礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年7月7日
 
「賜物としての聖霊」
使徒の働き連講(8)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き2章36-47節
 
 
[中心聖句]
 
  38   悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
(使徒の働き2章38節)


 
聖書テキスト
 
 
36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。 38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。 39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」 40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。 41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。 42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。 44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。 45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。 46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
 
1.ペテロ説教の結語(36節):「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、今や主ともキリストともされた」
 
 
「36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
 
前回は、「イエスは主であり、メシア(キリスト)である」というテーマで語られたペテロの説教を学びました。36節はその締めくくりの宣言です。語順をかえると「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、今や主ともキリストともされたのです。」となる(その方が自然)とお話しました。
 
2.罪責感に襲われる(37節)
 
 
「37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』と言った。」
 
・人々の驚きと罪責感:
罪なきメシアを十字架につけたという悔いと驚き=「これを聞いて心を刺され」とありますが、文字通りには、針や剣の鋭い切っ先で刺されるという意味です。ペテロは、聴衆に対してイエスがメシアであるという頷きを齎しただけでなく、そのメシアを十字架につけてしまった大きな過ちについて、彼らの良心を呼び覚ましました。聴衆の中には、50日前に「十字架につけよ!」と叫んだ人々も交じっていたことでしょう。「自分を救えない救い主、悔しかったら十字架から降りて来い」とあざ笑った人々もいいたことでしょう。その人々にとって、自分たちが十字架につけたナザレのイエスが、実は、神に遣わされたメシアであり、今や救いを成し遂げて神の右の座におられる栄光の主であるという宣言は、正に驚天動地でありました。しかも、その事実が、自分たちが信じている聖書によって預言されていることであり、まごうことなく神の深いご計画の中に起きた出来事だったという事に愕然としました。「何という申し訳ない、やってはいけない過ちを犯してしまったのだろう」という深い悔恨が人々の中から溢れてきました。話が飛びますが、昨週、保護司研修の一環として、ある刑務所を訪問し、そのカウンセリング担当の刑務官から犯罪者の実情についてお話を聞く機会が与えられました。彼の言葉の一節ですが、「重罪を犯した犯人ほど、改悛の情が深く、更正も早い」ということです。反対に、万引きとか無銭飲食とかの犯罪者は、罪意識も浅く、再犯を繰り返すそうです。何か人生の真理を物語っているように伺いました。

・真実な質問:
「私たちはどうしたらよいか(赦されるためには何でもする)」=さて、深い改悛の情に動かされた人々は、自然な反応として、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と叫びました。「無知で行なったこととはいえ、本当に申し訳ないことをしました。こんな赦し難い罪を犯してしまった私たちですから、赦していただくためにはどんなことでも致します。救いの君を殺してしまったのですから、救いの望みは全くありませんが、一縷の希望でも下さいませんか。」というようなニュアンスがこの叫びに含まれていました。
 
3.ペテロの勧め(38−40節)
 
 
「38 そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。 39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』 40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。」
 
・悔い改め:
自己中心から神中心へ転換=ペテロは先ず「悔い改めなさい」と勧めます。悔い改めとは方向転換のことです。自己中心と神への反逆という罪から神に従う道へと方向転換することなのです。人々は、神から遣わされたイエスを十字架につけた反逆の罪を心からお詫びし、神に従う決意をすることが必要でした。

・バプテスマ:
イエスをメシアと信じる信仰の告白=悔い改めという心の転換の一面は、主イエスへの信仰です。神への反逆をお詫びして、主イエスを救い主と信じ、それを告白する必要があります。その信仰を公に告白するために、「イエスのお名前で」バプテスマを受けるべきでした。

・聖霊の賜物:
信じて救われた者の心に聖霊が宿り給う=バプテスマの結果として、彼らは賜物として聖霊を受けることが約束されました。この句は「聖霊の賜物」と訳す方が自然なのですが、(他の箇所で)「聖霊の賜物」と呼ばれる様々な能力のことではありません。聖霊という賜物です。ですから、翻訳者はあえて「賜物として聖霊を受ける」と訳したのです。丁度、弟子達が今しがた聖霊の注ぎを頂いたように、信じる者には聖霊が降る、とペテロは言うのです。聖霊を受けるのは、信じて救われた結果です。キリストを信じたものには聖霊が宿りなさいます。聖霊は、私たちに主を愛するここと、主に従う心を与え、その信仰生活を導いてくださいます。

・この賜物はすべての人に:
ユダヤ人・異邦人を問わず、すべて信じる者に=この賜物の約束は、「あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられている」とペテロは宣言します。短く言うと、ユダヤ人と異邦人とに与えられていると言うのです。ヨエル2:28−32には、万人が聖霊を受けることが預言されていました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。・・・主の名を呼ぶ者はみな救われる。」イザヤ57:19にも「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」という預言がありますが、その預言が今や成就したと言うのです。

・この賜物はすべての人に:
ユダヤ人・異邦人を問わず、すべて信じる者に=この賜物の約束は、「あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられている」とペテロは宣言します。短く言うと、ユダヤ人と異邦人とに与えられていると言うのです。ヨエル2:28−32には、万人が聖霊を受けることが預言されていました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。・・・主の名を呼ぶ者はみな救われる。」イザヤ57:19にも「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」という預言がありますが、その預言が今や成就したと言うのです。
 
4.最初の教会(41−47節)
 
 
「41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。 42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。 44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。 45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
 
この部分は、今年のペンテコステ礼拝のときに詳しく学びましたので、今日は要点をおさらいするだけに留めます。

・共同体が形成される:
三千人の洗礼式=人々は、ペテロの言葉を真っ直ぐに受け入れ、そしてバプテスマを受けました。どんな形態で受けたか興味のあるところです。近くの池(ベテスダまたはシロアム)に行ったのかどうかは分かりませんが、ともかく三千人の洗礼式とは見事なものだったことでしょう。三千という数は、主イエスが生前、ガリラヤを廻って伝道なさったときに作られた弟子の数よりはるかに多い数であったと思います。いずれにせよ、この日だけで三千人が弟子団に加入しました。この時期にはまだ「教会堂」という集会所はなく、今まで通り神殿における祈りの時間に集まって祈りを捧げましたが、特にキリストの弟子たちは、神殿の一角であるソロモンの回廊を集合場所としたようです。同時に、家々で交わりを保ちました。どんな営みがなされたかを2章の後半から拾って見ますと:

@教え:
キリストの生涯と教え=42節「彼らは使徒たちの教えを堅く守り」ました。「使徒達の教え」とは、キリストの生涯と教えと救いについての教えでした。使徒達が覚えている限りのキリストの言葉、行いを、新しく信者となった人々に伝えました。こうした教えが繰り返され、定式化されるに従って信徒達の記憶に留められ、伝承されて行きました。これが福音書の基礎になりました。初代教会の集会の主な部分がキリストの教えに関する説教であったこと、彼らが集会を重んじたことが分かります。私達が集会を重んじるのも、初代教会以来の伝統に従っているからなのです。

A交わり:
霊的なそして物質的な分かち合い=「交わり」(コイノーニア)とは、コイノス(共通の)という言葉から生まれました。彼らの交わりは第一義的に霊的な分かち合いでした。単なる社交ではなく、神の恵を称え、互いを励ますことを目的とした会話がなされました。このような霊的交わりは、共に食事をするという行為に現れました。三々五々、適当に家々に集まりました。そして、その分かち合いは、持ち物を共にした共同的な生活に現れました。「いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」(45節)のです。これは、自発的な喜びと感謝の心から出た愛の行いとしての助け合いでした。

Bパンを裂く:
主の死の記念=42節の「パンを裂き」という行為は、最後の晩餐に倣ったシンプルな、しかし印象的なものでした。彼等はこの儀式を毎週日曜日に行いました。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒20:7)のです。パンを裂く度に、十字架の前の夜にご自分の肉の象徴としてパンを裂かれたことを懐かしく思い出していました。

C祈り:
神殿で、また家庭で=信者達は、時間を決めて神殿に集まって祈りました。つまり、ユダヤ教の神殿礼拝に今までどおり参加したのですが、クリスチャンだけの祈り会も家庭々々で持っていました。迫害にぶつかっては心を一つにして祈り(4:24)、ペテロの捕縛の時にも皆が夜遅く迄熱心に祈りました(12:5)。私達の家庭が祈る家庭であり、近隣のクリスチャン達を集めて祈る祈りの場であったならば、どんなに素晴らしいことでしょう。私たちも集会のたびに三々五々共に祈り、祈って別れると言う習慣を身につけましょう。また、祈祷会を愛し、祈祷会で勝利を得る経験を私たちのものと致しましょう。

・信徒の増加:
46,47節を読みましょう。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」初代教会のメンバー達が持っていた「絶えず祈り、常に喜び、全てのことを感謝する」スピリットが好意を持たれないはずはありません。これは、心に宿っている聖霊のお働きとしてしか説明できないものです。さらに、弟子団の外にいた人々へのインパクトについて、幾つかの興味ある表現が記されています。一つは、「恐れ」です。それは、恐怖ではなく、神が働いておられるという事実に基づく畏怖でありましょう。それが、弟子達によってなされた「不思議としるし」によって加速されました。さらに、愛の施しによって、弟子のグループの魅力は増して行きました。愛の施しはクリスチャン内部のものだけではなく、他の人々にも及んだと考えられます。47節の「すべての民に好意を持たれた。」とあるのはそのことであろうと思います。東北の人々の多くは、震災後になされたクリスチャン達の愛の行いによって心が開かれたと言われています。
 
おわりに:賜物としての聖霊が与えられていることに感謝し、このお方に一層依り頼みつつ歩もう
 
 
最後に、今日のテーマ聖句を繰り返して祈りましょう。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
 
お祈りを致します。