礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年10月13日
 
「この罪を彼らに負わせないで」
使徒の働き連講(18)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 7章51-60節
 
 
[中心聖句]
 
  59,60   こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。
(使徒の働き 7章59-60節)


 
聖書テキスト
 
 
51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。52 あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに殺到した。
58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
 
1.ステパノは聴衆を弾劾する(51−53節)
 
 
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
 
・ステパノの議論(1−50節):
イスラエルの歴史を語りつつユダヤ人を批判=サンヒドリン議会がステパノを訴えた論点の第一は、ステパノはモーセの律法を蔑ろにしている、第二は、神殿を壊すというイエスの主張を繰り返している、というものでした。ステパノは、イスラエルの歴史を物語風に振り返りながら、神の存在が、特定の場所や建物に限られるものではない、と強調いたします。ここまでは昨週お話しました。ステパノは、淡々と歴史を振り返っている語り口ではありましたが、実はその要所々々に、ユダヤ人の反逆性と頑なさへの批判が散りばめられていました。それを感じ取った聴衆がざわめき始めたのは当然です。そのざわめきを感じたステパノは、物語風の語り口を急に変えて、聴衆に矛先を向けたストレートな攻撃を始めました。その要点は三つです。

@神と指導者への反逆(51節):
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」と言って、神と指導者モーセに逆らった先祖達と同じ反逆を繰り返していると非難します。「心と耳とに割礼を受けていない人たち」という表現は、モーセが、反逆を繰り返すイスラエルに対して「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」(申命記 10:16)と語った言葉と同じです。

A預言者を迫害(52節):
「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」と言って、預言者イザヤを鋸引きで殺し、預言者エレミヤを石打で殺した先祖達の罪を彼らが繰り返していることを非難します。その迫害は、神が最終的に遣わされたメシヤなるイエスを十字架につけたところでクライマックスに達した、とステパノは言っているのです。

B律法に背く行動(53節):
「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」と言って、イスラエル歴史で繰り返された律法無視の行き方を非難します。これは、誠に手厳しい攻撃です。これが引き金になって石打ちという結果になるのですが、ステパノはある意味でこの結果を覚悟していたのではないかと思われます。
 
2.人々は激高する(54−57節)
 
 
「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。」
 
・人々の怒り(54節):
サンヒドリン議員及び傍聴者達は、「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。」ステパノの指摘が図星であったからです。

・ステパノはキリストを見つめる(55−56節):
議会の喧騒の最中ではありましたが、ステパノは聖霊の与える平安の内に静かに天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見ます。「神の右に立っておられる」という表現が私の心を引きます。新約聖書の一般的表現は、「神の右に座しておられる」(エペソ1:20、ヘブル1:3その他多数)ですが、この場合には「立っておられる」なのです。人間的な言い方をすれば、「ステパノよ、がんばれ」と居ても立ってもおられない主イエスの心持を表わすような迫真的表現です。さらに、主イエスは、殉教しようとしているステパノを迎えようと立ち上がっておられました。さて、ステパノは怒り狂っている聴衆に向ってこう言います、「見なさい。天が開けて、人の子(キリストの別称)が神の右に立っておられるのが見えます。」と。これは一種の臨死体験と見ることができます。彼は、神の栄光の輝きを捉え、そして、その神の右に立っておられるイエスを見た、というのです。天国とは、自分を愛し、励まし、迎え入れてくださる主イエスが自分を見つめている場所という意味で、ステパノにとって非常に個人的な親しみのある場所、いわば故郷のようなところでありました。その天国に迎えられる時が来た、何という至福のときだろうかという喜びが、彼の内から輝き出て来たのです。

・人々の怒りは激増する(57節):
人々は自分達の不服従の罪を指摘されて激高しただけではなく、イエスをキリストとして神の座に見ているステパノの言葉を冒涜とみて、「大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した」のです。もう、議会の秩序も何もあったものではありません。有無を言わさず、石打ちにしようとステパノを議会の外に連れ出してしまいます。
 
3.ステパノは、輝く最期を遂げる(58−60節)
 
 
「そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」
 
・リンチの実行(58節a、イラスト参照):
ステパノの反対者達は、「彼を町の外に追い出して、石で打ち殺し」てしまいます。当時、ローマ帝国支配下のユダヤでは当局の許し無しの死刑は禁じられていたのですが、彼らは「神への冒涜」に対する怒りから、表決や宣告を行なう間もなく、正義も合法性も吹き飛ばし、リンチでステパノを葬ったのです。36年の頃と考えられています。ステパノは、キリスト教歴史の中で最初の殉教者となりました。それだけ、ステパノは、他の人には見られない鋭い洞察をもってキリストの福音を捉えていた人物であったと言うことが出来ます。

・サウロの役割(58節b):
この非合法的なリンチ事件の際に、人々の上着を集めて番をした男の名前がユダヤ教の若き学者・指導者であるサウロです(58節)。サウロの役割は、このリンチが当局から咎められたら自分が責任を持つという重いものでした。自分が臆病だから手を出さなかったと言うわけではありません。それどころか、この論争が起きたリベルテン会堂の中で、「キリキヤ出身者」とあるのは、サウロも含めた仲間であったと私は想像します。つまり、ステパノへの攻撃に最初から参加し、更に、石打ちに大賛成だったのがサウロです。キリスト教とはユダヤ教を壊してしまう危険な思想だとサウロは考えていたのです。ステパノへの石打ち以来、サウロは気違いじみたキリスト教迫害運動の先頭に立って、多くのクリスチャンを捉え、投獄しました。

・ステパノの信仰告白(59節):
ステパノは、石が雨霰と降ってくる中で、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と祈りました。これは、キリストの最期のことば「父よ、わが霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)を思い出させます。ステパノが如何にキリストの生涯を思い巡らして生きていたかを示すことばです。

・ステパノのキリスト的祈り(60節):
さらにステパノは、彼がキリストの精神をそのまま生きていたことを示す祈りを捧げます。キリストが十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ23:34)と赦しの祈りを捧げたと同じように、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。旧約時代、祭司ゼカリヤが石打ちで殺されましたが、その時彼は、「主がご覧になり、言い開きを求められるように。」(2歴代24:22)と祈ったのと対照的です。さて、その石打の最中にも、ステパノの顔にあった御使いの輝きは消えませんでした。ステパノの勇気、清い生涯、キリスト的な祈りは人々に強い印象を与えました。アウグスティヌスはこう言っています、「もし、ステパノが祈らなかったならば、サウロは回心しなかったであろう」と。

・サウロへの影響:
この出来事をきっかけに迫害運動の指導者として躍り出たサウロではありましたが、彼の心には、あのステパノの顔の輝き、ステパノの説教の説得力、そして敵を愛する赦しの精神が、深く留まっていました。あのステパノの輝きは何だったのだろうか、あのステパノの見たイエスとは実存のお方ではなかったのかという微かな、疑問が消えませんでした。それが潜在的に働いて、後の劇的改心に繋がるのです。その意味では、ステパノは、偉大な宣教師であり神学者であるパウロを生み出した霊の親となりました(使徒22:20)。そのサウロがパウロと呼ばれるようになり、1世紀における最大の伝道者となって、地中海世界をキリスト教化するようになります。驚くような主のみ業です。
 
終わりに:「祝福の倍返し」を!
 
 
真珠湾攻撃の総隊長であった淵田美津雄という人がいます。彼は、ルカ23章の十字架の物語に触れた時、「父よ、彼らを赦し給え」の祈りを読んで、目が開かれました。その背景には、彼が、戦後間もなく、浦賀にあるアメリカの捕虜収容所を訪れ、捕虜となった人々の体験をリサーチしていた時、捕虜達から聞いた不思議な女性の話があったのです。彼女はマーガレット・コヴェルと言い、収容所でソーシャルワーカーとして働き、その親身な働きの故に多くの捕虜から慕われていました。彼女は捕虜達にこういったそうです。「私の両親はバプテストの宣教師として日本で働いていました。フィリピンに逃れた時、スパイ容疑で逮捕され、目隠しをされて日本刀で首を切られました。でも日本刀の下に引き据えられながらも、二人は心を合わせて熱い祈りをささげていたそうです。それを知らされた私は、憎いと思う日本人たちに憎しみを返すことではなくて、両親の志をついでキリストを伝えることだと思いました。」と。渕田は、マーガレットの両親の祈りこそ主イエスのこの祈りだと悟ったのです。つまり、彼らは、「天の父なる神さま、いま日本の兵隊さんたちが私や妻を殺そうとして日本刀を振り上げていますが、この人たちを赦してあげてください。この人達は何をしているのかわからずにいるのです。」と祈ったと分かったのです。更に淵田は、その「彼ら」の中に自分も含まれていることを悟り、悔い改めて主を信じるようになりました。彼は伝道者として一生を送りました。

私たちは、ステパノのような厳しいな迫害や攻撃を受けていることはないにしても、各方面からそれに似たような扱いを受けることはあります。その時私たちはどのような心持ちになるでしょうか。最近放映された「半沢直樹」というテレビドラマで、自分への虐めに対して「『倍返し』いや『10倍返し』だ」と半沢さんが放った言葉が流行っていますが、これはどうかと私は思います。主イエスの精神も、ステパノの精神も「祝福の倍返し」、「祝福の10倍返し」です。このスピリットをもって今週も歩みましょう。
 
お祈りを致します。