礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年7月14日
 
「力あるイエスのみ名」
使徒の働き連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き3章1-16節
 
 
[中心聖句]
 
  6   「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
(使徒の働き3章6節)


 
聖書テキスト
 
 
1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。 2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。 3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。 4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。 5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。 6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、 7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。 9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。 10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。 12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。 13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。 14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、 15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。 16 そして、このイエスのみ名が、そのみ名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
 
はじめに:
 
 
前回は、2:28の「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」という御言に沿って、賜物として聖霊というテーマで学びました。今日は、初代教会の活き活きした活動に関わる一つのエピソードに注目します。2:43には、「多くの不思議としるし」が行なわれたことが記されていますが、その不思議としるしの代表的な一例が3章に記録されています。
 
1.ペテロとヨハネ、神殿の祈りに参加(1節)
 
 
「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」
 
・ペテロとヨハネの参詣:
ある日のこと、ペテロとヨハネがいつものように祈りの時間(午後3時ごろ)に神殿に祈りのためにやってきました。ペンテコステで始まったばかりの教会では、信徒の集まりが家々で持たれていましたが、それと並行するように、ユダヤ教の礼拝行事もしっかりと守られていました。

・「祈りの時間」:
「祈りの時間」とは、午前9時、正午、そして午後3時の3回、生贄が捧げられる時間に前後して、一般の礼拝者たちが集まって建物の中庭(イスラエルの庭)で祈りを捧げる慣わしのことです。ペテロとヨハネはその祈りに加わるために、「異邦人の庭」と呼ばれる広場から「婦人の庭」に入り、更に「美しの門」(神殿の東側で別名ニカノル門)を潜って「イスラエルの庭」に入ろうとしていました。(神殿全景図参照)

 
2.足のきかない男(2-3節)
 
 
「すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。」
 
・生まれつき足が悪い40男:
丁度その時運ばれてきたのが「足のきかない男」でした。生まれつき足が悪かったのです。何が原因か分かりませんが、足に力が入らず、1歳になっても立ち上がれず、足の悪いまま大きくなって、多感な10代を過ぎ、友達がみんな自立して仕事に忙しい20代もそのまま過ぎ、友達がほとんど結婚して家庭作りに忙しい30代も何事もなく過ぎ、そして、不惑と呼ばれながら、たくさんの悩みを抱える40代、アラフォーに到達しました。

・「美しの門」での商売(神殿の図参照):
この男の日課はというと、家族か友達に担がれて、午後3時頃エルサレムの神殿の東側の入り口である「美しの門」に置かれます。そこは、神殿に参詣する何万という人々が必ず訪れる一番賑やかな門です。ヘロデ王が建てたこの神殿の外には「異邦人の庭」という誰でも入れる広大な広場がありました。そこから「婦人の庭」という神殿の中庭に入る門があり、その奥にユダヤ人男性だけが入れる「イスラエルの庭」という奥庭がありました。「婦人の庭」と「イスラエルの庭」を隔てているのが「ニカノル門」別名「美しの門」でした。コリント風のきらびやかな真鍮で飾り立てたその壮麗さから、この名前がついたのです。

・他人に頼る人生:
「足のきかない男」は、その壮麗さとは全く似ても似つかない服装で地べたに座り込み、声を張り上げて「右や左の旦那様、どうか哀れな物乞いにシェケルを恵んでください。」とお椀のようなものを差し出すのです。殆どは冷たい視線で通り過ぎていきますが、時々は、シェケル銅貨を入れてくれる人もいました。中には侮辱的な言葉を投げかける人もいました。そして、一日が終わると、また、家族が家に連れ戻すとこういう日々でした。何の人生計画も立てられず、恐らく奥さんも子どもも居なかったことでしょう。ただただ他人の好意と助けにすがって生きていく、依存的な人生でした。それしか生きる道がなかったのです。
 
3.ペテロとヨハネに注目(4-5節)
 
 
「ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい。』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。」
 
その参詣の人の流れの中で、2人の男性が、「足のきかない男」の前に立ち止まりました。それだけではなく、男をじっと見つめました。その表情には、何ともいえない穏やかさと優しさが見えました。「足のきかない男」は、お得意さんが現れたと内心喜びを隠すことができず、「旦那様がた、どうか、この哀れな男に銅貨をください。」とお椀を差し出しました。>
 
4.イエスのみ名による癒し(6-8節)
 
 
「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」
 
・「金銀は我になし」(?):
意外な答えが返ってきました。「金も銀も私たちにはありません。」「足のきかない男」はがっくりです。折角笑顔でお願いしたのに、この人たちの財布は空っぽだなんて、ああ何たる不幸かと、自分の笑顔を引っ込めたくなりました。間髪を入れず、年長の男が言いました。「しかし、私たちに持っているものがある。」「ええっ、それは何ですか?」

・「素晴らしい名前!」:
「それは、ナザレのイエスのお名前です。」「ああ、暫く前に十字架についたあのお方?」「そう、そのお方が救い主、メシアなのです。そのお方は、信じる者に大きな力を顕してくださいます。そのお方の名前によってあなたに命じます。今、立って歩きなさい!」「イエスの名前によって」というのは、イエスの名前自体に「開けゴマ!」と似たような魔術的な力が存在するというのではありません。英語の聖書でもBy His nameではなく、In the name of Jesus Christ of Nazarethです(勿論、ギリシャ語でも同じ意味で、エン トー オノマティ・・・となっています)。イエスのみ力を引き出す鍵としてのお名前です。つまり、イエスへの信仰と言い換えることが出来ます(12、16節参照)。これに関連した有名なエピソードがあります。13世紀にトマス・アクィナスという神学者がおりました。ある日彼が法王イノケンティウス4世を訪れたときのことです。法王は、多額のお金を数えていました。法王は自慢げにアクィナスに向って言いました。「ご覧下さい、アクィナス先生。教会が『金銀は我になし』という時代は昔のこととなりましたなあ。」と話しました。「本当ですね。法王様。」とアクィナスも相槌を打ちました。そして続けました。「でも、『立ちて歩め』とう力も昔のこととなりましたね。」と言ったそうです。閑話休題。

・神をあがめる人生:
男が歩いたり、はねたりしながら、したことは何でしょう。それは神を賛美することでした。ひとつも歩けなかった自分の足を強くしてくださった神、依存することしかできなかった人生を自立の人生に導いてくださった神、ナザレのイエスという人によって救いを与えてくださった神を大声で賛美するようになりました。
 
5.人々の驚き(9-10節)
 
 
「人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」
 
・ペテロの説明:
ペテロはそれを見て説明を致します。この癒しは、自分達の魔術的な力によったのではなく、神がその救いのために遣わされたイエスのお名前によって成されたということです。11―16節の中でペテロが強調しているのは、@イスラエルの先祖の神がイエスに栄光を与えたこと、A人々はそのイエスを殺したが、神は復活によって逆転勝利を与えなさったこと、Bイエスの力と権威はその名前に籠められており、その力がこの男を救ったこと、Cその救いの道はイエスのみ名を信じる信仰によることです。
 
6.イエスのみ名の力(11-16節)
 
 
「この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスのみ名が、そのみ名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』」
 
・人々の殺到:
奇跡が起きたのは「美しの門」でした。ペテロ達と男は、最初は讃美しながら内庭(イスラエルの庭)に入り、その後その門から外に出て、「婦人の庭」を通り、「異邦人の庭」と呼ばれる大きな広場へ出ました(再度、神殿全景図参照)。そのころ、群衆は、神殿の東側の「ソロモンの廊」と呼ばれる回廊に殺到してきました。彼らは、ペテロ達が不思議な力をもってこの男を治したと感じて、その仕掛けを見たいと思ったのです。

・ペテロの説明:
ペテロはそれを見て説明を致します。この癒しは、自分達の魔術的な力によったのではなく、神がその救いのために遣わされたイエスのお名前によって成されたということです。11―16節の中でペテロが強調しているのは、@イスラエルの先祖の神がイエスに栄光を与えたこと、A人々はそのイエスを殺したが、神は復活によって逆転勝利を与えなさったこと、Bイエスの力と権威はその名前に籠められており、その力がこの男を救ったこと、Cその救いの道はイエスのみ名を信じる信仰によることです。
 
終わりに:素晴らしい主イエスのみ名を呼ぼう
 
 
今日は、ペテロが強調した「素晴らしいイエスのみ名」を共に考えて終わります。イエスのみ名は、イエスの素晴らしさと力を捉える取っ手のようなものです。どんなドアでも取っ手がなければ開きません。しかし、取っ手をしっかり掴まえると、重いドアでも楽々と開けることができます。イエスのみ名には、イエスの素晴らしさと力が全部込められています。そのみ名を呼ぶものは救われるのです。そして、神の力の素晴らしさを人々に証しする存在に変えられます。今までの生涯が、この「足のきかない男」のように、悲しかった、辛かった、ハンディがたくさんあった、と考える人ほど、神の素晴らしさを表わすチャンスが大きいのです。そのチャンスを生かすのがイエスのみ名への信仰です。この朝、その中に含まれている力と栄光をイメージしながら「イエス様!」と呼んでみましょう。「イエス様、あなたのみ力を信じます。あなたのご愛を信じます。」と呼んでみましょう。そして、この一週間、イエス様のみ名を呼ばわりながら進ませていただきましょう。
 
お祈りを致します。