留まるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:1−2)と厳しく叱っています。ウェスレーの時代には、あからさまなアンティノミアン(律法廃棄論者)という人々がいました。神は私達のあり方がどうあっても恵んでくださるのだから、真面目な生活は必要ないという考えが教会を毒していました。

・「恵みを頂くための勤行」でもない:
恵みの誤解からですが、より大きな恩寵を得るために厳しく修業をするという誤った律法主義も存在します。私達は「恩寵の手段」を強調しますが、これは、私達の正しい行いの対価として恵みが与えられる、というのではありません。恩寵の手段というのは、神が恩寵を下さりやすいような姿勢を私達が取るという意味での手段です。ジャーの水をコップに注ぐとき、コップを低い位置に置く、というのと似ています。

・恵みは勤勉を齎す:
恵みを深く感じたパウロは、恵みを受け放しにはしない、むしろ、私は誰よりも勤勉に働いたと告白します。「働く」(kopiaw)とは、叩くと言う語源から来ており、疲れる、疲れて倒れるまでに働く、と言う意味です。その努力、戦略の雄大さ、結実のどの面から見ても、パウロの働きは群を抜いていました。他の誰よりも抜きんでて、誰にも負けないほど、と自分で言っています(perissoteron=more abundantly)。その努力、戦略の雄大さ、結実のどの面から見ても、パウロの働きは群を抜いていました。ローマ15:17−20には、「それで、神に仕えることに関して、私は・・・誇りを持っているのです。・・・私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」と語っています。
 
3.恵みが内側で働く
 
 
第三は「そのような心構えを齎す恵み」です。

・恵みが内側で働く:
パウロは「多く働きました。」と言った後で、「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」とここでまた恵みを強調しています。新共同訳では、「働いたのは、実は私ではなく、私と共にある恵みなのです。」とその辺を強調しています。パウロは、恩寵を感じる人間になった、その恩寵感から一生懸命働く人間になった、でも、その私が偉いのでは無い、素晴らしいのは私のうちに働いている恵みなのだ、といっているのです。徹頭徹尾恵みなのです。どんなに私と家庭が恵まれましても、その恵みを自分固有のものとして誇ってはならない、その恵みの与え主だけが誉めたたえられるべきなのです。コロサイ1:29では、「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」と語っています。

・奉仕へのプレッシャーからも解放されよう:
奉仕を行わなければ信仰が増進しない、というプレッシャーも恵みに逆行するものです。シーモンズを引用します。「奉仕をすることで恵みのお返しをしようとしている人もいます。・・・しかしどのケースを見ても、彼らの生涯に喜びと満足を見いだすことはできませんでした。むしろ神に対してある種の怒りがありました。『悔い改めた人たちは、一時代、つまり十年を経過すると、簡単にパリサイ人になってしまう』のです。」神の愛が欲しくて奉仕するのではなく、感謝の自然の現れとしての奉仕のみが貴いのです。
 
終わりに
 
 
一年を終わり、新しい年を迎えようとしています。この年、与えられた恵みを心から感謝しましょう。そして、来る年のためにも、主は更にまさる恵みを用意しておられることを覚えましょう(ヤコブ4:6)。

これから聖餐式に臨みます。聖餐式に表れた神の恵みを思い巡らしましょう。主は私たちが罪人であった時、反抗的であったとき、いのちを捨ててくださいました。十字架で肉を割き、血を流してくださいました。これ以上の愛をどこに見出すことができるでしょうか。この十字架のゆえに「今の私」があります。心からの感謝をもって聖餐のテーブルに与りましょう。
 
お祈りを致します。