・若さの更新の必要: 加齢の自覚=詩人は、「若さが・・・新になる」ことを期待し、それがなされたことを感謝しています。どうしてなのでしょうか。ごく自然に考えられることは、詩人は、自分が年齢とともに弱くなってきていることを自覚しているからです。加齢による衰えは、此処にいるすべてのものの課題です。動脈は硬化し、脳細胞は驚くほどの速度で死滅していきます。昔は、二階、三階と平気で登れた階段も、ゼーハーと息継ぎしながら登るようになります。名前が直ぐに思い出せず、対話をしながら「誰だろう」と考え考え、会話が終わってからやっと思い出す始末です。思い出せないままの時もあります。肉体の衰えとともに精神や気力の衰えも感じてしまいます。アンチ・エイジングという言葉がはやっていますが、若い時代に戻りたいという願望は、高齢者に共通したものではないかと思います。 |
・「鷲(世界最強の鳥)のように」: 詩人は、若さが「鷲のように」新しくなると、イーグルのイメージを持ち出します。聖書には、鷲が色々な譬えで出てきます。今年は楽天イーグルスがパ・リーグで優勝するらしいのですが(私の贔屓ではありませんが)おめでたいことです。さて、鷲が譬えに使われているのは、パレスチナ地方で強い生き物、カッコいい生き物の代表だったからなのでしょう。鷲は鳥の世界の王様です。強さにおいて、大きさにおいて、その長寿において、その姿の美しさにおいて、その飛翔する高さにおいて、巣を作る岩の高さにおいて、その目の鋭さにおいて、また、獲物に襲い掛かる時の素早さにおいて他のすべての鳥に勝っています。特に、鷲の羽根が年毎の抜け変わるその生態が、若さの更新のイメージにピッタリすると言われています。ですから、私たちの若さが戻ってくるイメージを鷲になぞらえることは、ごく自然なことです。これは伝説のようですが、鷲は自分の羽根を岩に叩きつけて、抜け変わりを促進するそうです。こうした、鷲のイメージが「鷲のように新しくなる」という言葉に籠められているのです。 |
・更新は全能者によって可能(イザヤ40:39): 鷲に関連した聖句はイザヤ書に見出されます。40:28−31を読みましょう。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」若さが鷲のように更新される秘訣は、永遠者・創造者・全知・全能の神の中にあるのです。この方は、私達の人生の微細な点に至るまでの弱さ、悩み、課題の直ぐそばにおられるお方です。神はご自身が力強いお方であるだけではなく、その力を私達に分け与えてくださるお方です。主は、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけ」なさいます。つまり、弱さを自覚し、告白し、主により頼む者に力が与えられるのです。「若者も疲れ、たゆみ、(選ばれた選手のような)若い男もつまずき倒れます。」これは、人間の力の弱さ、儚さ、限界を示します。選ばれた人々でもそうならば、まして平均的な人間はもっとだめだといっているのです。若者がそうならば、まして高年齢の者達は、走るのもままならず、歩いては疲れるのが実感ではないでしょうか。力の更新とは、力が別次元から与えられることです。一時的にリポビタンDを飲んで元気を回復するのではなく、永遠なる神に繋がって、神の力を直に頂くことです。その時、私達の力が、神の力によって更新されるのです。その時私達は私のように翼を張って飛ぶことが出来ます。勿論文字通りの飛翔ではなく、自由闊達さ、大いなる可能性を示します。蛇足ながら、私は暫く前までしばしば空を飛ぶ夢を見ましたが、最近体重が増えたためか、ビジョンが小さくなったせいか、空飛ぶ夢を殆ど見なくなりました。淋しいと思っています。閑話休題。空を飛ぶだけではなく、走っても、歩いても疲れない。オリンピック選手が、是非その秘訣を聞きたくなるような素晴らしい神の業です。 |
・全能者を待ち望むことが秘訣: 全能者の力を自分のものとするためには、主を待ち望む必要があります。「待ち望む」という動詞はQVH(クァーヴァー)で、元々の意味は、物を掴もうとして体を捩る動作のことです。そこから「熱心に期待する」、「待つ」、「待ち続ける」という意味で使われるようになりました。主を待ち望むとは、少なくとも次の三つの事柄を含む心の所作です。 |
@人間により頼まない: 自分自身にも、また他の人々にも力の源泉がないことを率直に、しかも徹底的に認めることです。幾分かでも自分に頼るものがあるという意識がありますと、主を待ち望むといっても、それは自分の力を補完すると程度になってしまいます。私達の力も知恵も救いもすべて主からだけ与えられるという信仰の原点を確認したいものです。主のみが力の源泉であることを認めましょう。特に健康について、私達は、「外なる人は、日々に衰える」ものであることを頷きつつ日々を歩みたいものです。 |
A主にだけより頼む: 主には豊かな力と癒しと救いがあるということを認め、告白し、お頼りしたいものです。それも、頭で頷くのではなく、心から、完全に主により頼むことです。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇36:9) |
B主に期待し続ける: その信仰の告白と祈りが、直ちに何らかの効果を生まなかったとしても、それに一喜一憂しないで、静かに主の最善と全能を信じ、主のご計画の素晴らしさを確信して、ご計画の成就を待ち続けることが大切です。最善のときに主が働き出給うと信じ、委ねきることです。 |
・エリック・リデルの説教と実践: さて、オリンピックが2020年、東京にやって来るそうです。オリンピックに因み、1924年のパリ・オリンピックで、400メートルで優勝したエリック・リデルの物語で締めくくります。エリック・リデルは、聖日遵守を理由に100メートルの予選を棄権しましたが、決勝が行なわれた聖日、彼はパリ中心部のスコットランド長老教会の礼拝で説教を致しました。長老教会特有の十数段の踏み段をのぼって、高い説教壇に立ったエリックは、落ち着いた声で聖書朗読を始めました。イザヤ書40章からです。彼が朗読をしている最中にも、競技はどんどん進み、勝って喜ぶ選手もあり、敗れて疲労感に苛まれている選手も続出していました。それらを想像しながらエリックは宣言しました「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」エリックは、数日後400メートルの決勝に出場しますが、周りの選手達は彼に注目しませんでした。彼が400のためには訓練をされていなかったからです。彼の走法はスムーズとは言い難い、野生の馬のような荒っぽい型破りなものでした。前半の200で力を使い果たして、後半はばててしまうと思われていました。実際、エリックは前半を全速力で駆け続けトップを保ちます。いよいよ後半に入りました。「そのとき、エリックの頭がうしろに倒れた。力がこんこんと湧きでているときに見せる、エリック独特のランニング・ポーズだった。これまでより、いっそうスピードが加わった。走りながら流れ込む空気を吸うように口を開け、力をふりしぼるように両腕を振った。ますますペースが速くなった。」(「炎のランナー」より)序ながら、その時の優勝記録は47秒06で、その後20年間破られなかったそうです。 |