礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年10月6日
 
「神が住み給う所とは?」
使徒の働き連講(17)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 7章1-6節及び44-50節
 
 
[中心聖句]
 
  48   いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。
(使徒の働き 7章48節)


 
聖書テキスト
 
 
1 大祭司は、「そのとおりか。」と尋ねた。
2 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、3 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、5 ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。6 また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』
44 私達の先祖のためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。45 私たちの先祖は、この幕屋を次々に受け継いで、神が先祖たちの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。47 けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。50 わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
 
復習
 
 
・知恵と御霊によって語るステパノ(6:10):
先週は、「彼(ステパノ)が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」との御言を中心に「知恵と御霊によって語る」と語りました。「知恵と御霊によって語る」とは、ステパノの場合、聖書を総合的に、そして正確に理解すること、聖書の著者・御霊が与える洞察力に基づいて語ることです。

・ステパノ、サンヒドリン議会に引き出される(イラスト参照):
ステパノへの反対者達は、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕え、議会にひっぱって行きました。議会というのはユダヤの内政と宗教面で自治権を委ねられていたサンヒドリンというユダヤ人評議会の事です。議長は大祭司(この時はカヤパ)、議員は70名でした。ステパノを訴えた論点は二つです。第一は、ステパノはモーセの律法を蔑ろにしている、第二は、神殿を壊すというイエスの主張を繰り返している、というものでした。

・ステパノの輝き:
御使いのよう! (6:15)=ステパノは落ち着いてその非難に対面しました。彼の御使いのように透き通った、輝いた顔は、荒れ狂う聴衆を一瞬でも静まらせる効果を持つ素晴らしいものでした。
 
A.大祭司の質問(1節)
 
 
「大祭司は、『そのとおりか。』と尋ねた。」ステパノがもたらした一瞬の静寂は、大祭司の質問によって破られました。一応公平・公正の形を保つための質問です。
 
B.ステパノの答え(2−50節)
 
1.父祖達の時代を振り返る(2−8節)
 
 
・ステパノの呼びかけ:
親しさと共通性を強調=「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。」=ステパノは、この大祭司の質問に直接答える代わりに、静かな声でイスラエルの歴史を語り始めます。ステパノは、いきり立つ議会に対して、「兄弟たち、父達よ。」と、親しさと共通土台を強調して優しく語り掛けます。

・ステパノの論法:
ステパノは、聴衆が良く知っているイスラエルの歴史を語り始めます。長い長いスピーチを通してステパノが言おうとしたことは、神の存在が、特定の場所や建物に限られるものではない、という点です。

・巡礼者であった父祖達(2−5節):
それを論証するに当たって、彼は、アブラハムが、約束の地に定住する以前に神に召されて新しい民族の祖となったことから始めます。特に、アブラハムがメソポタミヤ(カルデヤのウル)にいたとき、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われたこと、カラン(ハラン)に移住したこと、カナンにすんだが、そこでは「足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼に」与えられなかったこと、つまり旅人としての生涯を導きなさったことが強調されます。
 
2.エジプトにおけるイスラエル(9−19節)
 
 
次に、ステパノは、アブラハムの子孫がエジプトに長く滞在した歴史を思い出させます。

・ヨセフの兄弟達の迫害:
イスラエルがエジプトに移住したきっかけは、ヨセフの兄達の妬みと虐めです。「族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、・・・パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。」(9−10節)この出来事は、人間の悪意を用いて救いの手段となさったという意味で、キリストを迫害したユダヤ人達の絵として描かれています。
 
3.若き日のモーセ(20−29節)
 
 
エジプトにおける400年の後、イスラエルをその隷属状態から解放するために起こされたのがモーセです。ステパノは、自分の教えがモーセの教えに違反していると曲解されていましたから、殊更に、モーセ物語を詳しく語りつつ、自分の正しさを弁証します。

・同胞救済に立ち上がったモーセ(23−24節):
「四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。」(23−24節)王宮で育てられ、多くの特権と権力と教育を与えられながら、同胞救出のために立ち上がったモーセの献身が描かれます。ステパノは、直接触れていませんが、神としての栄光を棄てて世に来られたキリストを心に描いているようです。

・同胞に拒否されたモーセ:
「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。」(25節)「だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。」(27節)同胞はモーセを理解しようとせず、却って余分な口出しをするなとばかり無視されます。これも、救い主として世に降りてくださったイエスを拒絶したユダヤ人の絵として描かれます。
 
4.モーセの召命(30−34節)
 
 
・モーセが神に召される(30、34節):
「四十年たったとき、御使いがモーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。・・・『確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』」(30、34節)モーセは、イスラエルをエジプトから引き出すために神に召されました。これらの出来事を詳しく語ることでステパノは、自分が神を畏れている人間であること、神によって立てられた指導者を尊敬していることを示します。

・「聖なる場所」(33節):
「主は彼にこう言われたのです。『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。』」(33節)モーセが見た燃える柴の場所は、神によって「聖い地」と指定されました。ある特定の場所が聖いのではなく、どんな場所でも、主がご自身を表わされたことの故に「聖く」なることを示されました。これは、エルサレムの神殿を絶対視するユダヤ人に対して大きな警告の意味も含まれていました。
 
5.荒野での放浪(35−43節)
 
 
・救出者モーセが、メシヤを預言(37節、申命記18:15):
モーセは、自分を大いなる救い主と自画自賛するのではなく、来るべきメシヤの先駆者と自らを位置づけていました。「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。」(37節)この言葉は申命記18:15の引用ですが、イスラエルの歴史の頂点にメシヤがあることを強調します。それは、キリストを信じる信仰こそ、真の敬神とモーセの教えに沿ったものであることを強調するのです。

・モーセに対するイスラエルの反逆(39−40節):
「ところが、私たちの先祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、『私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから。』とアロンに言いました。」(39−40節)イスラエルをエジプトから救い出したモーセに対して、イスラエルは重ね重ね反逆し、偶像を造り、それに従おうとしました。神とモーセに逆らうものというレッテルをステパノに貼ろうとしたユダヤ人の先祖は「神とモーセに逆らっていた」とステパノは逆襲するのです。偶像とは、そもそも、見えない神を見える神にして拝みたいという人間の欲求から生まれたものです。その意味では、イスラエルは、いつの間にか神殿を偶像視していました。
 
6.幕屋と神殿(44−50節)
 
 
・礼拝の場所についての議論(43節):
幕屋は神の臨在の証し=ステパノは、神を礼拝する場所についての議論に入ります。「私たちの先祖のためには、荒野にあかしの幕屋がありました。」(43節)歴史的には、モーセの時代に幕屋(テント)が作られ、それが礼拝の場所でありました。勿論、神がそこにだけおられるというのではなく、それは「証の幕屋」と呼ばれていました。つまり、神の臨在を証しする象徴という意味を持っていました。

・移動可能な礼拝所(45節)vs礼拝所の恒久化:
「私たちの先祖は、この幕屋を次々に受け継いで、神が先祖たちの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。」(45節)テントということは移動式であるという特徴があります。ダビデが王国を確立した時、その仮礼拝所を恒久的なものにしたいと願った、しかし、主はそれを直ぐには許されず、息子のソロモンにその仕事を託されました。この出来事から、礼拝所を恒久化することは、主の一番大切なアジェンダではなかったことを示します。

・神の偉大さと普遍性:
@しかも、ソロモンが神殿建築を終えた直後の奉献式においてすら、「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(1列王8:27)と言って、建物を絶対視したり、神聖視していません。A更に、ステパノはイザヤを引用します(49−50節)。イザヤ書本文をステパノの引用より長く読みます。「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』」(イザヤ66:1−2)Bこの引用は、神の偉大さと普遍性を力強く示します。後代のイスラエルが、神殿という建物とそこで行われる儀式を絶対視・神聖視する余り、偉大な、そして何処にでもおられる主を見失っていることを、批判いたします。モーセの律法や神殿制度は、神の永遠のご計画から見れば過ぎゆくもので、キリストによって始められた新しい宗教運動はそれを乗り越えるものだというのがステパノの教えの根幹です。私たちも、来月でこの会堂を献堂して10周年を迎えますが、会堂に関する過度の信頼や誇りを警戒しなければなりません。この建物は、飽くまでも、主に礼拝を捧げるための沢山の場所のひとつであり、伝道のために用いていただく拠点のひとつにしか過ぎません。

・神の住まわれるところ:
イザヤの言葉の締めくくりが重要です。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」神の本当のみ住まいは、きらびやかな、そして厳粛そうに見える儀式が行なわれている神殿ではなく、謙って、心砕かれ、神の御前に戦く心であります。ステパノの、真理を衝く、そして恵みに満ちた言葉は、残念ながら頑なな人々には届かず、却って彼らを怒りに追いやってしまいました。ステパノはこのスピーチの直後、石打ちにあって殉教するのですが、その出来事は来週お話します。
 
終わりに:私たちの心が神殿
 
 
全世界を治め、み座におられる主が、私たちが礼拝しているこの場所にもおられることを、感謝とへりくだりをもって認め、感謝しましょう。同時に、この会堂を去った後にも、私たちの心を神殿として宿っておられることを認め、感謝と信頼を持って一週間を送りましょう。「私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(2コリ6:16)
 
お祈りを致します。