礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年8月25日
 
「教会全体に恐れが」
使徒の働き連講(13)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 4章23-37節、5章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  11   教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
(使徒の働き 5章11節)


 
聖書テキスト
 
 
32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」5 アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
 
はじめに:「一同は聖霊に満たされ」(4:31、前回の復習)
 
 
前回は、「一同は聖霊に満たされ」との聖句を中心にお話ししました。厳しい迫害に直面した弟子達が祈ったことは、迫害が止むことではなくて、迫害に耐えて、それに打ち勝つ力が与えられるようにということでした。その祈りは「聖霊の新しい満たし」という形で答えられました。

今日は、4章の終わりと5章の始めから、「初代教会の光と影」についてお話しします。聖霊に満たされて人々が集まった教会は光り輝くような恵みに満たされていました。と同時に、罪を持った人間の集まりですから、それなりの問題も抱えていました。聖書は正直な本です。良い事だけを並べるような嘘っぽい記録ではなく、恥ずかしい部分も隠すことなく記録しています。だからこそ私たちは、初代教会を模範として学ぶと共に、反面教師としても学ぶことが出来るのです。
 
A.初代教会の光(4:32−37)
 
1.愛に基づく共有関係(32−35節)
 
 
「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」
 
・自由意志と自発性が基本:
迫害に直面した信徒たちの祈りと、その応当としての聖霊の新たな注ぎによって、教会共同体は一層強くされました。「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」とあるのが、その現れです。彼らが共同の財布を持ったことは、自発的な行動であって、規則や強制ではありませんでした。また、このシステムは永続的なものでもありませんでした。必要に応じ、必要な時に実行された措置と考えられます。

・「兄弟愛」が源泉:
繰り返しますが、この助け合いの根底には、真実に他の人々の福祉を考え、実行する「兄弟愛」があったのです。信仰を同じくする兄弟姉妹が窮乏の中にあるのを見て、ごく自然な愛の発露として、分かち合いがなされたのです。決して制度として作り上げられたものではありませんし、みんなに強制したものでもありませんでした。あくまでも一人ひとりの自発性、自主性が重んじられつつの行動形態であったのです。この習慣が行なわれていた最中でも、私有財産が大切なものであるという基本的な理解はありました。5:4でペテロは、「それ(地所の代金の一部)はもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」と言っています。初代教会では、私的財産権を認めつつ、その財産を自発的に必要な人々に分け与えたというべきなのです。
 
2.バルナバの良き模範(4:36−37)
 
 
「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」
 
・バルナバの登場:
さて、ここでバルナバが登場します。彼はクプロ島出身のレビ人で、かなりの資産家でもあり、また、その寛大な心の故に教会で尊敬され、信頼されていました。ヨセフというのが本名でしたが、バルナバ(慰めの子)というあだ名が付けられるほど、初代教会では人望のある器でした。

・バルナバの寛大な行為:
さて、このバルナバが、エルサレム近郊に持っていた一区画の土地を売り、信徒の生活の足しにと使徒たちの足元に置いたのです。そもそも、旧約聖書においてレビ人が土地を所有することは禁じられていましたけれども、このころは死文となっていたと思われます。いずれにせよ、こうした愛の行動は人々の励ましとなりました。これが、アナニヤ事件の間接的原因ともなるのです。
 
B.初代教会の影(5:1−11)
 
1.エルサレム教会にも問題はあった
 
 
・愛の分かち合いが「形」になった:
エルサレム教会は、ダイナミックな教会であり、私達が模範とすべき原型ともいえるのですが、しかし、同時にこの教会でさえも、問題や弱さから自由ではありませんでした。それは、愛の行為が形や制度として捕らえられるようになった点です。

・アナニヤとサッピラの偽善:
麗しい兄弟愛が実践され誉めたたえられた時、これを真似する偽善も生まれました。アナニヤとサッピラという不真実で世的な信徒がいて、教会の中で高い地位を得ようと画策して刑罰を受けました。これは何時の時代でも「麦と毒麦」が同居する悲しい現実を思い出させます。

・分配における「不公平」への不満(6章):
もうひとつは、受ける側の態度です。こうした施しは、恵みとして受ける筈なのに、貰うのが当然という権利主張が入り込んでしまいました。自分の貰い分が他の人々と比べて少ない、これは不公平だという呟きで、この制度をだめにしかけました。つまり、分かち合いという「制度」だけでは有効ではありませんし、弊害さえ生じえます。

・初代教会の自浄能力:
しかし、初代教会の素晴しかった点は、これらの問題について聖霊の力強いご干渉による自浄能力を持っていたということです。第一の問題についての解決は5章に、第二の問題についての解決は6章に記されています。アナニヤの物語を見て行きましょう。
 
2.アナニヤの偽りと裁き(5:1−6)
 
 
「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。」
 
・アナニヤとサッピラ:
アナニヤとは「主は恵み深く扱う」、奥さんのサッピラは「美しい」という意味で、両方とも素晴らしい名前です。

・偽りの行動の動機:
アナニヤは、妻のサッピラとともにその持ち物、多分畑を売り、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置きました。彼らが間違ったのは、代金の一部を残して、多の部分を献金したことではなくて、一部なのに全部を捧げますと偽った行動を取ったことです。その理由・動機を考えましょう。
@功名心:
アナニヤには、土地を売って教会に献金しなければならないという何らの圧力も期待もなかったのです。あったとすれば、自分で作り出した精神的なものです。バルナバが寛い心をもって土地を売り、その代金を教会に捧げたことが評判を呼びましたが、アナニヤもそのような誉め言葉を得たいという功名心を持ったということです。
A競争心と嫉妬:
当然ながら、バルナバの評判が上がれば上がるほど、アナニヤとサッピラの間にはバルナバに対する競争心と嫉妬がむらむらと湧き上がってきました。人間は、競争の中で生きる動物でありますので、競争心や嫉妬があるのはある意味で自然なことです。きよめられたクリスチャンの中にも、他の人が賞賛を得る時に嫌な気持ちを持つ誘惑を感じるのは自然です。「『聖き』を生きる人々」という本の中で、オズワルト博士は、そのような誘惑は絶えずある、しかし、それにどのように対処するかが問題だ、と語っています。そうした誘惑は小さな段階で振り払いなさい、と勧めています。残念ながら、アナニヤとサッピラはそれをし損なったのでしょう。
B悪い「夫婦どんぶり」:
「使徒の働き」の記述には、「アナニヤが妻サッピラとともに」とか「妻も承知のうえで」と、二人の合議を強調しています。通常、夫婦のどちらかが道を外しそうになったら、伴侶者が「あなた、そんなことは止めて置きなさい。」とたしなめるものです。しかし、どういうわけか、アナニヤとサッピラの場合にはチェック機能が働かないだけではなく、どうやら二人で悪の増殖作用をしてしまったのです。これは悪い形の夫婦丼というべきでしょう。
C神への畏れの欠如:
ペテロが、「これだけの値段で土地を売ったのですか。」と質問したことは、ある意味で、アナニヤに反省と悔い改めの機会を与えた憐みの提示と考えられます。残念ながら、アナニヤには神を畏れる畏れ、それから来る正直さが全くといっていいほど欠如していました。ですから、彼はペテロを欺き、そしてその事は神を欺くことになるという自覚を持ちませんでした。神を欺いても平気な心が問題でした。これは、神の作られた教会という共同体に致命的な影響を与えるものです。
D利己心:
聖書は代金の「一部を残しておき」という表現を用いています。繰り返しますが、代金の一部を残した行為自体は責められていません。私有財産制度自体を初代教会は否定していなかったからです。しかし、「一部を残しておく」という行為の中に、神さまが適当と思いなさる水準以上の生活をしたいという我欲が働いていたことは想像に難くありません。この「一部を残しておく」(エノスフィサト)という動詞は、ヨシュア7:1のギリシャ語訳と同じです。つまり、「使徒の働き」の著者であるルカは、戦利品を自分のために取っておいて裁かれたヨシュア記のアカンとアナニヤを相似的に見ているのです。

・アナニヤへの裁き:
さて、指摘されたアナニヤは、その場所で倒れて死んでしまいました。ペテロが裁いたのではなく、アナニヤ自身のショックによる死亡と考えられます。それでも、人々の間には恐れが生じました。
 
3.サッピラの追随と裁き(5:7−11)
 
 
「三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。ペテロは彼女にこう言った。『あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。』彼女は『はい。その値段です。』と言った。そこで、ペテロは彼女に言った。『どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。』すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」
 
・サッピラの訪問:
妻のサッピラが現れたのは、夫の死後3時間経ってからです。その間に何があったのか、なぜ、妻が夫の死を知らなかったのか、ルカは説明していません。また、ペテロが何故そのことを最初に言わないで、「尋問」したのかも分かりません。何かの理由があったとしか私には答えられません。いずれにせよ、予想通りの答えが返ってきました。

・ペテロの論点:
「御霊を試すとは?」=ここでペテロは、この夫婦が「心を合わせて」(心のチューニングをさせられて)行動をしたことを確かめます。さらに、彼らの行動が「御霊を試す」行為であることを指摘します。「御霊を試す」とは、使徒達の中に働いておられる聖霊を騙そうとした行動をさしています。興味深いことは、この物語で、「神に偽る」ことと「聖霊に偽る」とを同じに見ている、つまり、聖霊の神性をペテロがうなずいているということです。

・夫と同様の裁き:
さて、ペテロは主の裁きを感じ、夫を葬った人々が「戸口に来ていて」(戻ってきている)と言及します。サッピラは夫同様、ショック死をしてしまいます。

・恐れが生じた:
この出来事が齎した影響について、6節も11節も「人々の間で恐れが生じた」と記します。当然のことでしょう。私がそこにいたら、本当に恐れ戦くと思います。この恐れは、二重です。
@一つは、教会の人々の間のそれでありまして、神の聖さについての恐れと戦きのことです。
Aもう一つは、教会の外の人々の恐れで、それは、神が活けるお方であること、その聖さを担っているのが教会であることの認識です。後の記事を見ると、それは教会の前進につながったことが分かります。ウェスレアン注解はこの記事について「いかなる時代においても不真実を神が嫌い給うことと、それが教会の霊的生命に致命的な脅威を与えることを教会に警告する意図があった」と述べています。
 
C.私たちへのメッセージ
 
1.神の聖さを再確認しよう
 
 
今日の教会において、アナニヤとサッピラ以上の偽り、競争的行動、欲の張り合いが行なわれているかも知れません。なぜ、その人々がばったりと倒れたり、心臓麻痺を起こしたりしないのでしょうか。私には分かりません。ただ、言えることは、アナニヤとサッピラには気の毒ですが、彼らが悪しき模範となって、一罰百戒の一罰となったのではないかという理解です。「神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』また、『主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。』」(2テモテ2:19)すべてのことが優しく、もっと言うと、なれなれしくなってしまった時代に、聖い神を見つめたイザヤが「私はわざわいだ」と言ったその神を畏れる畏れを私たちは、新に認識し、言い表したいと思います。

 
2.神の憐みに縋ろう
 
 
と同時に、私たちは神の憐みの側面をもしっかり見つめ、感謝とともにこれを受け取らせていただきたいと思います。「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」神のホーリネスとそれとともに、贖いによって示された神の慈しみを感謝しましょう。
 
お祈りを致します。