礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年5月26日
 
「主は再び来り給う」
使徒の働き連講(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き1章4-14節
 
 
[中心聖句]
 
  11   ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。
(使徒の働き1章11節)


 
聖書テキスト
 
 
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。 8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。 10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。 13 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。 14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
 
はじめに
 
 
2月に「使徒の働き」連講を始めて二回目で、季節的なトピックに移りまして二ヶ月が経過しました。今日から連講に戻ります。
 
A.主の証人となる(8節)<復習>
 
 
前回は「使徒の働き」の働きの鍵言葉である1:8から、「キリストの証人となる」という題でお話しました。時が経っていますので、簡潔に復習してから、今日のテーマに移ります。8節を読みます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
1.「証人」の意味
 
 
キリストの証人となるという意味は、@主の復活を証言することが第一です。さらに、A復活が救いの根拠であることを証言する、B内住の主が、私たちをキリストに似たものとして内面の変化を齎すことを(生活を通して)証しすることです。
 
2.証人となる場所
 
 
何処で証言するのかについては@エルサレム(同族・家族間)、Aユダヤとサマリヤの全土(生活と仕事の場)、B地の果て(未伝の地域と人々)の三つの分野で証しすべきことを学びました。
 
3.証しの力
 
 
私たちが証し人となるための力は何処から来るのでしょうか?それは、@聖霊の与える力、A臆病と競争心からのきよめが鍵であることを学びました。
 
B.主イエスの昇天(9節)
 
 
そして、昨週はその聖霊が降ったペンテコステを祝う聖日でありました。さて、話を元に戻しましょう。主イエスは、この最後のメッセージを残された後に、そのオリーブ山から昇天されました。今年のカレンダーでは5月9日が昇天記念日です。9節を読みましょう。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」
 
1.(復活)体としての顕れの終了
 
 
復活節以後、40日間、主は、いろいろな人々に顕れては消えるという形を繰り返されましたが、この昇天によって(復活)体としての顕れを終わりにされました。もっとも、数年後パウロに顕れなさったことが記されていますが、それはあくまでも例外と考えられます。
 
2.「雲」(神の栄光)に包まれる
 
 
雲とは神の栄光の表現:肉体的な存在としての主イエスが、雲に覆われた天、もっと言うと栄光に満ちたみ父の世界に戻られたことを意味します。この「雲」は、旧新約聖書を通じて神の栄光を表わしています。

・幕屋・神殿の雲:
モーセが作った幕屋、ソロモンが建設した神殿を覆ったのは、シェキナ(栄光)と呼ばれる雲でした。
「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(出40:34−35)
「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(1列王8:10−11)。

・変貌山における雲:
主イエスが変貌の山で経験されたことと昇天の記事が類似しています。その記事を読みます。「彼(ペテロ)がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。』と言う声がした。」(ルカ9:34−35)

・再臨の時に現れる雲:
さらに、この「雲」が主イエスの再臨の時にも栄光ある主の臨在の象徴として登場します。「人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」(マルコ13:26)、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(マルコ14:62)

つまり、主イエスの生涯の中で変貌、昇天、再臨という、イエスが神たることの栄光を表わしなさる大切なエポックにおいて「雲」が登場するのです。これは、入道雲とか雷雲とかいったような自然現象としての雲ではなく、神の臨在と栄光を示すような、輝く雲です。主イエスはその輝く雲の世界に戻って行かれました。
 
C.再臨の約束(10-11節)
 
 
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」主の再臨の約束がここで提示されます。
 
1.「淡い期待」を持っていた弟子達
 
 
弟子達は、引き続き「天を見つめていました」(アテニゾンテス エーサン=継続的な、不動の注目を指しています)。段々小さくなっていく主イエスの姿を何時までも見送っていた、というよりも、雲に覆われてしまったイエスがどうなったのだろう、もう一度肉体的な存在として降ってきて呉れまいかと淡い期待をもっていた弟子たちの姿を表わしています。主イエスの昇天は予測されたこととは言え、現実に起きると弟子達に大きな動揺を齎しました。そこに顕れたのが二人の天使たちでした。彼らは、この動揺を鎮めました。「何故、今尚主イエスの人間的な存在にこだわっているのか。主のみ業は完成したのだ。その霊的王国はもう始まっている。主イエスは、そのみ業の完成のゆえに天の父に受け入れられ、宇宙の王となったのだ。そのお方が全世界の救いのプロセスの終わりに、もう一度来られる。」というのがメッセージでした。
 
2.主の再臨を待ち望め
 
 
その再臨は、弟子達が期待するほど、「直ちに」ではないと告げられました。救いのプロセスの終わりであることが示唆されています。さらに、主イエスが昇天なさったのと同じような形態で起きるとも告げられました。イエスは栄光に満ちた姿で昇天されました。同じように栄光に満ちた姿で戻ってこられます。それまでの期間、既に約束されていたように、聖霊が注がれ、弟子たちのうちに、復活し、栄光に満ち、やがて来るべきキリストの臨在をリアルになさるのです。その聖霊の力によって、キリストの証人となることが、この期間に期待されていることです。

主が再び来られる時、このオリーブ山に来られるという予言もあります。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに避け、東西に延びる非常に大きな谷が出来る。」(ゼカリヤ14:4)これは、正に主のご再臨の予言と取って差し支えない言葉でありましょう。再臨に対する私たちの期待が「精神的臨在」というような漠然たるものではなく、歴史の中に現れる具体的なものであることを確認したいと思います。主は、この歴史を締め括る直接的介入をなさいます。それこそが私たちの希望です。
 
3.待ち望みつつ宣教を!
 
 
弟子達は、淡い期待をもって天を見つめながら無為な時を過ごすべきではなく、もう一度戻ってこられる主を待つ者として、キリストの与えなさった宣教の大命令を実行すべきなのです。
 
D.ペンテコステに向かう祈り会
 
 
その宣教の自覚によって、弟子達は、主の約束を思い出しました。聖霊を頂いて主の証人としたいただくこと、そのためには、エルサレムに留まって真剣に祈り求めることでした。12−14節を読みます。「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」この記事は、ペンテコステの準備講壇で何回か取り上げましたので、今日は詳細に入らず、要点を述べるだけに致します。
 
1.祈りの場所
 
 
祈りの場所は、オリーブ山から安息日の道程(1km)のところでエルサレム市内、と記されています。恐らく、最後の晩餐の場所、即ち、ヨハネ・マルコの母マリヤの家であったと考えられます。
 
2.メンバー
 
 
11弟子(祈り会の途中で12名に)、女性たち、イエスの兄弟たち、そのほかの弟子達合計120名ほどでした。
 
3.祈りの真剣さ
 
 
彼らは心を合わせて祈りました。互いの違いを乗り越えて一つ目的のために心を合わせました。心を合わせた祈りは、天のみ父の心を動かすものです。
 
4.祈りの結果
 
 
2:4に記され、昨週学びましたように、「彼らは皆聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに」福音を語りました。
 
終わりに:主の再臨を待ち望みつつ宣教を!
 
 
弟子達は肉体的存在としてのイエスを求めつつ虚しく立ち続けて、御使いの警告を頂きました。私たちも淡い期待ではなく、確かな希望としての主の来臨を待ち望みましょう。そして、主が再び来られるまで、聖霊のみ力を信頼して、与えられた証人としての務めを日々全うしようではありませんか。
 
お祈りを致します。