礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年4月7日
 
「主は甦ってシモンに」
復活節を越えて
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書22章31-34節、24章34節
 
 
[中心聖句]
 
  34   「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。
(ルカ24章34節)


 
聖書テキスト
 
 
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
 
はじめに
 
 
先週は、主の復活を祝うイースター礼拝を守りました。でもイースターはそれで終ったのではありません。初代クリスチャンは、イースターの後でも週の初めの日(日曜日)毎に集まってパンを裂き、主の復活を記念するという習慣を始めました。それが世界に広がっていったのが私たちの日曜礼拝なのです。

今日は、キリストの復活によって自分の信仰の復活を見たペテロに焦点をあてて、キリストの復活と私たちの復活とを関連付けて考えたいと思います。
 
A.ペテロの失敗が予告される(ルカ22:31−34)
 
 
「『31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』33 シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』34 しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」
 
これは、十字架の前夜、主が弟子たちの裏切りを予告なさったことばです。特にペテロが、主を知らないと三度まで誓うことが予告されます。ペテロは、ドジなところもあり、オッチョコチョイな面もありながら、それでも主イエスについて行こうという熱心さだけは誰にも負けない弟子でした。ですから、自分が裏切ることを予告された時、一番心外に感じたのはペテロでした。

・サタンの懇願と成功(31節):
ペテロの本名はシモンです。しかもその名前が繰り返される時は多くの場合、特別な注意を呼び起こすためです。主はおっしゃいます、「あなた方は、誰が一番偉いかという論争をこの期に及んで繰り返しましたね。あなたがたがそんなつまらない権力闘争にうつつを抜かしている時、サタンはあなた方を全て滅ぼそうと計画を練っていたんです。」(「願って聞き届けられました」とは、要求することで獲得した、と言うのが直訳です)と。この言葉は、ヨブのケースを前提として語られた言葉です(ヨブ1:6―12)。サタンは人を誘惑する場合でも、神の許可が必要でした。サタンはユダを「落とすこと」に成功し、それに飽き足らないで、弟子達全部を陥落させる計画を全能者に認めさせたのです。「麦のようにふるいにかける」とは、脱穀の時に麦と殻を篩で仕訳するように、本物と偽者とを意地悪くふるい分ける行為を表わしているのです。

・主イエスの執り成しと勝利(32節):
主はサタンの計画と懇願を知り、悲しく思い、その実現を認めつつも、その後の逆転勝利を祈られました。なぜ計画中止を願われなかったのでしょうか?私達には謎です。ただ私たちが理解できるのは、それほど人間は弱く、頑固で自己中心的だということです。それに対する主の祈りはとても現実的です。「ペテロよ。あなたの信仰は一時的に無くなってしまうように見える、しかし、完全にではない(「あなたの信仰がなくならないように祈った」とは、「信仰が全く無くならないように祈った」というのが真意です)。あなたは私を捨ててしまうかも知れない、でも、それは最終的にではない。信仰が回復したら、他の弟子達を助けて欲しい。」と。この主イエスの祈りは答えられたでしょうか?はい。その祈りがあったからこそ、ペテロは倒れたが立ち直る事が出来ました。他の弟子達も失敗しましたが、ペテロが彼等の回復の為の器として用いられたのです。

・ペテロの強がりと主の警告(33−34節):
さて、ペテロはと言えば、この期に及んでも自分への過信を表明します。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」彼は、自分の弱さを全く自覚していなかったのです。しかし主は、それを指摘なさらず、ただ、「その時になってみれば分かるよ」と言わんばかりに、鶏が鳴く前に私を知らないと三度言うと警告を与えるのに止めなさいます。
 
B.ペテロは失敗する(ルカ22:54−62)
 
 
「54 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。55 彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいました。』57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、『いいえ、私はあの人を知りません。』と言った。58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、『あなたも、彼らの仲間だ。』と言った。しかし、ペテロは、『いや、違います。』と言った。59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、『確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。』と言い張った。60 しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません。』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。62 彼は、外に出て、激しく泣いた。」
 
三度も主イエスを知らないと言ったペテロのこの物語は、大変良く知られていますので、詳述はしません。でも、特筆すべき点を拾ってみます。

・遠く離れて従う:
ゲッセマネの園で、捕縛のためにやってきた神殿警備兵と果敢に戦い、その後、他の弟子達とともに散り散りに逃げてしまったペテロではありましたが、気を取り直して、こっそりとではありますがイエスについてきました。しかも、危険を承知の上で大祭司の家の中庭まで入り込んできたのです。他の弟子達とは違った行動です。その結果、三度の否認をしてしまうのですが、ここまでしても、主について来ようとしたペテロの心情を誰が非難できるでしょうか。

・ペテロの正直さ:
ルカは、最初は女中、次は別な男、三度目は一時間後に別な男がペテロに質問したと記しています。それぞれ互いの脈絡なく、何気なく質問したようです。それによってペテロに焦点が集まって、彼が周りの人々から吊るし上げられたような雰囲気もありません。ペテロさえ黙っていれば、自分の失敗は誰にも知られずに終わったかもしれません。しかし、ペテロの失敗が知られているのは、他ならぬペテロ自身が、主を否んだことを深く後悔し、それをありのまま周りの人々にしゃべったからです。私たちは、人生において色々な失敗をしてしまうものですが、ペテロの偉大さは、自分の失敗を包み隠さず他の人々に話したことです。それは、自分を赦してくださる主イエスの憐れみの大きさを悟ったからでした。

・主の眼差し:
ペテロが三度、イエスを知らないと誓った後、鶏が鳴きました。丁度その時、主イエスの眼とペテロの眼が合いました。主の眼はどんな眼だったでしょうか。「やっぱり駄目だったか」と非難する眼だったでしょうか。それとも、「私は今でもあなたを信じているよ」という期待と憐れみの眼だったでしょうか。私は後者だったと思います。だからこそペテロは、そのご愛に押し潰されたのでした。

・ペテロの真情:
私の想像するペテロの顔は鬼瓦のイメージです(ごめんなさい!)。その鬼瓦が大粒の涙を流し、顔をくしゃくしゃにして大声で泣いているのです。私はそこにペテロの人間性というか、真実さを見る思いがします。それこそが、彼の回復の伏線でもありました。
 
C.ペテロの信仰が復活する(24:34、1コリント15:3−5)
 
 
「34(11弟子は)『ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。』と言っていた。」
「3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
 
他の人々への顕現とは違って、ペテロへの現れは、その詳細が記録されていません。しかし、それはルカ24章に記されているだけでなく、第一コリントにもわざわざ記されています。大きな意味を持った顕現であったからと思われます。

・主の顕現の時:
ルカ24章は、その大部分をイースターの午後エマオに向った二人の弟子とともに歩み、ご自身を表わされた主イエスの物語で占めています。彼らがエマオ近辺からエルサレムに戻って、主の現われを告げた時、弟子達は「そのことなら、私たちも知っているよ。ペテロも(暫く前に)イエス様にお会いしたと言っているから。」と受けました。二人の出発の時は沈鬱な空気が弟子団に漂っていましたから、ペテロへの顕現も午後の遅い時間だったことが想像されます。

・ペテロ個人への顕現:
「主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた」というのが11弟子たちの言葉でした。なぜペテロ個人に?という疑問や不平はありませんでした。ペテロも、他の弟子達も、その事情は分かっていたからです。つまり、ペテロ自身がイエスを3度も否認した自分の大失敗を皆に隠さずに告白していたからです。落ち込んでいるペテロを励ますために主が個人的に現れてくださったことは、いわば当然でした。主イエスが、そのような愛と配慮とに満ちたお方だということは、皆分かってからです。

・11弟子への波及:
11弟子達は覚えていました。十字架の前夜、ペテロが失敗することはやむを得ないが、彼の信仰が無くならない様に主が祈り、そして、ペテロが立ち返ったならば他の弟子達を励ますようにと主が語られたことを。そして予言されたように「ほんとうに主はよみがえった。」ことで、彼らの心は燃やされました。「本当に」(オントース)という言葉はとても強い言葉です。ルカ23:47には、十字架の目撃者であった百人隊長が「本当にこの人は正しい方だった」と言いましたが、その「本当」と同じ言葉です。夢でも幻でもなく、また、単なる「精神的な復活」でもなく、事実的な、肉体的な復活を聖書は主張します。イエスの死が不完全であって、ただ、気を失っていたのが蘇生したのだという可能性はゼロです。両手両足を釘付けにして、宙吊りにし、数時間暑さと渇きと激痛に苦しんだ肉体が、仮死程度で終わるわけがありません。本当に死んだ主イエスが、本当に甦ったのです。ペテロはそのイエスと出会い、それを聞いた弟子達もそれを受け入れました。この日の午後まで、彼らはエマオ途上の2人と同じように暗く、沈んでいました。しかし、復活の主がペテロを復活させ、そのペテロの目撃証言によって弟子達の喜びも復活したのです。弟子達が経験したこの喜び、復活への確信が、弟子達を世界宣教へと押し出すエネルギーとなりました。臆病で自分の身の安全しか考えなかった弟子達が、あらゆる迫害、非難、攻撃を乗り越えて世界に向かっていった唯一つの動機は、イエスが甦った、救い主となってくださった、今も生きて助けていてくださるというすばらしい事実でした。実際に宣教活動が始まったとき、ペテロは、復活の事実を前面に出しました。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2:32)
 
おわりに
 
 
・主の復活によって回復されない落ち込みはない:
私達は自分の状態がどうあっても、或いは、自分が取り返しのつかない失敗によってどんなに落ち込んでいようとも、キリストの復活によって、ペテロのように甦ることができるのです。私たちは、健康的な弱さや、環境の厳しさや、自分の性格の弱さのゆえに落ち込んでしまうことがしばしばあります。しかし、その時、よみがえりの主を見つめましょう。パウロは言いました、「倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(2コリント4:9−10)

・主の眼差しを見つめよう:
ペテロのように、私たちも大祭司の庭の暗やみに立たされることもあるでしょうが、その時大切なことは、主が私たちをじっと見ておられる事実を覚えることです。主の眼差しを感じつつ、私たちも主を見つめながら歩むものでありたいと思います。
 
お祈りを致します。