礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年6月2日
 
「使徒職の継承」
使徒の働き連講(4)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き1章15-26節
 
 
[中心聖句]
 
  24-   すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。・・・くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。
(使徒の働き1章24-26節)


 
聖書テキスト
 
 
15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。16 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。17 ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。18 (ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。19 このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)20 実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』
21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。
24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。25 この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」
26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。
 
はじめに:主の再臨の約束(11節=復習)
 
 
・昇天された主は再び来給う:
先週から「使徒の働き」連講を再開致しました。昨週は1:11の「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」とのみことばから、主イエスは確かな存在感を持って再びこの世に戻って来られること、そして、全世界を裁きなさることを学びました。

・それまでの「宿題」は、全世界の宣教:
さらに、私たちは主が再び来られるまでの留守番として大切な責務(宿題)、つまり全世界への宣教という務めを与えられていることも学びました。

・聖霊を求める祈り会:
弟子達は、約束の聖霊を求める祈り会に入りました。その祈り会における大切なアジェンダが一つありました。それは、欠けてしまった12弟子の補充ということでした。実際から言いますと、ここで補充されたマッテヤは、その後の新約聖書記録の中で登場してきませんので、この物語は、余り重要でないエピソードのようにも見えるのですが、学んで行きますと、多くの示唆と教訓に富んだ物語であることが分かります。以下節を追って学んでいきましょう。
 
1.会合の状況(15節)
 
 
「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。」
 
・場所=(多分)ヨハネ・マルコの母マリヤの二階屋:
ペンテコステに向う祈り会が行なわれたのは、前回にも示唆いたしましたように、ヨハネ・マルコの母マリヤの家であったと思われます。かなり大きな家で、その二階屋に120名が集まっても落ちない位の丈夫な、そして広々とした家であったことが推察されます。

・指導=回復したペテロ:
その祈り会を指導したのは、ペテロです。主イエスのご在世当時から、ペテロは弟子の筆頭としてリーダーシップを持っていました。十字架の夜、「主イエスを知らない」と三度も繰り返したことは、拭えない彼の大失敗でしたが、その後の悔い改めと主イエスの個人的顕現によって、指導的地位を回復したものと思われます。
 
2.ユダ脱落の経緯説明(16−19節)
 
 
「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)」
 
・ユダの件は、偶発的ではなく摂理の中で起きた:
ペテロは、ユダの件の事情説明の冒頭に、「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかった」と言って、ユダの件が聖書の予言の成就であったと言います。つまり、この事件は単なるユダ個人の裏切りというような偶発的なものではなく、神の大きな意味での摂理の中に用いられた出来事であると語ります。聖書の引用は20節になされるのですが、16節に序論的に述べられます。ユダの裏切りを、必然とか運命的であった捉えるのではなく、すべての出来事を大きな摂理の歯車の下に動かしなさる神の御手の中に起きた出来事だ、と捉えるのがペテロの信仰でした。

・ユダは12弟子の一人であった:
ペテロは先ず、「ユダは私たちの仲間として数えられており」と仲間意識を強調します。ユダが、最初から心の捻じ曲がった人間で、主イエスを裏切るために運命付けられていたと考える人もいますが、少なくともペテロはそう見ていません。正にユダは自分たちと同列であったと感じていたのです。主が12弟子を選びなさったとき、彼の裏切りを見越してわざと黒い羊を1匹入れていたとは思われません。弟子団の会計係を担うようになって、曲がった動機が入り込み、さらに、主イエスの行動に批判的になってきたことは、ヨハネのコメントから伺えますが、実際から言いますと、他の11弟子たちも、主イエスの心を知りえなかったという点では、五十歩百歩であったのです。

・ユダが主の逮捕の手引きとなった:
ペテロは、ユダの行動について「イエスを捕えた者どもの手引きをした」と事実説明を行なっています。ユダは不正の金を得たことで、主イエスを裏切ってしまいました。金が最終的な動機ではなく、主に対する失望が動機であったことは容易に考えられますが、それにしても、金のために先生を売ったという事実は拭えません。

・その悲惨な最期:
18-19節の事情説明は、ペテロの言葉というよりも、ルカが読者のために挿入として加えたものと見られます。ですから、新改訳聖書では、括弧付きなのです。@地所の購入と使途:「この男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れた」と語られていますが、事実の時間関係を良く見ると、ユダ自身が地所を購入して登記までする時間を持っていたとは考えられません。ユダが自分の行動を悔いて、神殿で投げつけた金を祭司達が使って陶工の畑を購入して、ユダの名前で旅人達の墓地に提供した(マタイ27:7)というのが真相です。ユダはこうした土地に関する取引を見る前に自殺しました。A自死の状況;ユダは首を吊ったのですが、綱が切れて逆様に落ち、その結果、骨が砕け、腸が飛び出すような悲惨な死に方をしました。悲しいことですが、これが事実です。「使徒の働き」の著者であるルカは、この事実を彼のリサーチの時に知らされ、恐らく後にアケルダマ(血の地所)と呼ばれるようになったその土地も自分の目で見、特別な感慨を得て、この文章を挿入したものと思われます。
 
3.詩篇の予言の成就(20節)
 
 
「実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』」
 
・主の裁きとして:
ペテロはここで二つの詩篇を引用します。第一は、詩篇69:25「彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。」です。この詩篇はダビデの祈りです。ダビデが真実に、謙って主の道を求めていることをあざ笑う人々に対して、主の裁きを求める祈りです。単なる報復的な祈りではなく、主の正義を求めるその文脈の中で彼は、これらの人々の住まいが荒れ果てるようにと祈りました。ペテロは、この祈りを新約のダビデであるキリストのケースに当てはめました。詩篇の相手は複数ですが、これを単数に変えて「彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。」とユダに当てはめるのです。

・代わりの選任:
第二の引用は詩篇109篇からです。この詩篇もダビデの祈りで、ダビデに対して邪悪な動機をもって敵対するものへの裁きを求めています。その祈りの一部が8節です。「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り・・・(ますように)。」との祈りが、ユダの脱落によって欠員となった使徒職の代わりを選任することに当てはめられます。「その職は、ほかの人に取らせよ。」と。その職とは、この場合、使徒職のことです。
 
4.使徒職の補充(21-23節)
 
 
「『ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。』そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。」
 
・使徒職の要件:
ペテロは、使徒職の補充を提案します。11弟子のままではどうしていけないのでしょうか。これは、イスラエルの12部族と関係がありそうです。イスラエルは12部族で完結していました。新しいイスラエルであるキリストの共同体も12人の弟子の構成である方がよく据わるのです。さて、使徒職の選任に当たってペテロは、二つの条件を提示します。@主イエスの公の活動時期の始めから行動を共にした者、A主の復活を目撃した者。この要件は、教会という新しい共同体の基礎を据えるときにどうしても大切なものでした。

・選任の手続き=皆にはかり、候補を立てる:
ペテロは、自分で決めることも出来たかもしれません。少なくともある候補を出して、拍手で決めると言う方法を取ることができたかもしれません。或いは、11人だけで相談するという方法もありえたことでしょう。でも、そうした密室的な方法を取らずに敢えて120人の同士に相談しました。大変知恵深く、フェアな方法です。

・二人の候補=@ヨセフ=バルサバ(安息日の子)別名はユスト(正義);Aマッテヤ(70弟子の一人):
その時、祈祷会の参加者から二人名前が挙がりました。バルサバ(意味は、「安息日の子」で、多分誕生日が安息日だったのでしょう)と呼ばれ別名をユスト(意味は、「正義」)というヨセフが第一候補、マッテヤ(彼は、70人の弟子の一人であったと考えられています)が第二候補でした。ペテロが決めたのではなく、「彼ら」が提案したことが大切です。しかも一人ではなく二人でした。二人が同じように指導的な賜物を持っていたことによるのでしょう。でも、甲乙つけがたいほど両方とも勝れた人物だったのでしょう。私たちの会議などで、書記とか会計の選任をする場合、一人の候補が出されると後の候補が出なくて、みんな賛成々々と一致して決めてしまうのと違って、私は知恵のある方法と感心してしまいます。
 
5.マッテヤの選任(24−26節)
 
 
「そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。」
 
・みこころを求める祈り:
彼らは祈りました。「すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」ここで再びユダのことが言及されます。彼が「自分のところ」へ行ったのだ、と。この抑制された表現が見事です。地獄に行ったとも厳しく決め付けていませんし、最後は悔い改めて天国に行ったと楽観もしていません。行くべきところ、それは主のみがご存知のところです。さて、彼らは、「すべての人の心を知っておられる主よ。」と呼びかけました。私たちは人を選ぶときにその背景を全部知って選ぶわけではありません。知り給うのは主です。とすれば、主の御心がなるようにとの祈りをもって人を選ぶべきです。使徒職は、初代教会にとって土台となる大切な役目です。適当に誰かを選べばよいというものではありません。ですから彼らは、主のみ心を示してくださいと切に祈ったのです。その具体的方法が、くじ引きだったわけです。

・くじ引き:
二人を決めておいて、最終的にはくじ引きが採用されました。くじというと、何となくあてずっぽう的で無責任な決め方のように思う人も多いのではないでしょうか。でも、聖書の中にはくじ引きで大切な職を決める方法がよく行われていました。例えば、イスラエルの初代の王サウルは、くじ引きで選ばれました。悪い人物のくじ引きとしては、ヨナやアカンの例があります。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」(箴言16:33)とあるからです。キャンベル・モルガンという有名な説教者・聖書注釈者は、ここでくじを引いたことは間違いであった、また、その結果も間違いであったとコメントしていますが、私はそこまで言う必要はないと思います。もちろん、すべてのくじ引きが神の決定を示すとか、何かの判断の時にすべてくじ引きで決定しなければならないとは思いませんが、一つの方法として、この妥当性を私は信じています。因みに、インマヌエルの代表選挙でA候補とB候補の得票が同数であった場合は、「選挙管理委員会が抽選で決める」との選挙規定があります

・結果:
くじの結果はマッテヤでした。一同は、それを神の御心と受け入れました。マッテヤ自身も、そんな決定は「待ってや」とは言いませんでした。ヨセフも、そんな決定はいい加減だと文句を言いませんでした。彼は、12弟子にはなりませんでしたが、むくれることもなく、すねることもなく、淡々と弟子としての証を全うしました。伝説によると、このヨセフは反対者達の挑戦に応じて蛇の毒を飲み、害を受けなかったというエピソードを持っています。また、マッテヤはエチオピヤの宣教師になったそうです。
 
おわりに:トーチは私たちに継承されている
 
 
このように、キリストの証しをするという大切な務めは、世代を超えて継承されていきます。WGMの宣教大会の締めくくりには、とても感動的な、そして厳粛な儀式が行なわれます。引退する宣教師達が、新しく任命された宣教師達に燃えさかるトーチを引き継ぐという儀式です。しかし、引退する宣教師ばかりが多くて、新人宣教師がいなかったら、どういうことになるでしょう。トーチは立ち消えになってしまいます。この時代、私たちこそが宣教のトーチを引き継ぐのです。その厳粛さを覚え、主の証し人としての生涯を全うしましょう。
 
お祈りを致します。