礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年8月4日
 
「人に従うか、神に従うか」
使徒の働き連講(11)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き4章15-22節
 
 
[中心聖句]
 
  19,20   ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
(使徒の働き4章19-20節)


 
聖書テキスト
 
 
15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。
 
はじめに:「この方以外に救いはない」(4:12、前回の復習)
 
 
前回は、足の悪い男が癒されたことに関連して、ペテロとヨハネがユダヤの最高議会であるサンヒドリンで審問を受けた時に、ペテロが「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と宣言した、その宣言の重さを考えました。既にキリストに対する信仰を持っている方には、「キリスト以外には救いがない」という信仰を頭の頷きに止めないで、実際生活の中で、いざという時、本当に主以外の誰かに頼らず、主のみを頼るようにとチャレンジさせていただきました。また、キリストを主と受け入れておられない方には、この告白は大きな意味を持っていることを申し上げました。

サンヒドリンの審問は未だ続いております。それに答えたペテロの一言を中心に考えたいのですが、まず、その審理の成り行きを辿ります。
 
1.サンヒドリンの秘密会(15−17節、神殿全景参照)
 
 
「彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。彼らは言った。『あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。』」
 
・サンヒドリンについて(復習):
サンヒドリン議会はペテロとヨハネが留置されたその翌日に開かれました。その議会については前回もお話ししましたが、簡潔に復習したいと思います。サンヒドリンとは、ユダヤの指導者達71名からなる議会で、ユダヤ国内の宗教的・政治的・社会的問題について討議し、採決する裁判所・国会のようなものでした。その会合場所は、神殿地域の直ぐ西の外側にありました(神殿全景参照)。議員の中心は大祭司家族で、元大祭司のアンナス、その婿である現大祭司のカヤパなどの政治指導者でした。彼らはユダヤ教の中のサドカイ派と呼ばれる人々で、時のローマ政府の力を借りながら自分達の勢力を拡張しようという政治的な人々でした。

・秘密会の開催:
「この方以外には救いはない」というペテロの大胆な、そして、説得力のある宣言によってサンヒドリン議会は、困惑しました。そこで彼らは二人を退場させ、「秘密会」を持つことにしました。その秘密会の内容がどうして「使徒の働き」の著者であるルカに知られるようになったかは分かりませんが、一つの推測は、アリマタヤのヨセフ、ニコデモなど、ごく少数ではあるがイエスの支持者がおり、彼らが「秘密会」の内容を後になって知らせたものと考えられます。

・彼らの困惑:
奇跡の事実、イエスの評価、復活の教え・・・=さて、彼らの困惑の一つは、ペテロの堂々たる論理に対抗できないこと、さらに、ペテロ達の行なった奇跡を否定することはエルサレム住民を敵に廻してしまう危険があること、かといってそれを容認すれば、彼らにとって不都合な教えが蔓延してしまって混乱が生じること、でありました。その不都合さとは、イエスを十字架につけたのは誤りであったことを自分たちで認めるという不都合さ、さらに、そのイエスが復活したことを認める不都合さでした。特にサドカイ派は復活を信じない人々でしたから、イエスの復活を認めることは自分たちの教えの間違いを認めることに繋がるからです。翻って、思い切って悔い改めてイエスを信じれば良いのですが、残念ながら彼らはそこまでの頭の柔らかさをもってはいませんでした。心の疼きはあったと信じますが・・・。

・決定:
「イエスの名によって語るな」との警告=こうしたディレンマを解決するために取った結論は、「今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めること」だけでした。
 
2.決定の申し渡しと応答(18−20節)
 
 
「そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。』」
 
・決定の申し渡し:
秘密会が終了し、サンヒドリンは再び二人を呼び出して、決定を伝えました。「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない。」と。サンヒドリンの権威にかけても、この決定は重く受け留められると期待したのです。

・二人の反問:
「神に従うべきか、人に従うべきか?」=ペテロとヨハネは恐れ入るどころか、サンヒドリンにボールを投げ返します。「神に従うべきか、人に従うべきかと」議員達の良心に問いかけるのです。実に賢い、しかし、大胆な「反問」と思いませんか。ペテロとヨハネは、自分たちを裁く人たちが、自分たちと同じ神に仕えていると言う共通点から議論を始めています。「その神が自分たちに驚くべき奇跡をもってご自身の生きておられる証拠を示されたのに、大祭司たちがその証しを止めることはおかしい。彼らの禁止命令に従うことは、神の命令に逆らうことになるのではないか。」と疑問を提出します。実に賢い議論です。

・二人は態度を鮮明にする:
「自分たちの経験を話さない訳にはいかない」「人に従うより、神に従う」(5:29)=この原則的な質問をした上で、彼らは自分達の態度を鮮明に致します。私たちは見たこと、聞いたことを話さない訳にはいかない、と。はっきり言えば、神に従う道を選んだのです。さらに5章で同じような状況に直面した時、ペテロははっきりと「人に従うより、神に従うべきです」(5:29)と明言しています。

・人に従わないとは?:
人間的な権威や規則を無視することではない=「人に従わない」という原則について考えます。
・一般的には規則に従う:
勿論「人に従わない」という原則は、「私は神に従うのだから、人間的な権威や規則には縛られない。人に従うことは、神に従うことに反する。」という、いわば反社会的な生き方の奨励ではありません。同じペテロが「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」(1ペテロ2:13−15)と言っている言葉とのバランスも考える必要があります。パウロも、ローマ13:1で、「人はみな上に立つ権威に従うべきです。」と説いています。私たちは通常の状況では、良き市民・国民として、法律を守り、納税の義務を果たし、地域社会の決まりごとを守り、周りの人々を助ける良き証しを立てる必要があります。
・しかし、信仰的良心に抵触する場合、「抵抗権」がある:
しかし、政府の方針や周りの決まりが明らかに私たちの信仰的良心に抵触する場合には、「人に従うより、神に従う」というペテロの原則を実行することができますし、しなければなりません。これは「抵抗権」とも呼ばれる権利です。戦前で言いますと治安維持法という悪法によって当時の政治体制に協力しないこと自体が罪とされるケースが起きました。神社を参拝しないことが非国民とされる空気がありました。こうした明らかなケースについて、キリスト者は抵抗権をもっていますし、活用せねばなりません。戦後、東大総長を務めた矢内原忠雄氏は、日中戦争が起きた1937年、平和主義を唱えたために東大教授の地位から追放された方です。しかし、日曜ごとの聖書講義は止めず、「嘉信」という個人雑誌の発行も続けました。警察はこれに目をつけて、紙を配給しないとか第三種郵便物の認可を取り消すとか色々脅しました。余りやかましく言うものですから、「それじゃ止めますが、しかしこの雑誌を止めさせるならば、日本の国は必ず滅亡する」と言ったところ、警察の人がガタガタ震えた、というエピソードが残っています。昭和19年、彼は「嘉信」という雑誌を止めたものの、「嘉信会報」という新しい名前で同じ内容の雑誌を発行したそうです。私たちは社会が間違った方向に進む時、ノーをはっきり言える存在でなければなりません。ただ、抵抗権は、言わば伝家の宝刀であって、大切な時にのみ用いるべきものです。滅多矢鱈に抵抗権を振りかざすことは、証になりません。私たちは、主から与えられる健全な判断・弁別力をもって、通常の場合には社会に協力し、しかし、どうしても妥協できない時には代価を払っても抵抗すべきなのです。

・神に従うとは?:
もう少し踏み込んで、「神に従う」という意味合いを考えましょう。
・わがままの言い訳ではない:
「神に従う」ということを金科玉条にして、非常識、無秩序な行動や単なるわがままの言い訳にしてはならないことは今お話した通りです。では、積極的に「神に従う」という意味は何でしょうか。
・ペテロに対する御心:
復活の証しをすること=ペテロの場合、神に従うとは、主イエスの復活を公に証しし、人々に悔い改めを迫ることでした。それは、「あなたがたは、私の証し人となる」(1:8)という明らかな主のご命令を自分のものとして受け留めていたからです。自分の思い込みや主観を「神の御心」と捉えて、他の人の意見を聞かないというのではありません。
・一般的な御心:
普段のみ言葉の学びを通して=さて、私たちは日常生活の中で、神の御心をどのように捉えたらよいのでしょうか。私は、「神の御心」については、誰にでも適用される一般的な御心と、私の個人的な状況に当てはまる個別的な御心とに分けて考えられると思います。神の一般的な御心は、聖書の中に記されていますので、私たちは、聖書の思想を私の思想となるまで聖書を読み込むことが大切と思います。詩篇の作者が「私は私のすべての師よりも悟りがあります。それは、あなたのさとしが私の思いだからです。」(詩篇119:99)と言い切っているところが素晴らしいと思います。
・個別的な御心:
祈りの中に語りかけを頂くみ言葉を通して=さて、私たちは、一般的な御心と共に、個人的な、しかも個別的ケースについて、特別な御心を弁える必要があります。これを個別的な御心と呼びましょうか。私たちが祈りの中に特別な語りかけを頂くみ言葉があります。文脈から外れた突飛な捉え方や、自分の願いを実現するために、都合のよい聖句を捉えて「み言葉が与えられた」などと主観的な思い込みをしてはなりませんが、ある事柄のために祈り続けているときに、それを裏付けるみ言葉を頂くことがありますし、反対に、それは違うよという警告を頂くこともあります。いずれにせよ私たちは、一般的な(原則的な)神の御心、特殊的な御心を確かめ、その御心に従わねばなりません。そして、それこそが信仰生活の内容でありますし、人の考えや、制度を超えた行動を促す原動力となります。蔦田二雄先生が献身について神の召しを頂きつつも、家庭問題で悩んでおられた時、シンガポールのお父さんに相談の手紙を書きました。その答えが、電報の二文字で戻ってきました。「オベイ ゴッド」これで蔦田先生の心は決まりました。
 
4.サンヒドリンによる釈放(21−22節)
 
 
「そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前ふたりを罰するすべがなかったからである。この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。」
 
・脅迫のみに止める:
サンヒドリンは、実際的な行動を取ることができませんでした。単に、二度とこのようなことをしたら、ひどい目にあわせるという、いわば、空しい脅しを加えただけで釈放しました。神の現実に直面すると、人間は他の道を選択することが出来ません。

・癒された男の年齢:
この物語をひとまず締め括る前に、ルカは、足を癒された男の年齢は40歳あまりであった、と記します。この物語が単なる作り話ではなく、実話であったことを印象付けるものです。
 
おわりに:私たちは、忠誠の対象の選択を迫られている!
 
 
私たちの日常生活でも、誰に従うべきかの選択を迫られるケースが、大なり小なり生じてまいります。会社などが行っている不正について、黙認してよいのか、非妥協を貫くのか、家族や近隣社会の異教的習慣について、従うのかノーというのか、政治的な誤った方向について、黙認するのか声を挙げるべきなのか、選択を必要とされるケースが非常に増えてきたように思います。特に、先の参議院選挙を前後して日本政治の保守化が進み、戦前の価値観に回帰する危険を感じるのは私だけではないと思います。人に従うよりも神に従うキリスト者としての在り方が、今日ほど試される時代はないと言って過言ではありません。神に従う意味と、行動と、代価について、祈りつつ考え、考えつつ行動したいと思います。
 
お祈りを致します。