礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年3月10日
 
「キリストの証人となる」
使徒の働き連講(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き1章4-8節
 
 
[中心聖句]
 
  8   しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
(使徒1章8節)


 
聖書テキスト
 
 
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
はじめに:聖霊の賦与の約束(4−5節)<復習>
 
 
復活の主は、主は弟子達に二つの命令と、一つの約束を与えられました。

・エルサレムに留まる:
主は、エルサレムを離れてはいけないと命じられました。エルサレムこそ、新しい運動の始まりを画するのだ、という強いメーセージです。

・父の約束を待つ:
旧約聖書に予言され、主イエスによっても「父から与えられる聖霊」が約束されていました。それを祈りつつ待ち望むのです。

・聖霊のバプテスマを受ける:
それは、聖霊によって全面的に浸されることでした。聖霊が、もう一つの人格としての弟子達に保留のない程近く、また自由に感化、影響を与える関係になることです。聖霊が、弟子達、初代クリスチャンたちの心と生活に浸透して、その奥底にあるものを変えなさったという事実です。一言で言えば自己中心のあり方を火で燃やし、無私の心で主に仕える魂としてくださったことです。P>
今日は、7−8節から地上における主イエスの最後の言葉を学びます。それは、@聖霊が臨むときに力を受けること、Aその時にキリストの証人となること(地元から始まって世界の果てまで)でした。第一の約束は、先週学んだ聖霊によってバプテスマを受けることと重なっているので今日は第二のキリストの証人となることに絞って考えたいと思います。
 
A.証人とは何をする人か?
 
1.一般的には
 
 
・ありのままの事実を語る:
一般的に言って、証言するとは、その人が見たこと、経験したことをありのまま語ることです。法廷などでは、事実をありのまま隠さず、誇張せず語ることが誓約され実行されます。違反すると偽証罪に問われます。

・個人的な経験として語る:
更に、証言とは非常に個人的なものです。自分自身が経験し、目撃した事実を語ることです。誰かから聞いたとか、自分が憶測したという内容は証言ではありません。自分個人の体験に基づくものです。

・語る内容に命を賭ける:
しかもその証言の為には命を賭けるという真剣さが含まれます(ギリシャ語の「証言する」と「殉教する」とは同じ言葉です)。
 
2.キリストの証人となる
 
 
・キリストの復活を証言する:
特にこの場合は、キリストの証人となるという意味です。キリストの復活の事実を証することが弟子達に託された務めでした。
1:22においてペテロは、「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」と、その務めを自覚しています。
2:32においても、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」と明確に証しています。

・復活が救いの根拠であることを証言する:
単にキリスト復活の事実を述べるだけではなく、復活が十字架の救いの確かさを示すことを証言することも、証しの内容に含まれていました。3:15 「いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」
 
 
 
・復活の主が内住の主であることを証しする:
21世紀に生きる私達にとって、キリストを証するとは何を意味するのでしょう。それは、活きておられるキリストが私達の心の内に住んでいてくださることを証しするのです。キリストが私達の救い主となってくださったこと、そのお方が聖霊によって私達の心に宿り、私達と物語り、私達を導き、慰め、助けて下さっていることが証しの基礎です。

・内住の主による性格の変化を証しする:
その影響で私達の人格がキリストに近いものとして変えられつつあることが、証なのです。2コリント2:15に私達は「キリストのかおり」と語られています。私が香っているぞ、というように香水をつけて香るのではありません。自分で気がつかない形で、私の昔を知っている誰かが、どうしてxxさんはこうなったの、と気づくような証なのです。その時、へりくだって、それは私の修業のおかげではなく、内におられるキリストのおかげですというのが証です。キリストの内住の故に私達の人格が彼に近いものとして変えられつつあること(2コリント3:3が証しの内容です。
 
B.何処で証言するのか?
 
 
ここで主イエスが示された地域は三つのカテゴリーです。つまり、@エルサレム、Aユダヤとサマリヤの全土、B地の果ての三つです。Aをユダヤ全土、サマリヤと分けることも文法的には可能ですが、一つと考えるのがより自然ですし、使徒の働きのアウトラインにも適っています。因みに、先週お配りしましたアウトラインは、エルサレム中心の働きを1:12−8:3、ユダヤとサマリヤ全土を8:4−11:18、地の果てを11:19−21:16と分けています。そして、この三段階で、宣教の在り方が質的に変化していることが分ります。一つずつ見てみましょう。
 
1.エルサレムにおいて
 
 
・旧約聖書の預言の成就:
先週お話ししましたように、救いはエルサレムから始まるべきでした。「シオンから主の言葉が出るからだ。エルサレムから主の言葉が出るからだ。」(ミカ4:2)と預言者が預言したとおりです。実に、「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:47)のが、神のご計画の順序でした。

・同族の間での証し:
弟子たちはそのご計画に沿って、同族イスラエルの中心地エルサレムで宣教すべきでした。実際的に言いますと、エルサレムとは、主イエスを十字架に付けた敵対的な場所でした。実際、弟子たちが福音を宣べ伝えたことによってエルサレム教会が誕生しましたが、同時に迫害も一層増し加わりました。ペテロは鞭打たれ、ステパノとヤコブは殉教し、サウロによって起こされた大弾圧によって信徒は散らされました。しかし、エルサレム教会は、世界中の教会の中心的教会として、しっかり確立しました。それは、エルサレムにおける血を流すまでの証しの代償だったのです。

・(今日的には)家族に対する証し:
今日の私たちにとって、エルサレムとは、私達の居住地域のことです。外にいって大胆に証するのも幸いですが、今いる場所での証が先ず大切です。私たちの生活を一番よく知っており、それゆえに、一番批判的である家族に証しを立てること、それが私たちにとってのエルサレム宣教ではないでしょうか。
 
2.ユダヤとサマリヤの全土において
 
 
・迫害による離散が契機:
エルサレムの次は、隣接する(ガリラヤも含む)ユダヤ全土、そしてサマリヤ全土、すなわちパレスチナ全土です。実際に、弟子たちがどうそれに取り組んだかと言うと、自発的に行ったのでもなく、また、計画して行ったのでもなく、サウロによって始められた大弾圧によって散らされたことから始まりました。十字架・復活から4年ほど経過した時です。人間が、ほおっておきますと、いかに怠惰になりうるかを示す一面です。使徒8:1、4を参照してください。

・信徒による証が中心:
この記事の救いは、迫害という、いわば他律的な契機であったとは言え、信徒たちが散らされた場所で「みことばを宣べ伝えながら巡り歩いた」ことです。彼らは使徒ではなく、一般信徒でした。彼らが、行くところどころにおいて自然な形でキリストの証しをしたのです。これは私たちに大きな教訓と示唆を与えるものではないでしょうか。ローランド・アレンという宣教学者は、「教会の自然発生的な進展」という著書の中で、信徒たちがその仕事を通し、生活を通して自然な形でキリストの話をしたことが教会の進展に繋がったと分析しています。その結果「教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり確立し、・・・信者の数が増えていった」(9:31)のです。

・(今日的には)私たちの社会における証し:
私たちは、職場とか近隣社会とか学校とか、普段の生活の場における証しが期待されています。もちろん、会社の中で教会の話を積極的にするとか、伝道会のチラシを蒔くとか、人々の顰蹙を買うような方法が進められている訳ではありません。自然な形で、何も言わなくても、生活や仕事ぶりという無言の証しを立てることができますし、それが大切なのです。
 
3.地の果てへの証
 
 
・異邦人が「そのまま」救われたことが契機:
福音が世界中に伝えられるべきと主が語りなさっても、ユダヤ人である弟子たちは、すべての異邦人が「そのまま」救われるとは思いつかなかったようです。まず、自分たちと同じように律法を守る民となる(つまりユダヤ教に改宗する)というステップを経て、それからキリストを救い主と信じるというプロセスを考えていたのです。しかし、コルネリオの救いは、その固定概念を打ち破りました。さらに、アンテオケに散らされたクリスチャンが、異邦人にキリストを伝えたら、その場で「そのまま」沢山救われてしまったのです(11:20−21)。これは革命的な出来事でした。救いは、律法の行いによらず、信仰のみによって受け取られるものなのだということが、神学よりも先に出来事によって証明されたのです。

・「異邦人教会」が宣教の拠点に:
そしてそのアンテオケ教会が、この方法でキリストの救いを世界中に広める宣教運動の拠点となりました。彼らは、その教会の指導者であるバルナバとサウロを最初の世界宣教師として派遣しました(13:1−2)。そのサウロ(後の名をパウロ)の活動が使徒の働き後半の中心です。パウロは、帝政を採用し、地中海世界を支配下に置いたローマ帝国全土に福音を広めていきます。彼は、首都ローマでは飽き足らず、その西の果てであるスペインを目指しました(ローマ15:16‐20、28)。使徒の働きには言及されていませんが、使徒トマスは、東の果てのインドを目指し、実行しました。正に使徒たちは、「地の果てまで」キリストの証し人となったのです。

・(今日的には)未伝の地域と人々への証し:
私たちの身の回りから一歩外に踏み出して、福音を聞いたことのない地域と人々への証しをすることを、主は私たちに期待しておられます。もし、宣教師として召されていると感じる方がおられますか。主の導かれる所へはどこへでも、という献身をもって自らを差し出しましょう。
 
C.証しの力は?
 
1.聖霊の与えるきよめ
 
 
弟子達が与えられたのは、第一に清きの力でした(15:9)。2章におけるペンテコステ経験の核心は現象的な事柄よりも心の潔めでした。心が清くされていませんと、どんな立派な奉仕をしても、全部自分の手柄になってしまいます。私達クリスチャンの生活と奉仕において、一番大切なのは、その動機がきよめられるという事です。弟子たちは、どんなことからきよめられねばならなかったのでしょうか。

・政治的野心からのきよめ:
弟子たちは、イスラエルの国を回復されるのは何時ですか、という質問をしました。主は、そこに見られる政治的野心を柔らかく、しかし、はっきりと戒めなさいました。ローマの支配を覆えしてイスラエルを独立させ、ダビデの時の様な王国を樹立するという意味での関心から卒業しなさいと警告されたのです。

・臆病からのきよめ:
弟子たちの宣教を妨げていたものの一つはおくびょうかぜでした。強がりをいう癖に、実際迫害に直面すると脆くも尻尾を巻いてしまうという弱さは、ペテロをはじめ弟子たち共通のものでした。その根底は自己愛です。

・競争心からのきよめ:
だれが一番偉いか、これは弟子たちが終始お互いを引っ張っていた大問題でした。十字架を前にした弟子たちの間で「この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(ルカ22:24)程だったからです。
これらすべての弱さの共通項は、自己中心、自己愛です。それが聖霊によって打ち砕かれ、主を愛し、隣人を愛する愛によって心が満たされる必要がありました。
 
2.聖霊の与える自由
 
 

聖霊のみたしによって、弟子達は大胆な証人になりました。聖霊に押し出され、彼に導かれ、彼の語らしめなさるように語ったのです。2:4には、「御霊が話させて下さるとおりに」とありますし、また、マタイ10:20にも「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話させるあなたがたの父の御霊だからです。」と記されています。聖霊に従って歩んでいる時に、最もふさわしい人物と機会を主が備えて下さる、そして語るべき内容も言葉も備えられるのです。聖霊は人格であり、そのお方と間近く歩む歩みの中で、かれに押し出されて語ることが証なのです。力とは、聖霊と独立した力ではなく、聖霊の持つ力であり、それが彼の内住の故に私達に付与されるのです。ローマ15:19でパウロは、「また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」と語っています。
 
終わりに
 
 
・私たちも「証人であること」を自覚しよう:
主は私たち全員がそれぞれの立場で証人となることを期待しておられます。
終わりに

・証しの力と内容が与えられるように祈ろう:
私たちの持って生まれた熱心さや大胆さは何の役にも立ちません。ひたすら聖霊の満たしとお働きにより頼みましょう。
 
お祈りを致します。