礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年3月17日
 
「自分の命を死に明け渡し」
受難節の霊想
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書53章7-12
ヨハネの福音書12章1-8節
 

 
聖書テキスト
 
 
イザヤ53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しい僕は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
 
ヨハネ12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
 
はじめに
 
 
来聖日はパームサンディ、そして、次の日曜日はイースターです。多くの教会では、イースターに至る40日を四旬節と呼んで、受難の主に対する格別な思い巡らしをもって日々を過ごします。今日は「使徒の働き」連講を暫く離れて、受難節の思い巡らしをイザヤ書に基づいてさせていただきたいと思います。
 
A.注ぎつくす愛(イザヤ書53章)
 
1.イザヤ書53章の成り立ち
 
 
イザヤ52:13−53:12はイザヤ書後半における特徴的な「僕(しもべ)の歌」の一つですが、「第五の福音書」とも呼ばれています。十字架の出来事の数百年前に書かれながら、キリストの苦しみを映画で見るかのようにリアルに描写し、僕の苦難を通して救いが全うされるという意味を深く解説しています。

・前半:苦しみを担う僕(52:13−53:6)=前半部分は私達の痛み・苦しみを担われた僕の姿が描かれています。

・後半:僕の内面の苦しみ(53:7−12)=後半は僕の内面にまで立ち入って苦しみの様子を描いています。
 
2.忍従の僕として(7節)
 
 
・屠り場に引かれて行く羊:
7節を見ますと、僕が黙って従っている忍従の姿が描かれます。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」エレミヤも、自分を「ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のよう」(エレミヤ11:19)と譬えていますが、その羊は非常に受動的です。

・目的を持った忍従:
しかし、7節の羊は、ある目的を持って黙々と、しかも自発的な意思を持って父なる神に従うさまを示しています。その目的は8節で「主の民のそむきの罪のため」であると説明されます。つまり、彼自身の罪のための死ではなく、誰かの身代わりとしての死であります。つまり、「羊のように」というのは、生贄とされる小羊のようにという意味なのです。バプテスマのヨハネが、主イエスに出会ったとき、「見よ、これが世の罪を除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫んだのに符合します。僕は自発的意思をもって自分を明け渡して私達に命を与えて下さいました。彼はじっと苦しみを耐えた受け身の僕というだけではなく、苦しみの中を雄々しく通過し、命を差しだし、明け渡したのです。その能動的な姿勢が12節の「いのちを死に明け渡し」という僕の行為に表れています。
 
3.注ぎつくす僕として(12節)
 
 
・自分をからっぽにする:
12節を読みましょう。「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」「自分のいのちを死に明け渡し」という表現は、ヘブル語ではアラーハで、裸にする、空っぽにする、注ぎだす、という意味です。着ている着物を脱いで丸裸になる、器で言えば、瓶を傾けて水の最後の一滴までも注ぎつくすイメージです。英訳では“He poured out his life unto death.” となっています。新共同訳では「彼が自分をなげうち、死んで・・」と言い表しています。僕が自分の血の最後の一滴までも注ぎ尽くす姿勢を示しています。僕はただ定められたコースに従って黙々とその道を歩んだというだけではありません。この中で、僕は自分を人々の罪の身代わりとして差し出し、その結果、全人類の救いを成し遂げるのです。

・「死に明け渡し」との意味:
それは、「自分の為に何も取っておかない」という意味で、保留しない愛です。また、「これ以上の事は出来ないという限界まで注ぐ」極限の愛のことです。さらに、「自分の持っているもの全てを与える愛」のことです。弟子たちのために、最後まで愛を注ぎ尽くされた主イエスの行動がその現れです。パウロもまた、自分が「注ぎの供え物となっても喜ぶ」(ピリピ2:17)と、自らを注ぎだす姿勢を示しています。十字架の物語は、このような愛があった、それが私にも向けられたと言うことを示す物語です。「我に聞かしめよ」という賛美歌があります。『十字架に掛かりし主の物語、涙に咽びて、我は伺わん』という件がありますが、正に十字架は、圧倒的な主の愛を私たちに示す物語です。
 
B.主の愛に呼応したマリヤ
 
 
己を注ぎ尽くされた主イエスの愛に呼応したのが、マリヤの香油物語です。自分の弟のラザロを生き返らせ、それゆえにご自分が十字架につけられるという危険を招いてまでも、愛を注いでくださった主イエスの愛に応えよう、というのがマリヤの思いでした。受難週に香油をイエスに注いだ物語は3つの福音書にありますが、マタイとマルコとがほぼ共通なのに比べて、ヨハネが微妙に違います。大きな違いはヨハネがエルサレム入城前としているのに比べて、マタイとマルコが受難週の最中であるとしている点です。これについて議論には、今日は余り踏み込みません。三者に共通的な点を見たいと思います。
 
1.場所はベタニヤ村
 
 
・ベタニヤ村(地図参照):
1節には、「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。」と記されています。ベタニヤは、エルサレムの東側、オリーブ山のふもとの小さな村でした(地図参照)。「ベタニヤ」という言葉の意味は、「悩む者の家」「貧しい者の家」です。ハイソの人々が暮らす村ではなく、恐らく、病の人、貧しい人の吹きだまりのような村であったと思われます。

・シモンとその子ども達:
そのベタニヤ村のシモンの家が主イエスの定宿だったようです。マタイ26:6には「ツァラアトに冒されたシモンの家」と紹介しています。シモンは、ツァラアトから癒されていたのでしょうが、人々の偏見は残っていたと思われます。そのシモンには、マルタ、マリヤという二人の娘とラザロという息子がいました。2節に「人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」と記されている通りです。
 
2.マリヤの行動
 
 
・注いだのはマリヤ:
3節を読みましょう。「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」香油を注いだのは、マリヤです。ヨハネ以外の福音書では「ある女」と書かれていますが、恐らく何らかの理由でマリヤを守りたかったのかもしれません。

・ナルドの香油:
注がれた香油は、高価なナルドの香油でした。ナルドとは、インド原産で、寒いところに生える棘状の幹を持つ草のことで、日本語では甘松(かんしょう)と辞書には記されています。その根を絞ると強い香のする油が取れました。

・石膏の壷:
イスラエルではそれを輸入していたのですが、香を逃さないために石膏の壺に封印をして輸送するのが常でした。さらにこの香油は純粋なもの(混ぜものをしていない)という点でも高価なものでした。マリヤは、その石膏のつぼをもって、寛いでいる主イエスの側に近付いて、その壷を割って、300グラム全部を主に注いだのです。

・イエスの頭と足に:
ヨハネは「足に」と言い、他の福音書は「頭に」と言いますが、両方だったのでしょう。油を全部注いだら顔から着物から油まみれになりそうに思えますが、実際はそうならなかったでしょう。彼らはくつろいで食事を取るときには、寝転がって食べていたと想像されます。

・香油の価値:
その価格は300デナリに相当すると記されています。1デナリが一日の労働者の賃金でしたから、300デナリは一年の平均収入に相当します。今で言えば3−400万円位でしょうか。通常これは嫁入り前の娘が結婚の資金の為に蓄えておくものでした。その一壺分を惜しみなく全部注いだのです。普通は一滴か二滴で充分なのですが、彼女は全部注いだのです。女性達が使う香水はホンの一滴でも部屋中に香が拡がりますね。香りのためだけだったら、300グラム使うのは余りにも非常識、過激すぎます。その非常識をマリヤは行ったのです。
 
3.ユダの非難
 
 
・建前の非難:
4−5節に進みます。「ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」高価な香油を一気に惜しげもなく一人の人間に注ぎ尽くしてしまったのですから、ユダとともに弟子達が非難するのも頷けます。彼らは「きびしく責めた」(=文字通りには、鼻息を荒くした)(マルコ12:4)のです。特にユダは、これを300デナリで売って、貧しいものに施せばよいものを、と主張しました。全く常識的な非難です。私がそこにいれば、たぶんこの非難に同調していたことでしょう。

・非難の本音:
もっとも、ヨハネは、その大合唱のリーダーであるイスカリオテ・ユダの本音を見抜きました。6節はこう記します。「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」と。
 
4.イエスの弁護
 
 
・葬式の備えだ:
7−8節を読みます。「イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。』」マルコはもっと進んで「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。・・・この女は、自分にできることをしたのです。」とまで賞賛されたことを記録しています。マリヤは、愛と尊敬のもたらす直感をもって、主が十字架の死を直前にしておられることを見抜きました。

・注ぎつくす愛への応答:
先ほど述べましたように、マリヤは弟ラザロの復活が、パリサイ人たちの十字架計画を促進したことを認識していました。その中に主イエスがご自分の命を注ごうとする愛の姿勢を汲み取ったのです。だから、彼女はためらいもなく、彼女の持っていた一番良いものをキリストに注ぎ尽くしたのです。主が高く評価されたのは、彼女の深い洞察力、献身、犠牲、果断の行動でした。それこそキリストがこれから命を注いで、全人類の為に成し遂げようとした救いの精神を顕わしたものでした。主イエスが、十字架の上で、その血の最後の一滴までも注ぎ尽くしなさったその愛に応えるかのように、マリヤは自分の宝物の香油を注ぎ尽くしたのです。それは彼女にとって「できる限りの」献身の表れでした。
 
おわりに
 
 
・注がれている愛の大きさを感謝しよう:
十字架の主をしっかりと見つめましょう。12世紀の修道士・クレルヴォーのベルナルドは、「血潮滴る主のみ頭、棘に刺されし主のみ頭・・」を眺めつつ、「主の苦しみは、我がためなり」と歌いました。主のみ苦しみを「我がため」と捉えましょう。

・そして、私たちも!:
私たちもマリヤに倣って、最大のものを主に注ぎましょう。心を見ておられる主の期待を感じながら、私が出来ることは何だろうと考え、それぞれの決断をもって、注ぎ出す奉仕を主に捧げましょう。
 
お祈りを致します。