礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年1月20日
 
「御霊と知恵に満ちた七人」
教会総会に向けて
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き6章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  3   あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。
(使徒の働き6章3節)


 
聖書テキスト
 
 
1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。
 
始めに
 
 
来週は、教会総会を迎えます。1948年、丸の内で発足し、広尾を経て、65年が経過いたします。年輪を数えつつ進んで来ました私たちの群にとって、大切な区切りとなります。総会では、様々な役割の分担がなされます。キリストの体である教会にとって、その体を構成する一つ一つの肢が、適切な役割をもって参加していく姿は、貴いものであり、美しいものでもあります。今日は、初代教会にとって最初の「教会総会」的なものが開かれ、役割分担がなされた使徒6章の記事を取り上げます。特にそこで選任された7人の執事の選任資格を述べる一文から、教会の奉仕に携わるものの一般的資格という角度で学びたいと思います。
 
1.初代教会における問題の発生
 
 
・教会は掛け算的に増えた(1節):
ペンテコステによって誕生したエルサレム教会は驚くような成長を見せました。使徒2章から6章までの時間的経過はごく僅かで、長く見ても1、2年と思われます。互いの交わりも深くせられ、保守的と思われる祭司階級からも信じる人が起き、信徒の数は増えていきました。1節の「増える」という言葉は足し算的に増えるというよりも、掛け算的に増える、つまり、ネズミ算的に増えるという言葉です。素晴らしいですね。

・問題も増えた(5章):
しかし、エルサレム教会で、問題が無かったわけではありません。例えば、アナニヤとサッピラという不真実で世的な信徒がいて、教会の中で高い地位を得ようと画策して刑罰を受けたというケースも置きました。

・差別と不公平の問題::
ギリシャ語人とヘブル語(アラム語)人との誤解と呟き=6章の問題はまたデリケートで、文化の違いという背景を持ったものでした。エルサレムに留まっている信者、特にやもめさんたちに食料の配給が行われていましたが、ギリシャ語を話す国際的なユダヤ人とヘブル語(アラム語)を話す国粋的なユダヤ人との間に、分配が不公平ではないかという呟きが起きました。そしてこの問題は信徒数の増加に比例して増加していきました、エルサレムでは、前者が少数派で、後者が大多数でした。ですから、少数派のギリシャ的ユダヤ人が食糧配給での差別を訴えたのだと思われます。恐らくこれは本当の不公平ではなくて、コミュニケーションの問題であろうと思います。言葉が違うということが不必要な誤解やら憶測を生んで、ああでもない、こうでもないという呟きが発生したのです。食事の準備が終わって、皆さんお出でくださいという声をかけるとき、アラム語が先でギリシャ語が後になった、そんな程度のズレが、片方が多くて他方が少ないと言う不公平感を生んだのかもしれません。これは人間の性ですね。

・使徒達の忙しさの問題:
問題のもう一つは、こうした食糧配給という日常的奉仕に対して、霊的な御言の奉仕に当たるべき使徒たちが時間を使われすぎていたということです。彼らは充分な説教の準備をする時間も無く、祈りのときも短くして説教奉仕に当たるというようなところまで来てしまいました。でもこの呟き事件をきっかけに、それはいけないことだという自覚が生まれたことは幸いでした。

 
2.問題解決の知恵
 
 
・解決の知恵:
キリストの共同体としての教会ではありますが、欠点を持つ人間の集まりですから、問題が無い方が不思議です。要は、問題が在るかないかではなく、問題解決の知恵が在るかないかです。

・実際的解決の提案:
食糧配給という恵みのシステムが、逆に呟きを生んでしまったこの事態に直面した使徒達は、御霊の知恵を求め、実際的な解決方法を与えられ、それを会衆に提示しました。それは、奉仕を分担するという至って単純な方法でした。彼らは、教会総会を招集し、このように提案しました。「兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(3、4節)短く言えば、食糧配給係りを決め、ペテロ、ヨハネそのほかの使徒たちは説教と祈りに集中してもらおうと言うことです。その時、使徒たちが係り選任の条件に挙げたのは「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い」人ということでした。選ばれたのが七人の役員(執事=仕える人々)です。
 
3.「御霊に満ちた」人=霊的資格
 
 
・「満ちた」という表現:
「御霊と知恵に満ちた」という表現に注目します。聖書には「満ちた」を鍵言葉として、他の表現もあります。信仰に満ちた人(5節)、恵みに満ちた人(8、15節、7:60)、力に満ちた人(8節)・・・などです。信仰があるかないかではなく、信仰がその人の全人格を包んでいる場合に、「信仰に満ちた人」というのです。

・御霊に満たされる経験:
色々な特性に満たされるその中でも、一番大切なことは御霊に満たされているということです。5、10節などを見ると、御霊と信仰とか御霊と知恵とか、御霊が中心で他の特性がコンビとなっている例が多いからです。さて、聖霊に満たされるとは、聖霊の部分的ご支配や影響を受けているというよりも進んで、内に住み給う聖霊が、十分に、そして自由にそのお働きをなさることを意味します。アボット博士の定義によれば、聖霊のみたしとは「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。別の言い方をすれば、一個の人格が他のお方の人格に道を譲るという経験であり、人間の人格性が神の人格性に浸透される経験、もはや自分ではなくキリストが生きると言う経験なのです。

・明け渡しが条件:
すべての信仰者は御霊の働きを既に頂いています。御霊によって私たちはイエスを主と言い表わし、御霊によって私たちは新しい命が与えられ、神の子供であることを保証されています。ただ、そうは言いましても、私たちに肉の思いが残っている限り、その思いは御霊の思いと逆らい、しばしばその二つがぶつかってしまうことがあるのです。御霊に満たされるとは、自分の主義・計画・やり方・プライド・そのほか自分はこれがなければと固執しているものを、全部主のご支配に委ねることです。私達の側で、「聖霊なる神よ、どうぞ私の心を治めてください。あなたが命令することは喜んで何でも従います。あなたが行けと仰るところには、喜んで行きます。あなたが止めなさいということは、私の主義に合わなくても止めます。」委ねるとき、御霊は満ちてくださいます。私達はこのような意味での明け渡しをしましたか。それを続けていますか。
 
4.知恵に満ちた人=実践的資格
 
 
・実践的知恵:
知恵に満ちた、とは御霊による知恵に満たされたと理解することが出来ます。人間的な賢さや、世渡りの上手さではなくて、御霊が教えてくださる知恵に満ちた状態、それが実際生活に生かされる状態を表します。

・御霊に導かれた知恵:
御霊が知恵と結びつくとはどんなことでしょうか。それは、私たちがクリスチャン生活を送っているときに、一つ一つの決定を祈り深く行なうことです。私たちは、忙しさの中でついつい自分の気分や考え方でものを言ったり、決定したりしてしまいます。その時、ちょっと立ち止まって、主のみ旨を確かめそれに従おうとする態度が必要です。それがあるかないかで私たちの行動や言葉に大きな差が出てきます。御霊に導かれた知恵を実際生活の中で体験し、それを育てましょう。
 
5.「評判の良い人」=社会的資格
 
 
・評判の信頼性:
誰かが御霊に満たされているかいないか、これはかなり主観的な要素が入りますから、見分けるのが難しいかもしれません。しかし、「評判が良い」という基準ですと、割合客観的に判断できます。100人の人が異口同音に、あの人は良い人だと太鼓判を押す場合に、殆ど間違いはありません。逆に半分以上の人が首を傾げる時は、かなり、疑って掛かる必要があります。もちろん、御霊に満たされつつ、世の悪評を受ける場合もありますし、また、正義のために評判を無視して戦わねばならない場合もありえます。しかし、一般的に言って、人々、特に信仰者の評価というものは、信頼できるものです。この評判の良いとは、テストされた、とか証しされたという意味です。ですから、世評という一般的意味よりも、「信仰者の間で証の立っている」という風に取る方が自然でしょう。第一テモテ3:7には監督の資格の一つとして、「教会外の人々にも評判の良い人で無ければなりません。」と記されています。とても興味深いことです。
 
6.有資格者が7人
 
 
・候補は直ぐに挙がった:
今日心に留めたいことは、このような条件の人と言われた時に、直ぐ7人の候補が上がったことです。5人までは良いが後どうしよう、ではなかったのですね。また、7人ぎりぎりでもなかったようです。つまり、このような資格を持った人々が多く存在していたのが初代教会であり、その故に初代教会は成長したと見たいのです。

・使徒達の承認:
これら7人が直ぐに推薦され、そして使徒達によって任命されました。とても美しい画です。いわゆる完全な選挙でもなく、完全な上からの任命でもなく、その二つが合わさったところに妙味があります。

・教会の更なる前進:
7人が選ばれた結果、教会は更に力をもって前進していきました。私たちも総会を迎えますが、そのような結果を期待しましょう。
 
終わりに:私たちもみな「7人」のように!
 
 
来週、教会総会を迎えます。色々な係りに選任される方もあるでしょうし、そうでもない方もあるでしょう。選任されるかどうかは別として、私たちは、御霊と知恵に満ちた評判の良い人のリストに、主の恵みによってぜひ加えていただくよう祈りましょう。
 
お祈りを致します。