礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年2月3日
 
「互いに仕え合う」
教会総会を越えて
 
竿代 照夫 牧師
 
第1ペテロ4章7-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10   それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
(第1ペテロ4章10節)


 
聖書テキスト
 
 
7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。
 
始めに
 
 
昨週、第65次教会総会を持ちました。総会に向けて、1月20日には、使徒6章から「指導者の資格・条件」について、総会当日の20日には、キデオンの物語から「それぞれの持ち場」について学びました。

今日は総会に関わるシリーズの終わりとして、教会というキリストの体の中で、それぞれが異なる賜物を用いて仕え合う、という大切な真理を学びます。
 
■「終わり」の近さを意識しつつ、ペテロは5つの勧告をする
 
 
今日のテキストは「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(1ペテロ4:10)です。これは、7節の冒頭にも記されているように、終わりの時代を意識しながら行っているペテロの勧告の一部です。

ペテロが「万物の終わり」と言っているのは、もちろん主の再臨とそれが齎す審判、万物の更新の出来事です。特に、終わりの前段階として主イエスが指摘されたエルサレムの崩壊が迫っていました。この手紙の著作が64〜65年と言われていますから、その5〜6年後に迫っていました。ペテロは終わりを意識しながら、クリスチャンの聖い生活について5つの勧告を行っています。

1.祈ること(7節):
落ち着いた気持ちで=「心を整え、身を慎みつつ」新共同訳では「思慮深く振舞い、身を慎んで」となっています。いい加減な気持ちや、焦った気持ちで祈るのではなく、祈りのために生活をきちん整える注意深さを勧めています。

2.愛し合うこと(8節):
真実に愛を注ぐ=「熱心に」「心を込めて」愛し合うことが次に勧められます。互いのために、少々心に留めて愛を示すと言うのではなく、真実に自分のことのように他人の重荷を負い、愛を注ぎなさいと勧められています。「愛は多くの罪をおおう」とは、罪を許容することでは無く、愛のゆえに赦しが示されることを意味しています。

3.もてなしあうこと(9節):
呟かず、親切に=「呟かないで、互いに親切に」、「不平を言わずに」という言葉が付け加えられています。私たちは、とかく表ではにこやかに振舞いつつも、内心では「この人は長居するなあ」とか、「これだけ親切にしているのに、感謝の念が乏しいなあ」などと客人に呟くものです。ペテロは、その傾向を知っているのでしょうね。「呟かず、親切に」と言うのです。

4.互いに仕え合うこと(10節):
各人の賜物を活かしつつ=「それぞれが賜物が与えられているから」が仕え合う前提です。賜物とは、み父が他人に祝福を与える目的を持って私たちに与えてくださった能力のことです。「それぞれが」とありますように、私たちは皆例外なく、何らかの賜物を与えられています。しかも、それは自分を喜ばすためで無く他人に祝福を与える目的で与えられているのです。ですから、自分の利益や名誉のためにそれを使うのではなく、「良い管理者として」、つまり、神からの預かり物という自覚をもって、その賜物をもって仕え合う必要があるのです。

5.奉仕すること(11節):
御言を語るもの、仕えるもの、それぞれに相応しさをもって=10節の賜物の二つの例として、互いに仕えることの必要が勧められています。語る人は、神の言葉を語る人間らしく、権威をもって、しかも自分の考えを交えず、主の御心のみを伝えるという抑制をもって語るべきです。仕える人は、「神の豊かな力を信じて、それらしく」、つまり、自分の肉体的力、財的力は神から与えられたものとの自覚をもって、惜しむことなく、また、謙りをもって仕えるべきです。

この一つ一つの言葉は、実にペテロらしい、行き届いた勧告です。さて、今日は、10節の御言に絞って、その意味するものを考えたいと思います。
 
■「互いに仕え合うこと」(10節)
 
 
A.賜物:「それぞれが賜物を受けている・・・」
 
 
1.賜物(カリスマ)とは:神の恵み(カリス)として与えられたもの
賜物とは、ギリシャ語のカリスマと言う言葉の翻訳です。カリスマというと、カリスマ美容師とか、カリスマ指導者とか、特別に秀でた能力をもった人のような言い方が流行っていますが、もともとは聖書から来た言葉です。さて、カリスマは、カリス(恵み)と言う言葉から派生した名詞で「恵みとして与えられたもの」という意味です。10節の中で、「神のさまざまな恵み(カリス)の良い管理者として」と説明されています。この場合の恵みは、賜物とほぼ同じ意味です。何かの価値があってとか、何かの報酬としてというのではなく、何の価値もなく、何かの努力の報いとしてでもなく、ただで与えられたものです。それは、「それぞれに」与えられています。この言葉は、賜物の無い人はいないこと、それは、各人異なっていること、そして、それは、自分の賜物の素晴らしさを自慢するためではなく、他のために使うべきことを示唆しています。まとめて言えば、賜物とは「御霊によってクリスチャン一人一人に恵みとして賜わった奉仕の為の力」と言い表すことができましょう。

2.賜物の目的:教会を立て上げるため
賜物の目的は「奉仕のため」と言いましたが、もっと具体的には、キリストの体である教会を立て上げるためです。自分の偉さを見せびらかしたり、自分の願望を満たすためのものでは決してありません。丁度家を建てるのに、ハンマーや鋸や鉋などの違った道具が必要なように、私達の違った力が相協力して教会が立て上がって行くのです。

3.賜物の内容
賜物の内容は千差万別です。第一コリント12章、エペソ4章、ローマ12章を綜合しますと、少なくとも18の賜物が見出されます。これを働きの分野に応じて分類すると下のような表になるでしょう。

<聖言を伝えて群れを導く>
@使徒職=教会の基礎を据える
A預言=神の言葉の説教
B伝道=福音を伝えて、人々を救いに導く
C勧め=信徒的な立場で聖言を取り次ぐ

<群れに対する助言や教え>
D知恵=知恵を生活に適用する
E知識=神に関する知識を教える
F牧会=群れに対するケア
G教育=群れを教え、導く

<群れの管理的な務め>
H指導=教会の行政にあたる
I奉仕=教会のこまごました奉仕

<与える務め>
J分け与え=信徒同士の助け合い
K慈善=教会の外の人々への助け

<特別な助けを与える>
L信仰=目に見える結果を齎す信仰
Mいやし=病人を治す力
N奇蹟の力=超自然的な出来事を齎す力

<霊的な識別>
O霊の識別力=聖霊の働きか否かを見分ける
P異言=習ったことのない言葉で神の恵みを語る
Q異言の解釈=異言を説明する力

この他にもたくさんあるでしょう。これらが、もって生まれた性格や能力とかに無関係ではないと思いますが、「神から与えられたもの」であることには変わりありません。それらの究極的目的は、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるため」(11節)です。
 
B.賜物の管理者:「神のさまざまな恵みの良い管理者として・・・」
 
 
1.管理者:家の仕切りを委ねられた人
管理者(ギリシャ語でオイコノモス)とは、家の仕切りを委ねられた人です。これは、オイコス=家とメノー=留まるからできた合成語で、家を司る物、家の面倒を見るもの、多くの僕たちを統率するもの、という意味です。ヨーロッパなどでは由緒のある大きな家の仕切りをする執事(ストュアード)のことを指すようになりました。日本には、このような執事を必要とする家は余りありませんが、番頭さんとか支配人というイメージでしょうか。

2.管理者の責任:賜物を主のために活用し、栄光をお返しする
主イエスの譬えの中に、管理者という言葉はたくさん出てきます。主人が帰ってくるときに、家の事柄をきちんと整えておく良い管理者の譬えがその典型です。家の財産は主人のもので、それを暫く預かったものとして大切に管理し、増やし、最後にはご主人に返すというのが執事の責任です。信仰者すべては、神からすべてのものを預かったものとして大切に扱い、活用し、そしてお返しする責任を持っています。このイメージから、クリスチャンの生き方の基本として、ストュワードシップという言葉が生まれました。良い言葉ですね。信仰者は、自分の賜物が、神様から託されたものだという自覚を持って、それを私物化せず、誇らず、卑下もせず、隠しもせず、謙りと大胆さと責任感をもって神のために使い、良い結果が与えられたときには、神にすべての栄光をお返しするのです。
 
C.互いに仕え合う:「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」
 
 
1.仕えるとは:他の必要に応えること
「仕える」(ディアコネオー)とは、テーブルなどで仕えるという言葉です。一番ピッタリしたイメージは、レストランなどで給仕をする姿です。セルフ・サービスの食堂では、食事を運ぶのも、水のお代わりも、食器の片付けも、みんなお客さんがやります。それはそれでよいのですが、少し上のランクのレストランですと、お客さんは何もしません。ウエイター、またはウエイトレスがしっかりお客さんを見ていて、例えば水が少なくなったら、サッとお代わりを入れてくれます。これが仕えるものの姿です。

2.互いに仕え合う:他に仕えること、仕えられることで謙遜を学ぶ
ペテロは、神から与えられた様々な恵みを、他人を活かすために用いなさい、他の人の必要を注意深く見て、ウエイターのようにサッと助けを出しなさい、と言っています。互いにどんな賜物を持っているかを競争したり、比べあうことが目的ではありません。また、自分が崇められたり、満足するためでもありません。ただただ、お互いを活かすため、キリストの体である教会を活かすために私達は賜物を活用します。「互いに仕え合う」とわざわざ相互性を強調していることも忘れてはなりません。「私は仕える専門なのだ。でも仕えられるのは誇りが許さない」というのは矢張りツッパリですね。仕えられることを喜んで受け入れることで、謙りを学びます。私自身、このたびの病を通して、お医者さん、看護師さんたちに仕えられることの有難さを学びました。良い経験でした。教会は他の為に存在しています。私達も他の人のために存在しているのだと言うことを自覚し、実行しますと、教会は活かされていきます。そして神の栄光が現れます。
 
終わりに:二つチャレンジをもって終わります。
 
 
1.私の賜物は何かを確かめよう
私に賜物が一つもないという人はいません。祈りつつ、それを見つけだすことが第一歩です。他の人に評価していただくことも役に立つかも知れません。

2.その賜物を十分に活かそう
私達はその賜物の管理者、つまり良く使うか死蔵するかの責任を委ねられています。賜物は自分のものではなく、主の栄光の為にだけ使うものであり、自分の都合や利得の為に使うものでもありません。また、主が与えなさったのに、自分の都合を並べ立てて死蔵してしまうのは、行き過ぎた謙遜です。ペテロは、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい、と語っているのです。賜物は一度に全部与えられるのではなく、使う度に強められ、必要に応じて増し加えられます。それを信じ、より頼みつつ仕えましょう。先日の総会の時に、奉仕チームへの申込書が配られました。奉仕チームは、私達の賜物を活かす形の一つです。ぜひどこかのチームにはまって、皆さんの賜物を発揮してください。ボンヘッファーの「奉仕」についての説教から引用して終わります。「いずれの共同体の生活の中にも、助けを必要とする小さな事は沢山あるものである。誰でも、そのような小さな奉仕をすることを余り喜ばない。極めて小さな、外面的な援助を実行することによって生じる時間的な損失を心配する人は、多くの場合、自分の仕事を余りにも重大に考えているのである。われわれは、神によってわれわれの仕事を中断させられる用意がなければならない。」
 
お祈りを致します。