礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年6月16日
 
「青年は幻、老人は夢を!」
使徒の働き連講(6)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章11-24,32-33節
 
 
[中心聖句]
 
  11   神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
(使徒の働き2章17節)


 
聖書テキスト
 
 
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。
14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。<ヨエル2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。>18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。>19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。<2:30 わたしは天と地に不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。>20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。<2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。>21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』<2:32 しかし、主の名を呼ぶ者は皆救われる。>
22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。・・・
32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。 33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
 
はじめに
 
 
先週は、ペンテコステの祭りに上京してきた世界各地からの巡礼者に対して、弟子たちが彼らの地方語を用いて説教したことを話しました。今日はその続きです。
 
1.「他国のことば」による説教への反応(11-13節)
 
 
・「他国のことば」による説教(地図@、A参照):
この地図は、巡礼者たちの出身地を示すものです。地中海世界とメソポタミア地方の15の国・地域からのユダヤ人及び改宗者がこの中に含まれています。彼らは、「いろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを」聞いたのです。彼らは当時の世界共通語であるギリシャ語も理解し、ユダヤ人の言葉であるヘブル語(アラム語)も理解できましたが、ガリラヤ人である弟子達が彼らの生活用語である地方語で神のみ業を語ったことに感動しました。

・おどろき:
彼らはその驚きを率直に言い表しました。無学の弟子達が自分達の言葉をしゃべることが驚きであり、また、メシアが既にこられたという福音新鮮な感動でした。恐らく、巡礼者の多くは、このような好意的な反応を示したものと考えられます。

・嘲り:
しかし、すべての人が単純に感動した訳ではありません。「あいつらは、甘いぶどう酒を飲んで酔っ払っているだけなのさ。」この人々の観察は論理的ではありません。酒に酔ったくらいで外国語がすらすらしゃべれたら、苦労はないはずなのに、神の業を酒のせいにして嘲笑ったのです。こんな批判的な反応は、主としてエルサレム在住のユダヤ人が示したものと考えられます。
 
2.ペテロの応答(14-16節)
 
 
ペテロは11弟子と一緒に立ち上がります。恐らくその場所は、神殿の中庭であったと考えられます。少し高いところに立ち、聴衆を眺め渡しながら、厳かに、しかもはっきりとした口調で語り始めました。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々よ」と。批判的なコメントが、巡礼者よりもユダヤとエルサレムの住民から起きていたことを示唆する呼びかけです。

・酒に酔ってはいない:
ペテロはまず、「酒に酔っている」との嘲りに反論します。今は朝の九時なの、こんな朝から酒に酔う人などいるわけがない、と。勿論、朝寝、朝酒、朝湯が大好きな小原庄助さんのような人もいるかも知れませんが、まずもって、みんながこんな時間から酔うはずがない、と明言します。

・ヨエル預言の成就である:
私たちは「酔える」ものではないが、私たちの行動は預言者「ヨエル」の預言の成就だと切り替えします。こんな言葉遊びは、日本語でしか分からないものではありますが・・・。
 
3.ヨエル預言(17−20節)
 
 
・ヨエルの時代背景:
さて、ペテロはヨエル書2:28−32を引用するのですが、それを理解するために、ヨエルの時代背景とその預言の意義を簡潔に概観します。彼の預言の内容から判断して、ヨエルの時代はBC830頃のユダ国のヨアシ王の頃と思われます。その時代、蝗の大被害(1:4)が発生し、イスラエルは痛めつけられました。蝗が大発生すると、空が暗くなるほどの蝗で覆われます。緑という緑、木の皮、着物さえも食い尽くされてしまいます。預言者は、この自然災害を外敵の侵略の予兆と見ました。この災害は神に対する不服従への刑罰であるという解釈に立って、国民的悔い改めを呼びかけ、さらに、その悔い改めが齎す国民的な回復を約束しました。その回復とは三通りであって、a)豊かな収穫(2:19―27);b)外敵からの守り(2:20);c)霊的な祝福(2:28−32)です。霊的祝福の最大の形が聖霊の注ぎです。

・末の時代が「今」:
ヨエル2:28で「その後」主がその霊を注ぐ、と預言していますが、「その後」とは何でしょうか。ヨエル2:27までに述べられている様々な祝福が与えられた後と解釈できます。しかし、ペテロは、この部分を預言者達の終末観に照らして「末の日に」と言い換えています。これは、「主の日」とも呼ばれ、神が格別な力を持って働き給う時代、つまり、メシアの来臨によって実現する王国の時代を指します。この預言は、ペンテコステにおいて成就すべきものでありました。なぜそれまで待つ必要があったのでしょうか。それは、キリストによる贖いが実現しなければければならなかったからです。ヨハネ7:38−39に「イエスは未だ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」とあるのは、その意味です。水道に水を注ぐ前に配管工事がなされなければならないように、聖霊の注ぎの前に、救いの備えが十字架によって完備されなければならなかったのです。キリストが十字架にかかって贖いを成し遂げ、復活によってその贖いを保証し、昇天して神の右に座し、約束の御霊を人々に注ぐ、というインフラの準備が完了した後に、聖霊が注がれました。その前でも後でもいけませんでした。その「末の日」の始まりが今だ、とペテロは宣言したのです。

・特別な人ではなく万民に聖霊が:
すべての人に聖霊が注がれる、という思想は旧約時代には余り見られません。民数記11:29には、モーセが、すべての人に聖霊が注がれて、すべての人が預言者となればよいのに、と祈っているところがありますが、これは、例外的でした。ヨエルは、その「すべて」を強調するために、息子、娘、年寄り、若者、しもべ、はしため、と列挙しています。立場や、年齢や、性別や、社会的地位には全く関係がありません。ただ、その人が真実に求めているかいないかだけが問題なのです。ですから、「すべて主を呼び求めるものは救われる」と語られているのです。これは、新約時代に、キリストの恵みが豊かに注がれるすばらしい出来事の預言です。

・部分的ではなく、聖霊が満ちるほどに「注がれる」:
ヨエルは、聖霊が「注がれる」と預言しています。注ぐと言う行為は、聖霊のお働きが制限なく、豊かに、フルに私達に与えられることです。僅かの分量が振りかけられるような祝福ではなく、南方のスコールのように全身が浸るほどの徹底的な満たしです。具体的にいえば、聖霊の思いが私達の思いとなり、聖霊の願いが私達の願いとなるまでに一体化することなのです。ちょうど魚の粕漬けのようなものです。酒粕のうまみと言うものが長い時間を掛けて魚の肉に浸りまして、得も言われないほどの美味となります。私達の性質が、御霊の感化によってひたひたに浸されて、得も言われないほどのキリストの美味を蓄えるのです。

・預言(神の言葉の伝達)を齎す:
預言といった表われが指摘されています。預言とは、神のみ心が、曖昧な形ではなく、はっきりと示され、それを説教という形で宣言され、それに従う民が多く起されることです。ペンテコステにおいてペテロとその仲間達は、キリストの福音のすばらしさを、明確なことばを持って、しかも大胆に語りました。その結果救われる魂が起き、教会が生まれました。そして、そのような顕著な聖霊の注ぎは、教会歴史の中で繰り返されてきました。それを「リバイバル」と言います。18世紀のイギリスにおいて、19世紀のアメリカにおいて、リバイバルは社会を動かす運動として国づくりに貢献しました。日本でも、プロテスタント宣教の初期、横浜で、札幌で、熊本でリバイバルが起きました。第二次大戦の前に、ホーリネス教会を中心に、リバイバルが起きました。

・幻・夢(将来に向けての神の御心)を与える:
「老人は夢を見、若者が幻を見る」とは、老人が過去の懐古的な思い出に耽り、若者が将来的な幻を見る、という風に、老人と若者を区別しているのではなく、夢・幻は並行的に語られ、双方とも、将来に向けての神の御心を指すものです。パウロがマケドニヤ伝道を始めたのも神が与えなさった幻からでした。ヨセフもダニエルも将来を示す夢や幻を示され、国を正しく導きました。もちろん、偽預言者が幻と称する物を告知して民を惑わすケースも多くあり、これは注意深く扱わねばなりませんが、でも主から将来に進むべき道を示していただくことは大切です。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(箴言29:18)

・祝福は真実な悔い改めから起きる:
聖霊の注ぎの条件は、真実な悔い改めです。「悔い改め」(ヘブル語のシューブ)とは方向を変えることです。悔い改めとは、心、性格、思想、生活、行動における方向の転換です。神に背き、神をないがしろにした心と行動を止めて、神を畏れ、神に従う心と生活に立ち返ることです。悔い改めはまた、単なる方向転換ではなく、断食と涙と嘆きを伴うものです。嘆きとは、自分の過去や現在の有様について深い申し訳なさを感じ、それを表わすことです。ヨエル2:12−14には、個別的な断食、悔い改め命じられています。罪が一人々々から始まるように、悔い改めは、一人一人の心から始まります。2:15−17は、集合的悔い改めの勧告です。シオンで悔い改めの集会を開きなさい、誰も言い訳をしないで、皆集まりなさい。というのがこの集会の召集の強さです。この個別的かつ集合的悔い改めがなされるときに初めて、すべての人への聖霊の注ぎが可能となります。真剣な悔い改めが聖霊の注ぎの条件であることは、ヨエルの引用の後にペテロが人々の悔い改めを迫ったことで示されます。
 
4.キリストの生涯と最期
 
 
さて、ペテロは22―33節で、キリストの生涯を紹介し、その生涯と聖霊の降臨との関係を示します。

・キリストの力あるみ業:
「22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」ナザレのイエスは、多くの奇跡を通して彼が神によって遣わされたことを証しました。

・十字架の死:
「23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」ユダヤ人達が、ナザレのイエスを十字架につけたことをペテロは非難していますが、同時に、それが神の摂理に基づくものであることを示します。

・復活:
「24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。・・・」キリストの復活については、この24節で言及されているだけでなく、続く詩篇の引用によっても裏付けられ、更に32節で繰り返されます。

・昇天・着座(その証として聖霊が注がれた):
「32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。 33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」ペテロは、ペンテコステの今起きている現象の説明に戻ります。聖霊の注ぎは、キリストが召天し、神の右に着座したことの結果として起きているのだ、それこそ、旧約の諸預言者達の預言の成就なのだと振り出しに戻った説明をもって説教の前半を締め括ります。
 
終わりに:神が示しなさる将来像を神の視点から捉えよう
 
 
今日の説教題に再度目を向けましょう。あなたにとって幻とは何でしょうか。夢とは何でしょうか。それは、過去の成功体験に留まることではありませんし、その延長線上にあるものでもありません。神が示しなさる将来像を神の視点から捉え、それを現実の様々な課題に当てはめることです。主の御霊がそれを豊かにし、現実化してくださるのです。

マーティン・L・キング牧師は、1963年8月28日、「自由のためのワシントン大行進」のために集まって来た25万人の聴衆に、こう語り掛けました。「今から100年前、われわれが今日その象徴的な姿の前に立っている、一人の偉大なるアメリカ人が奴隷解放宣言に署名した。」と静かに語りだしました。彼は、黒人の生活の苦しみ、人種差別の状態を述べ、今こそ正義を非暴力の形で実現すべきと説きます。アモス5:24を引用し、「公義が水のように、正義が尽きない川のように流れる」時を望みます。その後で、“I have a dream”を繰り返します。「さて我が友よ、われわれは今日も明日も困難に直面しているが、私はそれでも尚夢を持つと申し上げたい。それはアメリカの夢に深く根ざした夢である。私はいつの日かこの国が立ち上がって『全ての人は平等に造られ』というその信仰を生き抜くようになるであろう、という夢を持っている。われわれはいつの日か・・・かつての奴隷の子孫と奴隷主の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座るであろう、という夢を持っている。そして私は、私の四人の小さな子ども達が、いつの日か、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになるであろう、という夢を持っている。」と述べ、イザヤ40:4−5で締め括りました。

私も古希を過ぎましたが、夢を持って奉仕をしています。主がその夢を実現してくださるように祈ります。それを実現する方法と手立てを示してくださるように祈っています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)
 
お祈りを致します。