礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年9月15日
 
「若さの更新」
愛老聖日・教団謝恩日聖日に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
詩篇103篇1-5節
 
 
[中心聖句]
 
  5   あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
(詩篇103篇5節)


 
聖書テキスト
 
 
1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
 
はじめに:愛老聖日の感謝
 
 
愛老聖日の朝、多くの方々を迎えて、礼拝をともに捧げる恵みを感謝いたします。今年の会員名簿から古希以上の方を拾いますと、合計124名です。その半数近くが今日の礼拝にご出席できないとお返事を頂いています。でも、普段なかなか礼拝に出席できない方で、今日のために体調を整え、頑張ってお出でくださった方々のお顔を見ることができて、嬉しく思います。

私自身も、昨年皆様のお仲間に入れていただきましたが、その直後に入院と手術をしまして、自分の弱さに直面させられた一年でした。そのような背景から、聖書が約束している若さの更新というテーマでお話します。
 
1.詩篇103篇
 
 
・主題:
主の大いなる憐みへの讃美=詩篇の多くは、人生の様々な苦しみの中から神の恵みを経験する証として作られたものですが(そして、それが私たちの経験する「現実」なのではありますが)、この103篇は、人生の影が余り感じられない、言わば純粋な讃美です。その讃美の対象は、大いなる憐みをもって私たちを包んでくださる主に向けられています。ある注釈者が言いました、「この詩篇には、地平線まで見渡しても一つの雲も見えず、曲の中にも、悲しみの響きすら聞こえない。」と。

・背景:
ダビデと国民の経験:この詩篇の題辞として「ダビデによる」と記されていますので、そのまま受け取らせていただきます。1−5節は個人的な感謝が述べられており、6節以下は国民的感謝です。ダビデ個人の感謝と国民的感謝が重なっていると考えられます。

・文節@(1−5節):
ダビデ個人への恵み(特に2節)

・文節A(6−13節):
イスラエルへの恵み(特に7節)

・文節B(14−18節):
儚い人間への配慮(特に14節)

・文節C(19−22節):
全被造物の讃美(特に21節)
 
2.主の豊かな恵み(1−5節)
 
 
・対象は自分:
3−5節に「あなた」という二人称が使われてはいますが、その前の1−2節には、「我が魂よ」と自分に対して外側から呼びかけているのを見ると、この「あなた」は詩人個人への呼びかけと見るのが自然です。主は数多くの、素晴らしい恵みを詩人に施してくださったのです。

・心からの讃美:
1節は「わがうちにあるすべてのものよ」と自分に呼びかけています。私たちはよく「心から讃美する」という表現をしますが、そんな表現では間に合わないほど、全人格的に、心のすべての営みを動員して主を賛美するのです。

・恵みのリスト
3−5節は、主が行なってくださる恵みのリストです。
@赦し:
罪の赦しこそ、恵みの中の最大の恵みです。
Aいやし:
肉体的および精神的な癒しは、主のみから参ります。
B贖い:
危険や滅びからの救いが「穴から」という言い方で示されます。
C恵みとあわれみとの戴冠:
その豊かさが「戴冠」との言葉で示されます。恵みと憐みがそっと与えられるのではなく、王様の戴冠式のように堂々と与えられるのです。
D必要の供給:
食べるものだけではなく、私たちのすべての願望と必要が、しかも一生涯満たされ続けるのです。年金が目減りして心配な方もあるかもしれませんが、この御言を信じましょう。
E若さの更新:
新鮮な力が与えられます。このことを掘り下げて考えましょう。
 
3.若さの更新
 
 
・若さの更新の必要:
加齢の自覚=詩人は、「若さが・・・新になる」ことを期待し、それがなされたことを感謝しています。どうしてなのでしょうか。ごく自然に考えられることは、詩人は、自分が年齢とともに弱くなってきていることを自覚しているからです。加齢による衰えは、此処にいるすべてのものの課題です。動脈は硬化し、脳細胞は驚くほどの速度で死滅していきます。昔は、二階、三階と平気で登れた階段も、ゼーハーと息継ぎしながら登るようになります。名前が直ぐに思い出せず、対話をしながら「誰だろう」と考え考え、会話が終わってからやっと思い出す始末です。思い出せないままの時もあります。肉体の衰えとともに精神や気力の衰えも感じてしまいます。アンチ・エイジングという言葉がはやっていますが、若い時代に戻りたいという願望は、高齢者に共通したものではないかと思います。

・「鷲(世界最強の鳥)のように」:
詩人は、若さが「鷲のように」新しくなると、イーグルのイメージを持ち出します。聖書には、鷲が色々な譬えで出てきます。今年は楽天イーグルスがパ・リーグで優勝するらしいのですが(私の贔屓ではありませんが)おめでたいことです。さて、鷲が譬えに使われているのは、パレスチナ地方で強い生き物、カッコいい生き物の代表だったからなのでしょう。鷲は鳥の世界の王様です。強さにおいて、大きさにおいて、その長寿において、その姿の美しさにおいて、その飛翔する高さにおいて、巣を作る岩の高さにおいて、その目の鋭さにおいて、また、獲物に襲い掛かる時の素早さにおいて他のすべての鳥に勝っています。特に、鷲の羽根が年毎の抜け変わるその生態が、若さの更新のイメージにピッタリすると言われています。ですから、私たちの若さが戻ってくるイメージを鷲になぞらえることは、ごく自然なことです。これは伝説のようですが、鷲は自分の羽根を岩に叩きつけて、抜け変わりを促進するそうです。こうした、鷲のイメージが「鷲のように新しくなる」という言葉に籠められているのです。

・更新は全能者によって可能(イザヤ40:39):
鷲に関連した聖句はイザヤ書に見出されます。40:28−31を読みましょう。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」若さが鷲のように更新される秘訣は、永遠者・創造者・全知・全能の神の中にあるのです。この方は、私達の人生の微細な点に至るまでの弱さ、悩み、課題の直ぐそばにおられるお方です。神はご自身が力強いお方であるだけではなく、その力を私達に分け与えてくださるお方です。主は、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけ」なさいます。つまり、弱さを自覚し、告白し、主により頼む者に力が与えられるのです。「若者も疲れ、たゆみ、(選ばれた選手のような)若い男もつまずき倒れます。」これは、人間の力の弱さ、儚さ、限界を示します。選ばれた人々でもそうならば、まして平均的な人間はもっとだめだといっているのです。若者がそうならば、まして高年齢の者達は、走るのもままならず、歩いては疲れるのが実感ではないでしょうか。力の更新とは、力が別次元から与えられることです。一時的にリポビタンDを飲んで元気を回復するのではなく、永遠なる神に繋がって、神の力を直に頂くことです。その時、私達の力が、神の力によって更新されるのです。その時私達は私のように翼を張って飛ぶことが出来ます。勿論文字通りの飛翔ではなく、自由闊達さ、大いなる可能性を示します。蛇足ながら、私は暫く前までしばしば空を飛ぶ夢を見ましたが、最近体重が増えたためか、ビジョンが小さくなったせいか、空飛ぶ夢を殆ど見なくなりました。淋しいと思っています。閑話休題。空を飛ぶだけではなく、走っても、歩いても疲れない。オリンピック選手が、是非その秘訣を聞きたくなるような素晴らしい神の業です。

・全能者を待ち望むことが秘訣:
全能者の力を自分のものとするためには、主を待ち望む必要があります。「待ち望む」という動詞はQVH(クァーヴァー)で、元々の意味は、物を掴もうとして体を捩る動作のことです。そこから「熱心に期待する」、「待つ」、「待ち続ける」という意味で使われるようになりました。主を待ち望むとは、少なくとも次の三つの事柄を含む心の所作です。
@人間により頼まない:
自分自身にも、また他の人々にも力の源泉がないことを率直に、しかも徹底的に認めることです。幾分かでも自分に頼るものがあるという意識がありますと、主を待ち望むといっても、それは自分の力を補完すると程度になってしまいます。私達の力も知恵も救いもすべて主からだけ与えられるという信仰の原点を確認したいものです。主のみが力の源泉であることを認めましょう。特に健康について、私達は、「外なる人は、日々に衰える」ものであることを頷きつつ日々を歩みたいものです。
A主にだけより頼む:
主には豊かな力と癒しと救いがあるということを認め、告白し、お頼りしたいものです。それも、頭で頷くのではなく、心から、完全に主により頼むことです。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇36:9)
B主に期待し続ける:
その信仰の告白と祈りが、直ちに何らかの効果を生まなかったとしても、それに一喜一憂しないで、静かに主の最善と全能を信じ、主のご計画の素晴らしさを確信して、ご計画の成就を待ち続けることが大切です。最善のときに主が働き出給うと信じ、委ねきることです。

・エリック・リデルの説教と実践:
さて、オリンピックが2020年、東京にやって来るそうです。オリンピックに因み、1924年のパリ・オリンピックで、400メートルで優勝したエリック・リデルの物語で締めくくります。エリック・リデルは、聖日遵守を理由に100メートルの予選を棄権しましたが、決勝が行なわれた聖日、彼はパリ中心部のスコットランド長老教会の礼拝で説教を致しました。長老教会特有の十数段の踏み段をのぼって、高い説教壇に立ったエリックは、落ち着いた声で聖書朗読を始めました。イザヤ書40章からです。彼が朗読をしている最中にも、競技はどんどん進み、勝って喜ぶ選手もあり、敗れて疲労感に苛まれている選手も続出していました。それらを想像しながらエリックは宣言しました「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」エリックは、数日後400メートルの決勝に出場しますが、周りの選手達は彼に注目しませんでした。彼が400のためには訓練をされていなかったからです。彼の走法はスムーズとは言い難い、野生の馬のような荒っぽい型破りなものでした。前半の200で力を使い果たして、後半はばててしまうと思われていました。実際、エリックは前半を全速力で駆け続けトップを保ちます。いよいよ後半に入りました。「そのとき、エリックの頭がうしろに倒れた。力がこんこんと湧きでているときに見せる、エリック独特のランニング・ポーズだった。これまでより、いっそうスピードが加わった。走りながら流れ込む空気を吸うように口を開け、力をふりしぼるように両腕を振った。ますますペースが速くなった。」(「炎のランナー」より)序ながら、その時の優勝記録は47秒06で、その後20年間破られなかったそうです。
 
おわりに:主を待ち望んで若さの更新を!
 
 
私達も、エリックのように主を待ち望むことを覚えましょう。いつでも天を仰ぎ、こんこんと湧き出る主の力に満たされて、信仰の馳場を全うしたいものです。

アンドリュー・マーレーは、「神を待ち望め」という本の中で、祈りの中に主を待ち望むことの恵みを強調しています。「神に対する待ち望みは、主として祈りの内に遂行されなければなりません。もし私達のまちのぞみが、自然的働きを沈静させることから始まり、神の前にしずまり、やがて頭を垂れて、全ての善をなしうる唯一の神のみ業を慕い求め、更に神は私達のうちにもみ業をなそうとしておられるという確信に進む・・・まで待つことができるなら、待ち望みこそ、真に魂の力と喜びとになることでしょう。」と語っています。

主を待ち望んで、鷲のように若さを更新していただきましょう。
 
お祈りを致します。