礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年4月21日
 
「自分の民に加えられ」
召天者記念礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
創世記25章8-10節
 
 
[中心聖句]
 
  8   アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
(創世記25章8節)


 
聖書テキスト
 
 
8 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。9 彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。 10 この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。
 
はじめに
 
 
2013年の召天者記念礼拝によくお出でくださいました。召天者記念礼拝とは、天に帰られた愛兄姉を偲びつつ、天国への希望を新たにさせていただく機会です。先日、召天者アルバムを見ながら、私に取って懐かしい方々の人口が天国で増加しつつあることをしみじみ感じたことです。そんな訳で、今日は、聖書の死生観を表わす一語である「自分の民に加えられた」という言葉を取り上げることにしました。
 
A.イスラエルの族長の最期(家系図参照)
 
 
「自分の民に加えられた」という言葉が出てくるのは、イスラエルの族長であるアブラハム、イサク、ヤコブの三人の死の描写においてです。因みに「族長」とは、イスラエル民族の先祖であり、信仰の基礎を築いた人々を指します。その三人の死が聖書に記されていますので、読んでみましょう。

・アブラハムの死:
「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。」(創世記25:8―9)

・イサクの死:
「イサクの一生は180年であった。イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」(創世記 35:28―29)

・ヤコブの死:
「彼(ヤコブ)はまた彼ら(ヤコブの12人の子ら)に命じて言った。『私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。・・・そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。』ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」(創世記 49:29―33)

さて、この三つの記録に共通していることが三点あります。
 
1.彼らは豊かな人生を送った
 
 
アブラハム、イサク、ヤコブの三人とも、長寿で、満ち足りた人生を送り、そして、穏やかな死を迎えたました。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に」とあります。彼は175歳まで生きました。その子イサクは180歳です。その子のヤコブも長寿を全うし、147歳で目をつぶりました。
 
2.彼らの葬儀には、相克していた子らも協力した
 
  彼らのその葬式には、恩讐や確執を乗り越えて、子ども達が集い、心のこもった見送りをしました。アブラハムの子のイサクとイシュマエルは敵対関係にありましたが、この二人が父の葬儀を仲良く行いました。イサクの子のエサウとヤコブは双子で、互いに厳しく敵対していましたが、父の葬儀は共同で行いました。ヤコブの子は12人いました。終わりから二番目のヨセフは、10人の兄達に虐められ、奴隷として売られましたが、悔い改めた兄達と一緒に、父の葬儀を仲良く行いました。
 
3.彼らは、マクペラのほら穴に葬られた
 
 
この三人とも、自分の葬りの場所を予め用意し、丁寧な葬りを実現したことも特筆されます。アブラハムは、パレスチナの一角(マクペラのほら穴)に墓地を購入してそこに妻のサラを葬り、自分もそこに眠りました。その孫のヤコブも、わざわざエジプトからマクペラのほら穴まで運んで自分の死体を葬るように命じ、ヤコブの子のヨセフもその通り致しました。今日の午後、私たちは教会の墓地で納骨式を行います。私たちもアブラハムに倣って、墓地を大切なものと考えています。亡くなった方を丁寧に葬ることはキリスト者にとっても大切なことだからです。
 
B.「自分の民に加えられた」族長達
 
 
さらに、これらの三つの記事に共通している締めくくりの言葉があります。それは、「自分の民に加えられた。」という言葉です。
 
1.彼らは、先祖たち・友達とリユニオン(再結合)された
 
 
「自分の民に加えられた」という言葉は、当時の人々の死生観を表す言葉でもあります。創世記15:15に、主が、アブラハムの死ぬことを「先祖のもとに行き」と表現していますが、同じ思想です。彼らは死後の命を信じており、シェオル(黄泉)という死の世界に入って友達と再結合(リユニオン)すると言う考えをもっていました。これは、当時の人々の考え方であるという以上に、神の側からの死生観と捉えてよいと思います。
 
2.彼らはリユニオンを待ち望みつつ、地上では「旅人」として生きた
 
 
アブラハムは、地上の生涯が終わりではなく、帰るべき故郷を待ち望みながら生きていました。ヘブル書11:13−16に、そのことが解説されています。「これらの人々(族長達)はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らは・・・自分の故郷を求めていることを示しています。・・・事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」このように天の故郷を待ち望みながら生活していましたから、自分の財産とか土地に執着することなく、いわば、恬淡とした人生観を持って、神の導きのまにまに移動する人生を貫いたのでした。アブラハムが終生テント暮らしをしたのは、彼らが遊牧民であったからだけではなく、「旅人」として生きる人生哲学を表わしていたからなのです。現代の私たちは、モノに溢れ、モノに囲まれた生活をしていますが、もう一度、アブラハムたちのシンプルライフを考え直す必要があるように思います。
 
3.彼らは神と共に生きている
 
 
主イエスが、死後の復活などありえないという考えをもった人々から皮肉に満ちた質問を受けたとき、こう答えられました。「死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20:37−38)主キリストが、アブラハム、イサク、ヤコブは神に対して生きている、と発言されたことは重要な意味があります。これは、キリスト者が復活する根拠の一つでもあるからです。
 
C.キリスト者のリユニオン
 
 
キリストの使徒であったパウロは、キリストにあって死んだ人々についてこのように説明しています。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。・・・主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。・・・この言葉をもって互いに慰め合いなさい。」(1テサロニケ4:13−18)

この言葉から、次のようなことが分かります:
 
1.先に召された人々は「眠っている」
 
 
13節を見ると、死者のことを「イエスにあって眠ったもの」と言い表しています。美しい表現です。永遠の眠りではありません。しばし憩っている状態です。ものすごく活動的ではないが、休んでいる状態です。私達の眠りのように、無意識状態でもありません。聖書のほかの場所は、キリストにある死者が、憩いを楽しんでいる状態を示しています。「眠っている」という動詞は現在形(現在進行形)です。すでに眠ってしまった人ではなく。眠りの森の王女様のように、やがて起きることを期待して眠っているのです。
 
2.彼らはキリスト再臨のときに復活する
 
 
16節を見ますと、キリストが再臨されること、その時大きな合図があること、そして最初に起きる出来事は、キリストにある死者が甦ることが記されています。文字通り復活するのです。地上の生涯に持っていた一人ひとりの特徴がよく分かる形で、しかし、質的には栄光の体と呼ばれる霊的な体をもって甦ります。
 
3.今生きているものも復活の体に変えられ、主と共にいつまでも生きる
 
 
そして地上に居る信仰者も、その時同じ復活の体が与えられ、既に眠っていた人々と一緒になります。そして、その復活体を持って、主と共にいつまでも住みます。ただボーっとしているのではなく、キリストと共に新しい天と地とを治め、主とface to faceに物語り、主を賛美し、主にある人々と再会を楽しみ、交わりを続けるというのです。なんという喜び、希望でありましょうか。
 
4.リユニオンへの希望は大きな慰めである
 
 
この希望をもって互いに慰めあいなさい、という勧めでこの文節は終わります。また、13節には「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」とも記されています。肉親を失えば、私たちは悲しみに沈みます。でもキリスト復活の事実も、私たちの復活の望みも知らない人々が陥るような絶望的な悲しみに沈む必要はない、と言っているのです。私たちは、故人を思うときに喪失感に襲われます。でも、その悲しみは絶望的なものではなく、やがて復活すると言う望みの故に癒されるのです。
 
おわりに:リユニオンへの希望をもって人生を過ごそう
 
 
私たちは、年に一度の召天者記念礼拝において、天にある家族の存在を改めて確認し、それに連なっていると言う、何ともいえない暖かさを感じます。そして、私たちも一人ひとりその家族の一員になるという大きな希望を抱きます。今日集われたご遺族の皆さんも、先に天に帰られた愛する方々の群に加えられるという希望と目標を持って、この世の旅路を進んでいただきたいと思います。
 
お祈りを致します。