礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年6月30日
 
「キリストの逆転勝利」
使徒の働き連講(7)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章22-36節
 
 
[中心聖句]
 
  36   すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(別訳:神は、あなたがたは十字架につけたこのイエスを、主ともキリストともされたのです。)
(使徒の働き2章36節)


 
聖書テキスト
 
 
22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。 23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。 28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
29 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。 32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。 35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』 36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
 
はじめに:ペテロ説教のテーマ「イエスは主であり、メシア(キリスト)である」
 
 
前回は、2:17の「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」という御言の思い巡らしを致しました。これは、ヨエル預言の一節ですが、ペンテコステに起きた大きな風の音、火のような舌、外国語での説教というような不思議な現象を説明しているペテロの言葉の一部です。

今日はその続きです。ペテロは22―36節で、イエスは主であり、メシア(キリスト)であることを論証します。論証に当たって、イエスの生涯を四つのステージに分けて説明します。
 
第1ステージ:力あるみ業(22節)=イエスのわざは、神の訪れの証し
 
 
「22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」
 
ナザレのイエスは、多くの力あるわざと不思議としるしを行ないました。それらを通して、神が人の世界に訪れてくださったことを証しされました。その記憶は、この聴衆の間では未だ新鮮でしたから、詳しい説明は要りませんでした。
 
第2ステージ:十字架の死(23節)=人間の悪意の中に働く神のご計画
 
 
「23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
 
ユダヤ人達が、ナザレのイエスをローマ人の手によって十字架につけたことをペテロは非難しています。しかし同時に、それが神の摂理に基づくものであると語ります。人間の悪意に基づく邪悪な行動でさえも、神の大きなご計画の中に組み込まれるという不思議な神の支配を示唆しています。
 
第3ステージ:復活(24−32節)=イエスは死の中に放置されなかった
 
 
「24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。 28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
29 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。 32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」
 
・神はイエスを死という縄目の中にほおって置かれなかった=ペテロは、主イエスが死んだままでいるはずがないと力説します。その根拠として、ダビデの作った詩篇16篇を引用します。

・詩篇16篇とは:「主だけが私の喜びである、というダビデの告白」の詩と見ることができます。特に2節、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」そして8節「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」はダビデの魂の喜びを歌っています。ペテロが引用したのは、その8節以下ですが、彼の生涯において主守ってくださることを確信する告白を捧げます。私が詩篇16:8以下を読みますので、皆さんは「使徒の働き」2:25以下を見て比較してください。

詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。使徒2:25『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。

9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。

10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。

11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』

この中で特に詩篇16:10をキリストの復活に結び付けているペテロの説明(使徒2:27)に心を向けたいと思います。ペテロが語った要点は4つです:

1)ダビデの確信:
ダビデは、自分の魂がよみ(死者)の世界に放置されるはずがないと確信していた。

2)ダビデの実際:
しかし、実際から言えば彼自身は死んで葬られてしまったので、「その肉体は朽ち果てない」と言う約束は、ダビデには当て嵌まらない。そのことが29節で説明されています。「兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。」と。実際、ダビデの墓は、エルサレムの南側でシロアムの池のそばにありましたから、ダビデの死は、エルサレム住民にとって白昼よりも明らかな事実でした。さて、それでは、詩篇16:10のお約束は実現しなかったのでしょうか。

3)メシアの約束:
そうではなくて、彼の子孫の一人によって実現する、とペテロは言うのです。それが30節です。「彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。」この神の誓いについては、第二サムエル7章に記されています。そこでは、先ずダビデが神のために神殿を建てたいと願い出ます(7:2)。しかし神は、それを許さず、反対に、神がダビデのために家を建てる(7:11)、ダビデの子孫が建てる王国は永遠に確立する(7:13、16)と約束してくださいます。簡単に言いますと、ダビデの子孫からメシアが興るという約束です。

4)イエスがメシア:
ナザレのイエスはダビデの子孫であり、復活によってメシアであることを宣言されました。つまり、詩篇16篇に約束されている死者からの復活は、イエスにおいて実現したのです。したがって、イエスこそ待望のメシアだったのです。「31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。 32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」という言葉の強調点はそこにあります。

大変説得力のある論法です。初代教会において詩篇の中のメシア詩をイエスに当て嵌めた素晴らしい一例をここで見ます。
 
第4ステージ:昇天して神の右の座に(33−34節)=その証しが聖霊の注ぎ
 
 
「33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。 35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』」
 
・聖霊の注ぎはイエスの昇天と着座の証し:ペテロは、ペンテコステの今起きている現象の説明に戻ります。聖霊の注ぎは、キリストが昇天し、神の右に着座したことの結果として起きているのだ、と振り出しに戻った説明をもって説教を締め括ります。

・詩篇110篇による証明:イエスの昇天と着座とは、詩篇110篇からの引用で証明されます。詩篇110:1を読みますと。「1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」34b主は私の主に言われた。 35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。

詩篇110篇もメシア詩と呼ばれるものの一つです。ペテロがこの詩を引用した論点を纏めると以下のようになります。

1)1節最初の「主は」とは、神ご自身のことです。

2)それに続く「私の主に」と言われている「主」は、神の副王としてのメシアのことです。

3)そのメシアが敵を征服して、神の右の座に着かれると約束されています。

4)そのメシアはダビデのことではなく、ダビデの子孫のことです。

5)メシアたるイエスが神の右の座に着いた証拠として、神の約束による聖霊を送られました。ペテロの言おうとしていることはこうです。「詩篇16篇に語られたメシア不滅の約束は、イエスの復活によって実現し、詩篇110篇に語られたメシア着座の約束は、聖霊の注ぎによって確認された。」この論法は、誠に一部の隙もない、堂々たるものです。
 
5.キリストの勝利(36節)=人間の意地悪が神の栄光に用いられた
 
 
ペテロはここから思い切った勝利宣言を致します。
 
「36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
 
この節後半の文章は、語順を言い換えることが出来ます。「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神が、今や主ともキリストともされたのです。」と。つまり、「あなたがたは最大限の意地悪を行ってナザレのイエスを十字架につけた、しかし、歴史のすべてを握っておられる神は、あなたがたの意地悪をも救いの手段として用い、それどころか、大きな栄光を現わされた。」と。これは、いにしえ、ヨセフが兄貴達の意地悪に虐められながらも、その苦難の期間を信仰によって乗り越え、エジプトの総理大臣になった出来事を思い出させます。ヨセフは最後にこういいました。「あなたがた(兄貴達)は、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)と。
 
おわりに:逆転勝利の主
 
 
私たちの人生にも、どうして悪い人々が大きな顔をして世間を歩いているのだろうか、とか、私たちの身にどうして人々の意地悪が集中するのだろうかと言った疑問を持ちたくなるような出来事が沢山あることでしょう。その時、このヨセフの言葉を思い出しましょう。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」と。イエスの十字架が、正に逆転勝利の実例です。神は人の悪を許容し、用いながらも、大いなる御手をもって、それらを善なる目的のための手段と変えることができる神です。信じて委ねましょう。
 
お祈りを致します。