礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年1月6日
 
「将来と希望を与える計画」
年頭礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
エレミヤ書29章1-14節
 
 
[中心聖句]
 
  10,11   バビロンに七十年の満ちるころ、・・・あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ29章10,11節)


 
聖書テキスト
 
 
1 預言者エレミヤは、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、エルサレムから手紙を送ったが、そのことばは次のとおりである。2 ――これは、エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たちが、エルサレムを出て後、3 ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカデネザルのもとに、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、次のように言っている。
4 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。6 妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」
8 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。――主の御告げ。――」
10 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。14 わたしはあなたがたに見つけられる。――主の御告げ。――わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。――主の御告げ。――わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
 
始めに
 
 
明けましておめでとうございます。世界も日本国内の政治・経済の動きを見ると、前途洋々とはいえないような、厳しい年でしたし、それが容易に改善される見通しもなくて新年を迎えました。しかし、環境が厳しければ厳しいほど、私の心に通うのは、主が約束された「将来と希望」の計画という言葉です。

エレミヤ29章は、「将来と希望をもたらす神の計画」という希望に満ちた預言です。これはエレミヤがバビロンに捕らわれた人々に宛てた手紙の中の一節ですので、先ずその背景を見、それから内容を学び、そして私達へのメッセージは何かを考えたいと思います。
 
A.手紙の書き手:エレミヤ
 
 
1節に「預言者エレミヤは」と記されていますように、この手紙の差出人はエレミヤです。エレミヤは、ユダ王国滅亡の危機に生きた預言者ですが、その生涯を簡潔に紹介します。
 
1.成育(BC647−627)
 
 
・祭司ヒルキヤの子としてアナトテで成育
 
2.改革の預言(627−609)
 
 
・預言者に召される(ヨシヤ王の13年)

・ヨシヤ王(640−609)の改革深化を訴える
 
3.ユダ弾劾の預言(609−586)
 
 
・三度のバビロン捕囚
@606:王侯貴族
A597:エコヌヤと指導的な市民(29章は、この後)
B586:全市民

・四人の悪王
@エホアハズ(609−608)
Aエホヤキム(608−597)
Bエホヤキン(エコヌヤ)(597)
Cゼデキヤ(597−586)

・バビロンへの降伏を主張したために国賊扱いを受け続ける
 
4.イスラエル回復を預言(586−570頃)
 
 
・エルサレム残留の人々を励ます

・エジプトに連行され、石打ちに(70−80歳頃)

エレミヤは、「涙の預言者」と呼ばれます。真の愛国者として、国のために祈り、その最善を目指して預言しますが、指導者はじめ人々にも理解されない悲劇的な生涯を送ります。バビロンの王ネブカデネザルに屈服しなさいというエレミヤの発言は、確かにゼデキヤと取り巻きにとって非国民的な危険思想であったかも知れませんが、客観的情勢から見てこれは正に妥当なものでした。
 
B.手紙の受け取り手
 
1.597年のバビロン捕囚の民
 
 
手紙の背景は2節に「エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たちが、エルサレムを出て後」とあります。つまり、597年の(第二次)捕囚の直後と考えられます。この時の捕囚は大規模で、有力な市民の殆どは連れて行かれました。その中にはユダ王のエコヌヤが入っていました。エゼキエルもその一人です。エルサレムに残ったのはゼデキヤ王と下層階級の僅かの人間だけでした。
 
2.手紙の運び人:エルアサとゲマルヤ
 
 
これは3節に記されています。エルサレムにバビロン傀儡の王として立てられたゼデキヤが何かの用事で、バビロン王に手紙を送ったのでしょう。その運び屋であるエルアサとゲマルヤという王の家来に託したものと思われます。
 
3.受け取り手の状況
 
 
先にバビロン捕囚として連れて行かれたイスラエル人は、偽預言者たちの影響を受けて、この捕囚から早く解かれて故郷に戻れると言う淡い夢を抱いていました。その希望の故に、異郷の地バビロンに馴染もうとはせず、落ち着かない生活を送っていました。定まった仕事も住居も求めずに、難民的な腰掛けの態度で生きていたのです。偽りの預言者たちとは、ゼデキヤ王とその取り巻きを喜ばせようとした人々のことです。彼らは、神のみ告げと称して、エルサレムの不滅を預言します。その主張の根拠は100年前のイザヤの時代に奇跡的方法でエルサレムが守られたという点ですが、昔の勝利により頼んで現在も大丈夫という思想は、神風信仰にも通じる迷信思想です。ゼデキヤ王はバビロン王によって立てられた傀儡政権でしたから、バビロンに屈服するより他に道はなかったのですが、これらの偽預言者達の影響を受けて、愚かにも抵抗を試みます。実際には、その努力も虚しく、エルサレムとユダは壊滅的に破壊され、全国民はバビロンに連れて行かれます(586年)。
 
C.手紙の内容
 
 
さて、エレミヤの手紙の内容に入ります。
 
1.バビロンに定着せよ(5−7節)
 
 
・仕事も家庭も根を下ろしなさい:
エレミヤは言います。積極的には「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(5−7節)一言で言えば、バビロンで落ち着きなさい、と言う点に尽きます。バビロンに根を下ろし、その地で繁栄し、将来の帰国の為の地ならしをしなさい、将来に備えて今は力を蓄えなさい、と勧めているのです。

・バビロンの繁栄を求めよ:
それよりもっと積極的な勧めは、バビロンの繁栄を求めなさいというものです。つまり、あなた方自身が捕囚の地で繁栄するだけではなく、あなた方の存在によって、その地域が繁栄するように祈りなさい、というものです。これも思い切った発言です。異教の神々に満ち、世界制覇を試みて他の民族を残酷に扱うバビロン、どこから見ても好感度ゼロの国と町々の繁栄を祈れと言うのです。これをクリスチャンに当てはめてみましょう。私達はこの地上生涯というものは仮の宿であり、本当の家は天国にあると信じています。ですから、地上的なものに固執すべきではありません。でもこの考え方が行きすぎると、世に対して否定的、消極的な態度を取ってしまうことがありえます。町内会?どうせお祭りの為にしか動かないから私は参加しない。クラスコンパ?どうせ飲むだけだから私は欠席する。日本の政治?どうせ狐と狸の世界だからクリスチャンは加わらない。とこういった態度は如何でしょうか。私はエレミヤのスピリットから言えば、違うと思います。私達はたとい罪に支配されている世の機構であろうと私達の存在を通して祝福されることを信じ、その為に祈るべきであります。
 
2.神のご計画に眼を留めよ(10−11節)
 
 
・神は壮大なご計画を持ち給う:
勧告の根底にある約束は、神は素晴らしい計画を持ち給うということです。「まことに主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』」(10−11節)「私は」というのは「偽の預言者が私の思いを知っている筈はない、私(主)だけだ」と言う強調があります。人間のアイデアではなく、神が主体的にご計画をお持ちなのです。イスラエルの民の福祉、特にその故国への復帰に関する神の御心の目的や決意については、神ご自身がよくご承知であり、神はそれを忘れ給わず、時に至って実行なさるのです。私達人間の創造的な工夫や努力や互いの論議が不必要というのではありません。でもそれらの人間的なイニシアチブが先行するのではなく、神のみ心が先行するのです。私達の議論というのは、それを確かめるためのものです。神はイスラエルを愛しておられ、善意に満ちた計画を持ち、それを実行なさるのです。それだけではなく、民の一人ひとりのために素晴らしい計画を持っておられます。

・それは「平安」を与える計画である:
「平安の計画」とは、事柄を悪く考える悲観主義との対比で述べられています。ユダヤ人は最初のうち神の刑罰なんてと嘲笑いました。それが実際に訪れると、早くそこから脱出したいという虚しい願望を持ちました。その確信が打ち砕かれると今度は絶望にと落ち込みました。その心の動きのすべてに活ける神への信頼が欠如していたのです。神は、バビロンにいるユダヤ人に関して、「平安(シャローム)」を与えなさる計画を持ち給います。シャロームとは、満ち足りた状態、欠けなき状態を示します。現在と将来の平和と繁栄のものです。彼らの捕囚さえも彼らの善に繋がるのです。祝福とは、物質的なものも含みますが、基本的には霊的なものです。刑罰を通してではありましたが、彼らが真に神に立ち返る祝福を意図しています。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」(エレミヤ24:5−7)

・それは、明るい希望を与えるものである:
それは、近い未来と遠い未来の祝福を約束します。近い未来とは「70年後に捕囚が解かれる、そして帰国が可能となる、故国の復興と繁栄が与えられる」というものです。尤も、これはその当時の中高年には実現しないような将来のお話です。バビロン捕囚が終了したのは536年、つまりこの手紙が届いて50年くらいの将来ですから、その時の中高年は自分の目では回復を見ない訳なのです。でもこれが慰めと希望を与えたのは、イスラエル民族が個人としてではなく、民族として一体的に彼等の歴史を考えていたからです。さらに、遠い将来とはメシアの来臨と贖いの成就です。主は、長いスパンで物事を進め給うことを覚えましょう。私たちの教会の為に主が近未来と遠未来に大いなる祝福のご計画をお持ちであることを信じています。今までの恵を数えること、その良き伝統を感謝することは、一面大切ですが、それにこだわりますと、恵が偶像になります。神は私達に「将来と希望を」与える神です。今までの事を感謝しつつも、「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:18−19)と仰るお方です。主を見上げましょう。将来を見据えて、フレッシュな、想像もつかないほどの大きな恵を期待しましょう。
約束を頂く条件は12―14節に記されています。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。・・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」と記されています。心を尽くして民が神を求めるならば、神はそれに聴き、彼らも神を見いだすのです。ここで指示されている動詞はみな真実な、真っ直ぐな、真剣な、専一な心の態度です。神の素晴らしいお約束の成就の為に私達がなすべき事は、祈り、求め、探すことです。心を尽くして民が神を求めるならば、神はそれに聴き、私たちも神を見いだすのです。

 
3.計画成就のために祈れ(12―14節)
 
 
約束を頂く条件は12―14節に記されています。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。・・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」と記されています。心を尽くして民が神を求めるならば、神はそれに聴き、彼らも神を見いだすのです。ここで指示されている動詞はみな真実な、真っ直ぐな、真剣な、専一な心の態度です。神の素晴らしいお約束の成就の為に私達がなすべき事は、祈り、求め、探すことです。心を尽くして民が神を求めるならば、神はそれに聴き、私たちも神を見いだすのです。
 
終わりに:計画を持ち給う神を認め、その成就を祈ろう
 
 
「平安と将来を与える計画」という言葉を、安直なご利益への約束と言う風に解釈しないで下さい。そうではなくて、神の計画、神の時に適って物事が動いて行く、神の方法で物事が進む、神の目的を果たす為に歴史も人生も動いて行くという信仰こそが重要なのです。主は大きなご計画をお持ちですし、それを実行なさるお方ですが、それでも尚私達の祈りを必要としておられます。私達が嫌がる神様を拝み倒して私達の方向に強制するのがお祈りではありません。主の前に謙り、主の御心の成就を願うのが祈りです。この年、この素晴らしいご計画を信じてもっと祈るものとなりましょう。そしてもっと神の栄光を顕わす者となりましょう。
 
お祈りを致します。