礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年3月3日
 
「父の約束」
使徒の働き連講(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き1章1-8節
 
 
[中心聖句]
 
  4,5   エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。
(使徒1章4-5節)


 
聖書テキスト
 
 
1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
はじめに:「使徒の働き」について(メモ参照)
 
 
「使徒の働き」連講に導かれた直接のきっかけは、聖別会の準備においてです。グレイトハウス氏がその著書「主が『聖』であられるように」の中で、「『使徒の働き』の中で経験された聖化を、神学的に説明しているのが書簡である。」と記しているのが心に留まりました。今まで、ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、テサロニケ、など多くのパウロ書簡を取り上げてきましたが、その歴史的原点である「使徒の働き」に戻ることに意味があるのでは、と示されたのです。そこには、救いや聖化を経験した初代教会の聖徒たちの証が詰まっています。その様な角度から「使徒の働き」を辿りたいと思いますので、詳細にわたる講解ではなく、飛び飛びになるかと思われますが、ご理解いただいて、私と共に「使徒の働き」の旅を致しましょう。

使徒の働きの梗概については、別紙のメモに記しました。細かい解説はせず、今日のテキストに入りたいと思います。

※メモ「使徒の働きについて」は、こちらをクリックして下さい。
 
A.テオピロへの献辞(1−3節)
 
1.テオピロという人物
 
 
テオピロとは、使徒の働きメモにも記しましたように、或るローマの高官で、キリスト教の理解者(シンパ)であり、かつ、「使徒の働き」の著者であるルカのリサーチを助けたスポンサーであったと思われます。ルカ1:1−4を読みましょう。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」ここに、ルカとテオピロの関係、ルカのリサーチの態度が良く記されています。
 
2.ルカ伝の続きとしての「使徒の働き」
 
 
・ルカ伝:
さて、「使徒の働き」に戻ります。1−2節でルカは、ルカ伝の記述を纏めています。つまり、ルカ伝では、イエスの伝道活動から、十字架、復活、そして昇天まで記したことを述べます。

・復活の確かさの証し:
続いて3節では、復活の確かさが証しされたことを強調します。「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」復活というのは、誰かがでっち上げた神話ではなく、多くの人々が別々な機会に、しかも一ヶ月余りに亘って生き返った主イエスを見た出来事に基づいた事実でした。

・パウロも言及:
ルカの先生であるパウロも、この復活後の顕現が復活の確かさである証であったと述べています。「キリストは、・・・三日目によみがえられ、ケパに現われ、それから十二弟子に現われ・・・その後、五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(1コリント15:3−8)この手紙は、55年に記されました。つまり、キリストの十字架の25年後、「使徒の働き」執筆の6年ほど前です。復活と顕現が、多くの人々の記憶に生々しい衝撃的出来事であり、反論の余地のないほどの確かなものであったることを示しています。
 
B.聖霊の賦与の約束(4−5節)
 
 
その後、主は弟子達に二つの命令と、一つの約束を与えられました。命令とは、「エルサレムを離れないで」いなさいということと、「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」という二つです。約束は、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」というものです。
 
1.エルサレムに留まりなさい
 
 
・留まることの大切さ:
「彼らといっしょにいるとき」とは、ガリラヤにおける顕現なのか、その後のエルサレムにおける顕現なのかは明確ではありません。前者とすれば、「エルサレムに行き、そこに留まり・・」でしょう。後者とすれば、「このエルサレムを離れないで・・」でしょう。いずれにせよ、主は、エルサレムを離れてはいけないと命じられました。これは、色々な意味が含まれていました。当然ながら、エルサレムはイスラエル信仰の中心地です。神殿があり、巡礼者が絶えず訪れてくるところであります。この記事は、3月の過越しが終わって5月のペンテコステが近づいたころのことでしたから、新しい宗教運動が始まるためには最も相応しい場所でした。預言者ミカは、エルサレムの中心的役割について、こう予言しています。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(ミカ4:1−2)

・留まることの困難さ:
しかし、同時に、エルサレムから70kmも北にあるガリラヤに本拠地を持つ弟子達にとって、長期滞在は難しい現実問題でした。何処に泊まるのか、どうやって食べていくのか、易しい問題ではありません。実際、弟子達は、復活の数日後にはガリラヤに戻り、そこで、復活の主との大会合を経験しています。ガリラヤに留まった方がずっと楽です。しかも、エルサレムとは、主を十字架につけた宗教指導者が勢力を振るっている場所でした。

・活動よりも祈り:
主は、それらを全部ご存知で、「エルサレムを離れないで」と命じられました。敵地エルサレム、居心地の悪いエルサレムに留まるのだ、こここそ、新しい運動の始まりを画するのだ、という強いメーセージです。これは、ルカ24:49の「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」という言葉と符合します。エルサレムを離れないとは、祈りに集中しなさいというメッセージでもありました。どんな活動をするよりも、座して祈りなさい、これが主イエスの御心だったのです。
 
2.父の約束を待て
 
 
これは当然、「聖霊のバプテスマ」のことです。聖霊の賦与は、主イエスご自身が何度か預言されました。しかし、何故「父の約束」なのでしょうか。

・旧約の予言:
それは、旧約聖書において、繰り返された聖霊の賦与であることを示します。イザヤ、エゼキエル、ヨエルなどに示されている、大いなる聖霊の注ぎの成就でありますから、父の約束です。

・主イエスが「父の賜物として」約束:
主イエスご自身も、ヨハネ14:16で、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」と語り、み父が聖霊の与え主であることを示しています。」さらに14:26では、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は・・・」と言い、15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊が・・・」とも語られました。
 
3.聖霊によって浸される
 
 
・「聖霊によってバプタイズされる」:
新改訳では「聖霊のバプテスマ」と名詞として記されていますが、元の言葉は「聖霊によってバプタイズされる」(You will be baptized in the Holy Spirit)と、動詞形で表現されています。「聖霊による」とは、聖霊に浸していただくという意味と受け取れます。バプティゾーという言葉は、聖霊によって部分的にではなく完全に影響を受けるまでに浸していただくというニュアンスがあるからです。

・バプテスマのヨハネの予言:
主イエスが、聖霊によってバプテスマを授けるお方であることは、バプテスマのヨハネによって預言されています。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11−12)ここで「聖霊と火とのバプテスマ」と言っているは、二種類のバプテスマを指すのではなく、聖霊が火のように汚れを清める働きを示唆しています。聖書で「火」は、罪や汚れを焼き尽くして「きよめる」と言う意味合いを併せ持っているからです。バプテスマのヨハネが、主イエスのなさろうとするみ業を預言した時、自分よりも深い業をなさるお方として紹介しました。聖霊が臨むとは、人格としての御霊が、ある条件の下に、もう一つの人格としての弟子達のごく近くにおり、また自由に感化、影響を与える関係になることです。

・「聖霊のバプテスマ」は信じたときか、その後の経験か?:
少し、文脈から外れますが、「聖霊のバプテスマ」は信じたときか、その後の経験か?という課題に触れます。
@新生のときという立場:
ある方は、「聖霊のバプテスマとは、新生のときに信じるものの心に聖霊が来り給う最初の業」と考えます。これを示唆する聖句としては、1コリント12:13「一つの御霊によってバプテスマを受け」という表現、使徒2:38「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」などが挙げられます。私の尊敬するきよめ派のリーダー、ホリス・アボット先生もこのように考えます。彼は、「聖霊の満たし」とバプテスマとを区別して、前者は「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給う」より深い経験と考えています。
Aクリスチャンとなった後の第二の転機という立場:
その一方で、「聖霊のバプテスマ」とは、クリスチャンとなった後の第二の転機であると考える人もいます。多くのきよめ派の教科書はそのように記しています。この考えは、信徒である弟子達がこれを経験したところから来ています。使徒8:15−17の記事では、「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかった」グループに対して、「(ペテロとヨハネの)ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」という風に、バプテスマの後で聖霊が注がれたという記事があるからです。私は、聖霊のバプテスマとは、聖霊に満たされる最初の経験であると考えています。

・大切なことは、聖霊が齎す変化:
「聖霊のバプテスマ」という言葉が、やや熱狂的な響きをもって受け取られて、これには関わりたくないという人々がいるのは、それに伴う極端な行き方があるからでしょう。しかし、こうした、いわば枝葉の事を先ず除いて、ここで示される本質的なことに目を留めたいと思います。それは、聖霊が、弟子達、初代クリスチャンたちの心と生活に浸透して、その奥底にあるものを変えなさったという事実です。自己中心を火で燃やし、無私の心で主に仕える魂としてくださったことです。聖霊は、私達がまだ主を受け入れる前から、私達の心に働きかけていてくださいます。信じた後は尚更、御言を通し、良心を通して、或いはメッセージや他人の勧告を通して絶えず語りかけ、影響を与え続けていてくださいます。しかし、私達の中に、ここだけは神様といえどもノータッチという聖域を設けて、主のお働きを拒みますと、その部分だけ、聖霊の感化と影響が及びません。例えて言いましょう。ロウケツ染めという染色法がありますが、ある生地の上に柔らかい蝋で模様を書き、それを染料に漬けます。蝋の部分だけが染料に染まらず、仕上がった段階で蝋を溶かしますと、美しい模様が浮かび上がるという仕組みです。聖霊に対して蝋のような部分をしっかり持って、その自由なお働きを止めていることはないでしょうか。自分の将来、家庭、持ち物、交友、性格、その他どんな分野であれ、これは私のプライバシーだ、これを譲ったら私が私でなくなると言いながら、しっかり確保している分野はないでしょうか。聖霊という素晴らしい染料にしっかり浸り、お委ねしますと、自分ではとても想像もできなかったような「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という素晴らしい模様が出来上がります。聖霊に満たされましょう。
 
終わりに:「もう間もなく」という言葉の慰めと励まし
 
 
・遠い将来ではなく:
主イエスは、この約束をされた時、「もう間もなく」とおっしゃいました。文字通りには「多くの日を経たないうちに」という意味です。「遠い将来に」ではありませんでした。主の贖いの備えは既に完成しており、イメージ的にいえば貯水池のタンクは満ちていたのです。

・しかし、心の備えの無い状況ではなく:
しかし、「直ぐに」ではありませんでした。それは、弟子たちの心の備えができていなかったからです。彼らは、聖霊を待ち望む祈りを通して、自分達の弱さ、足りなさをしっかりと弁え、罪を悔い改め、キリストに全面的に寄り縋る必要があったからです。私たちも心からの明け渡しをもって聖霊に満たされましょう。
 
お祈りを致します。