礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年4月14日
 
「正直な疑問屋」
復活節を越えて(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書20章24-31節
 
 
[中心聖句]
 
  29   あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。
(ヨハネ20章29節)


 
聖書テキスト
 
 
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 
はじめに/td>
 
 
私達は先々週、復活節を祝いました。今日は、主の復活一週間後の出来事から、トマスに焦点を当てて、復活の意味するものを考えたいと思います。
 
1.トマスは真実な弟子だった
 
 
・名前の意味は「双子」:
トマスの意味は「双子」です。デドモという呼び名もまた双子と言う意味です。多分トマスは双子の片割れだったのでしょう。片割れのもう一方については聖書の記録がありませんからそれ以上の想像は止めておきます。さて、トマスは、疑り深い人間の代表として有名です。物事を何でも疑ってかかる人のことを英語では、Doughting Thomasと言います。この20章に出てくるトマスだけを見ますと、ただのひねくれ人間のようにも見えますが、それ以前のトマスの行状を見ると、全然違った側面を見ます。ちょっと変わっていて、面白い質問をイエス様に投げかける、そんな存在でした。

・主に傾倒していた(ヨハネ11:16):
ヨハネ11:16を見ますと、「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」とあります。主イエスが、ラザロは死んだ、しかし、彼の眠りを覚ますために、彼の家に行く、と発言したことへのトマスの反応です。主は、反対者達が渦巻いているエルサレムへの最後の旅路にありました。ラザロを生き返らせることが、反対者達を決定的な方向に導くのですが、弟子達には明らかにしませんでした。しかし、トマスは主であるイエスの危険を嗅ぎ取って、主が死になさるのなら、私達も一緒に死のうと発言しました。他の11弟子は、主が危険に曝される場所に行かれることに反対しましたが、トマスだけ、一緒に行こう、そして、状況によっては先生と一緒に死のうと提案したのです。そこに彼の勇気と、主への傾倒を見ます。この記録を留めたヨハネも、トマスの発言を大切なものと感じたから、ここで書き加えたのでしょう。

・イエスの話の真剣な聞き手(ヨハネ14:5):
ヨハネ14:5も同じように、トマスの真剣な性格を示しています。「トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』」これは、主イエスが「私はあなたがたのために場所を備える。そして場所を備えたら迎えに来る」と謎のような発言をなさったことに対するトマスの質問です。このトマスの真剣な質問がなかったならば、次の言葉は生まれなかったことでしょう。「6イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」学校でもそうですが、先生は食い下がって質問するような生徒が大好きです。
 
2.疑いの霧の中に
 
 
さて、今日のテキストである20章に参ります。

・不在のトマス(24節):
復活の夜、弟子たちはユダヤ人たちの迫害を恐れ、隠れるようにして一箇所に集まっていましたが、そこにトマスは不在でした。11章の時の発言もそうでしたが、何となく、トマスという人物は群れない男のようでした。さて、彼は何をしに出かけたのでしょうか。危険を承知で出かけるからには、よほどの事情があったのでしょう。はっきりとは分かりませんが、トマスは、彼の愛するイエスが、事もあろうに十字架にかかってしまったことにショックを受けたと考えられます。そして、三日目に、女の弟子達が甦ったイエス様にあったというニュースを聞きます。それで喜べばよいのでしたが、トマスの慎重さがそれを許しません。「だから女は困る、簡単に夢とか幻を信じてしまうんだから」と、どう考えて良いのか分からない気持ちになり、友だちから離れて独り散歩に出ました。信じたいけれど信じられない、心の中の戦いがあったのです。

・疑いの霧の中に(25節):
イースターの夜、主イエスは10弟子にご自身を顕しなさいました。散歩から帰ったトマスは、興奮し切った友だちの歓迎を受けます。「トマス、何処へ行ってたんだ?こんな大事な時に!あのね、イエス様が顕われたんだよ!・・・」ホントだったらうれしいな、と思いながら、つい反対の言葉が口から出てしまいました。私たちも、こんな風に拗ねたり、ひねくれたりすることがあるものですね。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」それを口に出した後で、しまったと思いました。愛する主に関して、手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、私の手をその脇に入れなければというのは、いかにも過激です。失礼千万でもあります。しかも「決して信じない」と信じない方向に決めてしまったのも行き過ぎです。実は、そのような心と言葉と行動を全部ご存知なのが復活の主です。主は、私たちが気がつかないで発する言葉、誰にも分からない思い、隠れた行動の全てをご存知なのです。素晴らしいことであり、反面恐ろしいことでもあります。

・信じられない悲しさ:
しかし、主は、直ちにトマスの言葉尻を捉えてお灸を据えなさるお方ではなく、一週間も放置して置かれました。その間にトマスは、一方においては頑なとひねくれを増長させながら、他方においては、いや、自分が頑なでひねくれているのは良くないという反省と入り交じったような気持ちのまま、過ごしていました。決して信じない、と否定し切ってしまったトマスは、自分でも言い過ぎと反省したことでしょう。他の十人のように単純に信じられたらうれしいと言う気持ち、私は確信を得るまでは疑ってやるぞと言う頑固な気持ちの交錯で悶々とした日々でした。実は、それも主の憐れみの期間であったと思います。その間に、主に対する見えないけれども信じる信仰が育っていたのでしょう。主は、それを待っておられました。
 
3.サプライズの主
 
 
・自分の疑い・悩みを知っておられた(26節):
イースターからちょうど一週間経った日曜日(週の初めの日)の夜、主は再び11弟子に現れなさいました。日曜日が強調されているように思います。復活の記念日として、これから定着していくわけですが・・・。

・大きな懐の主(27節):
そして、他の誰でもなく、トマスに向かってこういわれました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(トマスは、自分の否定的なしかも過激な発言が、実はイエス様に聞かれていたんだ、という思いに圧倒されました。)「あなたの指をここにつけ・・・手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスにとっては、このお言葉で十分でした。では、触らせていただきます、などと野暮なせりふはまったく出ず、主の溢れるような愛と恵に圧倒されました。「信じない者にならないで」という言葉も、お前は不信心だという決め付けではありません。信じない者になってはいけませんよという優しい勧告です。

・最高の信仰告白(28−31節):
トマスは発見しました。主イエスは只の偉い人ではない、神ご自身であると分ったのです。そして信仰告白をします、「私の主。私の神。」ユダヤ人であるトマスが、人である方を神と崇めて礼拝すると言うことは異常です。このような信仰の高みは、疑いの深みから生まれました。徹底的に反発をし、疑い、迷った末に、他の誰でも到達できなかったような信仰の高みに到達したのです。実にこの告白は、ヨハネが20章に亘って福音書を書き続けてきた物語のクライマックスであり、この本の著作目的でもありました。著者ヨハネは、トマスを高く評価していました。そして彼のこの告白こそが、福音書執筆の目的であり、読者一人ひとりがこのトマスのように主イエスを神の子として信じるようにと勧めているのです。

・トマスのその後:
トマスは、「そうだ、このお方に一生涯を捧げよう。「そうだ、このお方に一生涯を捧げよう、宣教師になろう」と決心しました。しかし、ある伝説によりますと、「どこへでも行きます。ただインドだけは嫌です。」と言ったそうです。そのトマスは、他の弟子が考えもしなかった長い道のりを超えてインドに行きました。そこでキリストを宣べ伝え、教会を建て、最後は(多分マドラスで)殉教の死を遂げます。しかし、彼の建てた教会は、マートマ教会として、今でもケララ地方に根強く残っています。
 
終わりに
 
 
・正直に疑問を投げつけよう:
私達にも、大なり小なり、トマス的な性格があります。もちろん、すべての人がトマスのように疑い深く、慎重であるわけではなく、単純に信じることが出来る人もいます。どちらにせよ、私が言いたい事は、トマスのように、自分の心に正直であることが大切ということです。分かることは分かる、分からないものは分からない、はっきりと自分を持つこと、そして、その心の姿をイエス様にぶつけることです。疑問や質問を真摯に、真剣に持ち出し、解決をキリストに求める態度を持つときに、キリストは真正面から受け止めてくださいます。ウェスレアン注解は「うるさく疑う者はまた、それだけ真面目に信じる者でもある。」とトマスの慎重さを評価して、彼のことを「正直な疑い屋さん」と名付けています。

・頷いたら信仰のステップを踏み出そう:
私達のすべては、イエスを目に見えるお方として経験してはいません。ですから、甦りの主を信じるという事は、ある意味で、大きなステップを踏むことです。見ないで信じる者は幸いと言われても、やっぱり難しいなあを心の中で感じている人も多いのではないでしょうか。でも、信じるステップを思い切って踏んで御覧なさい。そうすると、甦りのイエス様が、心に宿ってくださるのです。私達のすべては、イエスを目に見えるお方として経験してはいません。でも、見ないでも信じる、そうすると、甦りのイエス様が、心に宿ってくださるのです。
 
お祈りを致します。