礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年7月21日
 
「この方以外に救いはない」
使徒の働き連講(10)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き4章1-14節
 
 
[中心聖句]
 
  12   この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
(使徒の働き4章12節)


 
聖書テキスト
 
 
1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、3 彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。7 彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
 
はじめに:足の悪い男の癒しとその反響(3章、前回の復習)
 
 
前回は、3章から、イエスのみ名によって、悪い足が癒された男の記事を学びました。特にペテロが語った「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」という言葉の重みに心を留めました。3章は、その驚くべき奇跡と、その反響の大きさを述べています。2千年経った今でも、イエスのみ名の力は変わりません。そこに含まれている力と栄光をイメージしながら「イエス様!」と呼びましょう、と締めくくりました。

さて、先週は深く触れませんでしたが、3章後半には、このとき集まった群衆に対してペテロが行なった説教が記されています。実に痛快で、ポイントがはっきりした、しかも効果的な説教です。しかし、2章に記録されているペンテコステ説教とほぼ同じですので、それを飛ばして4章に入ります。
 
1.ペテロが留置される(1−4節)
 
 
「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」
 
・祭司達の困惑(神殿全景参照):
特にイエス復活の証言によって=神殿の全景を再度ご覧下さい。ペテロが説教したのは、神殿の広場(異邦人の庭)の一角である「ソロモンの廊」においてでした。神殿は、祭司達が管轄する領域です。その場所で、彼らが十字架に付けたイエスが救い主である、そのイエスが復活した、彼らは神の遣わしたメシアを殺した張本人である、という説教をされるのですから、心中穏やかでないことは当然です。特に祭司階級にはサドカイ派が多く、彼らは死者の復活を信じていませんでしたから、イエスの復活を堂々と論証する説教にはことのほか悩まされました。「困惑した」という言葉は、文字通りには「痛く悩まされた」(ディアポヌーメノイで)です。一般的に言えば、主イエスが地上で伝道されたときに、しょっちゅうぶつかった相手はパリサイ派で、主な論点は、彼らの超保守的な生き方と偽善についてでした。しかし、使徒達がぶつかった相手は、当時政治的な権力を持っていたサドカイ派の祭司達でした。その祭司達が自分達の牙城と思っている神殿で、自分達の信じている信仰を違う内容の演説をされたら、当然困惑することでしょう。たとえば、突然、得体の知れない人間がやってきて、この教会のオアシスホールを占拠して、こんな教会は腐敗しているとアジ演説を行ったら、私も赦してはおけません。2年前のことですが、東日本大震災の直後、外国からやってきた2人の婦人が、礼拝直後ツカツカと前に出てきて「この震災は神の裁きである。悔い改めよ。」と説教を始めたのを覚えておられるでしょうか。私は、「あなたがたには、刑法に記されている礼拝妨害罪が適用される。警察を呼びますよ。」と警告して彼らを包み込んで外に追い出しました。

・ペテロとヨハネの拘束:
「宮の守衛長(神殿の警備担当)」によって=祭司達は、ペテロの説教に困惑しましたが、彼らの場合には、脛に傷持つ身です。しかも、(彼らが嫌っていた、その)イエスの名前によって癒されたと称する男が一緒にいてペテロを崇め、民衆もその男を知っていて、それが直ったということに興奮しているものですから、ここで手荒な真似をしたら暴動に発展する可能性もありました。祭司長達ができたことは、せいぜい、「宮の守衛長(神殿の警備担当)」に命じて、ペテロとヨハネを拘束し、留置場に入れさせることだけでした。男が癒されたのは午後3時で、それから2時間以上は経過していたと思われます。夕刻が近づいていましたので、二人を留置し、処分を翌日に回しにした訳です。

・信徒の増加:
3千人→5千人=ペンテコステで3千人がバプテスマを受けたのですが、日ごとに信徒の数は増加し、そして足のきかない男の癒しという衝撃的な出来事も加わって、信徒の数が5千人(これは男性のみの数で、女性や子供を入れればその倍以上)となりました。この日救われたのが5千人という読み方もありますが、私は、信徒の総計がこのころ5千人になったという読み方の方が自然であるし、頷ける内容と思います。
 
2.ペテロが尋問される(5−12節)
 
 
「翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真中に立たせて、『あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。』と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。『民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。」というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』」
 
・サンヒドリン(議会):
翌日「民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。」とあります。サンヒドリンと呼ばれる議会が召集されたのです。
・性格:
サンヒドリンは、ユダヤの指導者達71名からなる議会で、ユダヤ国内の宗教的・政治的・社会的問題について、討議し、採決する裁判所・国会のようなものでした。
・会合場所:
その会合場所は、神殿地域の直ぐ西の外側にありました(再度神殿全景参照)。

・構成:
この時点では9年間の在任を終えて引退していた元大祭司のアンナスが隠然たる影響力を持っていました。その婿である現大祭司のカヤパは議長を務めていました。大祭司家族は、サドカイ派と呼ばれる、非常に世俗的で、権力志向の強いグループの中心でした。時のローマ政府の力を借りながら自分達の勢力を拡張しようという政治的な人々でした。サンヒドリンには、「学者たち」も加わっていました。この人々は、保守的なパリサイ派で、伝統に固執する立場から、主イエスの革新的な指向と行動に反対していました。この双方のグループが一致して主イエスの十字架刑を企んだ訳です。

・大祭司の尋問:
誰の許可で説教を?=この仰々しい議会の席に、ペテロとヨハネが(恐らく手は縛られたまま)連れてこられました。昨日癒された男も一緒に証言台に立った模様です。そこで、議長である大祭司が質問します。「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と。その背景には、宗教的な教えを行なうためには、サンヒドリンの許可を必要とするという、いわば祭司階級の独占的権利が前提となっています。

・ペテロの宣言:
「ナザレ人イエス・キリストの御名による」=ペテロは、このような恐ろしい状況に怯むことなく、大胆に宣言を致します。「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名による」と。ペンテコステの日の説教の聴衆と、この日の聴衆である議会のメンバーとは大きな違いがあります。前者は、十字架刑の間接的サポーターでしたが、今回の議会メンバーは十字架を企んだ直接責任者です。ですから、ペテロの糾弾には力が籠められていました。更にベテロは続けます。このイエスは、捨てられたけれども建物の礎石となった救い主なのだという点です。これは詩篇118:22からの引用ですが、イエスの死を建築家が捨てた石になぞらえ、復活を神がその石を拾って建物の土台とした行為になぞらえています。

・キリストの救いの独自性:
「この方以外には、救いはない」=ペテロはその主張を一般化して言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」短く言えば、キリストだけに救いがあり、それ以外には救いはない、ということです。ペテロが指している「救い」には、定冠詞がついており、メシアを通してなされる罪からの救いをさす特定的なものです。さて、「この方以外には・・・救いはありません。」という言葉は、しばしば他宗教の人々から、「キリスト教は、唯我独尊、我田引水、独善的、排他的だ」と非難されるポイントとなっています。特に、ポストモダンと呼ばれる現在の世の中では、宗教寛容が強調され、これだけが救いだという主張は狭量と受け留められてしまいます。でも良く考えてください。富士山に至る道は、山梨県からも静岡県からも沢山あるが、行き着くところは富士山頂だから、すべての宗教は同じだ、という言い方は、一見大人の味方のように見られますが、逆から言えばこんな不確かなことはありません。富士山に行かないで、隣の山に登ってしまう可能性もあるからです。キリスト教の独自性は、イエスの尊い自己犠牲の死とそれによる贖いにあります。どの宗教にも素晴らしい道徳があり、奥深い悟りがあることでしょう。でも、すべての人の罪の身代わりとして自分の身を十字架という酷く厳しい死に明け渡し、その救いの成就のしるしとして、死から甦った救い主を私は他に知りませんし、ペテロも同様に考えていたことでしょう。ですから私たちは、謙った心をもって、しかし誇りを持って、「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と証しするのです。ペテロがこの声明をサンヒドリン議会で行なった時、彼がヒンズー教や仏教など他の諸宗教を意識して、それを低く見るという気持ちをもってこの発言をした訳ではありません。単に、主イエスの素晴らしさを強調するための発言であったと私は理解します。
 
3.議会は沈黙する(13−14節)
 
 
「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」
 
・「無学の普通人」、ペテロとヨハネの確信ある発言で圧倒される:
議会は、ペテロとヨハネの大胆さに圧倒されました。考えても見てください。彼らは、議会が2か月前十字架刑を決めたイエスの一緒にいた人々だと言うことを理解しました。2か月前は、先生であるイエスを棄てて逃げ回っていた男達が、確信をもってイエスのメシアであることを証しし、しかも、聖書の言葉をしっかりと引用して論理的にその主張を述べていることに圧倒されました。議員の殆どが、高い教養を誇っていたのに比べて、彼らの前にいるペテロもヨハネも単なる漁師に過ぎません。ペテロの演説には、彼らが親しんでいるラビ的な文学の匂いもしてきません。その意味では「無学」でした。また、学者や祭司達が持っている職業的な権威も感じられないという点では、正に「普通の」人でした。それなのに、この二人には教養のある「教職者」が持っていない権威があり、説得力を持っていたのです。

・神の力の証人である「男」にも圧倒される:
その説得力を強化したのが、「いやされた人がふたりといっしょに立っている」事実でした。どんな議論よりも、神の力が働いた証拠としての癒しの証人が一緒にいては、返すことばを失うのも当然でした。
 
4.議会は、脅迫の後に釈放する(15−21節)<次回>
 
 
したがって、議会はペテロとヨハネを有罪にすることも出来ず、反面、無罪ともせず、今後「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じ、それを破ったら罪に問うと脅かした末に釈放しました。この部分は、次回に委ねたいと思います。
 
おわりに:キリストの救いのユニークさに目を留め、感謝しよう。
 
 
・実生活の中で、主に信頼して歩もう:
「この方以外には、だれによっても救いはありません。」というペテロの宣言の重さを考えましょう。クリスチャンならば、この宣言に同意されることでしょうが、本当にそのことを頷いて行動しているでしょうか。頭で頷いていても、実際の行動としては、いざという時に、主以外の誰かに頼ってしまうという事はあり得ます。例えば、自分の経験や能力、親戚や家族、会社や銀行などに頼って、本当に主を頼ることを忘れてしまうことはないでしょうか。

・救いのために、主を頼ろう:
クリスチャンでない人に伺います。この方、つまりイエス・キリスト以外に頼る者を見出しておられるでしょうか。私はそれらを止めてキリストを信じなさいと闇雲には言いません。験してみるだけ験すことは悪いことではありません。でも、キリストの素晴らしさをぜひ験していただきたいのです。彼は決して私たちの信頼を裏切りません。

「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない」ことを私たちが、自分の体験として捉えられるように祈り、お勧めします。
 
お祈りを致します。