礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年5月19日
 
「教会を生み出した力」
ペンテコステに臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章1-4,37-47節
 
 
[中心聖句]
 
  46,47   毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒の働き2章46-47節)


 
聖書テキスト
 
 
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。 38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。 39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」 40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。 41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。 44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。 45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。 46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
 
はじめに:教会の誕生に働いたダイナミックスを考える
 
 
今日はペンテコステです。今から2千年前の今日、「教会」という共同体が誕生し、発展を始めました。教会を誕生させ、発展を可能にしたのはどんな力(ダイナミックス)によったのでしょうか。今日本ではアベノミクスという経済の動力が働いていますが、キリストノミクスが今日のテーマです。
 
1.聖霊による宣教
 
 
・弟子達は聖霊に満たされ、心がきよめられ、力が与えられた:
「みなが聖霊に満たされ」(2:4)たことが教会誕生の鍵です。主イエスは昇天される前に、そのお働きを助け主なる聖霊に委ね、聖霊の満たしを求めて祈るように命じられました。弟子達は真剣に祈り続け、その祈りが答えられて聖霊が到来しました。彼らの心はきよめられ、力に満たされました。同じ御霊が今日も変わらず働いておられることを新たに認識させて頂きたいものです。

・聖霊が述べなさるように説教した:
御霊に満たされた第一の現われが、「御霊の述べなさるままに説教した」ことです。彼らは、御霊の導きのままに習ったことのない言語を使ったのですが、言語よりも、内容において御霊の語ろうとしておられることを語ったことが大切です。迫害に遭って弁明を迫られた時、何を話そうかと心配しないようにと主イエスは語られました。「というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:20)これは、福音の説教にも当て嵌まる真理です。
 
2.聖霊による信仰告白
 
 
・人々は説教を聴いて罪が示された:
37節に「人々はこれを聞いて心を刺され」と記されています。文字通りの意味は、鋭い切っ先で刺されるということで、この場合は、ペテロの説教で引き起こされた鋭い痛みの感情です。「イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(36節)とペテロは人々の罪を責めました。人々は、慈愛に満ちた主イエスを「十字架につけよ!」と叫んだその行為が大きな過ちであったことを愕然と悟り、申し訳ない気持ちを深くしました。21世紀の私達は、私たちの手を使って主イエスを十字架につけた訳ではありません。しかし私達の一つ一つの罪がイエスの苦しみを増したのです。「釘を打った私」というという本の中で亀谷荘司先生が、未信者である友と一緒に聖地旅行をしたとき、彼が主イエスの御手に釘を打ったのは私だという俳句を作ったのを見て、自分の罪深さを本当に申し訳なく感じたと語っています。

・聖霊の感動によって人々は信じた:
人々は「悔い改め」(38節)「罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け」(39節)ました。悔い改めとは方向転換のことです。自己中心と、神への反逆という罪から神に従う道へと方向転換することなのです。それを齎したのは、聖霊の促しでした。信じた人々は、その信仰を公に告白するために、バプテスマを受けました。その数は3千人に及びました。

・賜物としての聖霊を受けた:
その結果、「賜物として聖霊を受け」(38節)ました。聖霊を受けるのは、信じて救われた結果です。キリストを信じたもの全てには聖霊が宿っています。聖霊は、私たちに主を愛するここと、主に従う心を与え、その信仰生活を導いてくださいます。
 
3.聖霊に導かれた交わり(42−47節)
 
 
信じた人々はグループごとに交わりを保ち、成長していきました。この時期にはまだ「教会堂」という集会所はありませんでした。信者の群は今まで通り神殿における祈りの時間に集まって祈りを捧げましたが、同時に、家々で交わりを保ちました。どんな営みがなされたかを2章の後半から拾って見ますと:

・教え:
42節「彼らは使徒たちの教えを堅く守り」ました。使徒達は、聖言から神のみ心を知り、それに従った歩みを努めました。「使徒達の教え」とは、キリストの生涯と教えと救いについての教えでした。使徒達が覚えている限りのキリストの言葉、行いを、新しく信者となった人々に伝えました。こうした教えが繰り返され、定式化されるに従って信徒達の記憶に留められ、伝承されて行きました。これが福音書の基礎になりました。初代教会の集会の主な部分がキリストの教えに関する説教であったこと、彼らが集会を重んじたことが分かります。私達が集会を重んじるのも、集会において神の聖言を正しく理解し、それを日常生活に当てはめるためなのです。

・交わり:
「交わり」(コイノーニア)とは、コイノス(共通の)という言葉から生まれました。彼らの交わりは第一義的に霊的な分かち合いでした。単なる社交ではなく、神の恵を称え、互いを励ますことを目的とした会話がなされました。このような霊的交わりは、共に食事をするという行為に現れました。三々五々、適当に家々に集まりました。そして、その分かち合いは、持ち物を共にした共同的な生活に現れました(45節)。「いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」のです。これは、自発的な喜びと感謝の心から出た愛の行いとしての助け合いでした。

・パンを裂く:
42節の「パンを裂き」という行為は、最後の晩餐に倣ったシンプルな、しかし印象的なものでした。彼等はこの儀式を毎週日曜日に行いました。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒20:7)のです。パンを裂く度に、彼等は主イエスが五千人を養われたこと、十字架の前の夜にご自分の肉の象徴としてパンを裂かれたこと、復活の夜、パンを裂いて祝福されたことなどを懐かしく思い出していたのです。「教会的キリスト教」という本の中で、ある神学者が言っています、「我々は、教会においてのみ現臨のキリストを捉えることができる。キリストは単に霊としてのみならず、教会においてこそ体として現臨したまうのである。したがって教会をぬきにしたキリスト信仰は、単に過去のキリストを信じているのであって、現在のキリストと本当に交わっているのではないし、それは聖書の真意でもない。」と。同じ本の中に「聖餐とは・・・キリストとの生命の交流、生けるキリストとの触れ合いである。」と述べられています。私達はこの「教会に臨在したまう」お方としてのキリストをより強くとらえるべきではないでしょうか。

・祈り:
信者達は、時間を決めて神殿に集まって祈りました。つまり、ユダヤ教の神殿礼拝に今までどおり参加したのですが、クリスチャンだけの祈り会も家庭々々で持っていました。ペンテコステに向けて、心を合わせて聖霊の満たしを求めた(1:14)経験が活かされました。また、迫害にぶつかっては心を一つにしてに祈り(4:24)、ペテロの捕縛の時にも皆が夜遅く迄熱心に祈りました(12:5)。私達の家庭が祈る家庭であり、近隣のクリスチャン達を集めて祈る祈りの場であったならば、どんなに素晴らしいことでしょう。私たちも集会のたびに三々五々共に祈り、祈って別れる、そう言う習慣を身につけたいものです。また、祈祷会を愛し、祈祷会に励み、祈祷会で勝利を得る私達でありたいものです。

・愛の施し:
信徒達の愛の施しはクリスチャン内部のものだけではなく、他の人々にも及んだと考えられます。ですから、多くの人が彼等の喜びに引き付けられて加わっていったのです。47節には「すべての民に好意を持たれた。」とあるのはそのことであろうと思います。

・讃美:
46,47節「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」初代教会のメンバー達が持っていた、「絶えず祈り、常に喜び、全てのことを感謝する」スピリットが好意を持たれないはずはありません。
 
4.ローランド・アレンの「教会の自然発生的な進展」
 
 
・アレン:
宣教師・宣教学者:20世紀初頭に中国で働いた宣教師にローランド・アレンという人がいました。彼は宣教的な植民地主義が宣教団体と現地教会の敵対関係を生んでいること、それが現地教会を弱体化さえしている事実を目のあたりにします。健康を害して現役を引退してから、アレンは宣教論に関する多くの著書に執筆に生涯を捧げます。

・「自然発生的教会拡大論」:
アレンは「自然発生的教会拡大論」という考え方を主張しました。彼は、第1世紀の教会は自然発生的に拡大して行ったし、今日でもそのように発展するのが常道である、と言います。「自然発生的な拡大という言葉で私が意味しているのは、熱心に勧められたり組織化されないでも個々の教会メンバーが自分の見つけた福音を他の人々に説明するという活動に伴う拡大のことである。もっと言えば、抗し難いほどのキリスト教会の魅力に伴う拡大のことである。その魅力とは、人々がクリスチャンたちのきちんとした生活ぶりに感服し、その生活の秘密を発見したいという願いのことである。それを見い出した後には、それを他の人に知らせたいという願いとなる。もう一点、教会の拡大という内容について言えば、それは新しい教会を生み出していくという形での拡大である」。

・積極的側面:
アレンの自然発生的教会拡大論には積極的な側面と消極的側面があります。積極的な側面とは、教会は他の教会を生み出して行くために教会の人々を感動する聖霊の直接的な働きによって教会が増殖するという信仰のことです。初代教会の個々の信者たちが、その仕事を通し、生活を通して自然な形でキリストの話をしたことが教会の進展に繋がったというのが彼の観察です。その結果「教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり確立し、・・・信者の数が増えていった」(9:31)のです。「教会とは宣教的な共同体である。教会は個々の信者たちの生活と言葉が外にいる人々を引き付けるその魅力によって仲間を殖やして行った」

・消極的側面:
消極的な側面とは、聖霊の自由な働きを尊重するために、外側からの権威をもって地域教会を束縛したり、支配したり、強制するあらゆる形の活動を否定することに表われています。アレンは教会開拓における人間的な知恵や組織化された方法に反対でした。彼は宣教活動における一般原則を持つことは良いが、前もって準備された詳細な計画は、聖霊の導きに反するものとして退けました。アレンは言います、「自然発生的な熱意を制御しようという試みは、それを制限してしまうこととおなじである。」と。
 
おわりに:「毎日救われる人々が仲間に加えられるように」祈ろう
 
 
使徒2章は「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」の記述で終わります。折伏によって信徒数が増加したのではなく、恵に引き付けられて増加したのです。ルカはそれが毎日起きた、と記しています。主がその様な驚くべき大漁をこの日本に起こして下さることを信じましょう。人々は真の交わりに飢えています。そこでキリスト者の真の愛の交わりを見ると、ひきつけられて導かれるのです。私たちがそのキリストの愛を伝える器となりますように祈りましょう。
 
お祈りを致します。