礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2013年12月15日
 
「待ち望む者への福音」
クリスマスに向かう(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書2章8-20節
 
 
[中心聖句]
 
  10,11   御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
(ルカ2章10-11節)


 
聖書テキスト
 
 
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
始めに
 
 
クリスマスに向かうアドベント第三聖日を迎えました。今日は、ベツレヘムの野原で羊を飼っていた羊飼い達に与えられた主の使いのメッセージから「羊飼いたちへの福音」という題でお話しします。
 
A.待ち望んでいた羊飼い
 
1.何故羊飼いに?:待ち望んでいたから
 
 
キリスト誕生という驚くべきニュースを最初に受け取ったのは、世の指導者達ではなく、学識者でもなく、金持ちでもなく、貧しい名もない(名前も残されていない)卑しい(と当時は考えられていた)羊飼い達でした。何故こんな人々に大切な知らせが伝えられたのでしょうか。答えはわかりません。考えられる理由の一つは、彼らは救い主を待ち望んでいたということです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。それは彼らがベツレヘムの羊飼いだったからです。
 
2.ベツレヘムの羊飼い
 
 
・ダビデの出身地:テキスト
救い主誕生の舞台は、エルサレムでもなく、ヘブロンでもなく、エリコでもなく、ベツレヘムでなければなりませんでした。ベツレヘムは、エルサレムから南に約8km、丘陵地帯の尾根にあります。他の地方に比べると降雨量が多く、それが穀物や(無花果、葡萄、オリーブなどの)果物の生産に繋がっています。ですから、この地名が「ベツレヘム」(パンの家)と呼ばれるようになったのです。ベツレヘムが世に知られるようになったのは、イスラエル第二代の王ダビデの出生地としてです。その前に、ダビデ曾祖母ルツが信仰の物語を紡いだのも、このベツレヘムでありました。何よりも、ベツレヘムは救い主が誕生する地と名指しで呼ばれていました。

・メシヤ予言:テキスト
BC8世紀、イザヤと同時代の預言者ミカはこう預言しています「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)と。このメシアは、「(羊飼いとして)群を飼う」(5:4)のだとも記されています。この預言はイスラエルの中に脈々と受け継がれ、彼らの期待の拠り所となりました。ヨハネ7:42には「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」と人々が語った事が記されています。ベツレヘムの羊飼いがこの預言に全く無知であったとは考えられません。ベツレヘムから出る羊飼い的なメシアを羊飼い達が心待ちにしていたことはごく自然でしょう。
 
3.生贄の羊の見張り
 
 
先ほど言いましたように、ベツレヘムはエルサレムの隣町で、エルサレムの神殿で生贄として捧げられる筈の羊達の見張りをしていたのです。通常、羊飼いが夜番をしながら羊を守ることはありませんでした。それは、ライオンその他の野獣の危険が絶えずあったからです。普通の羊飼いは、夜になると羊の檻の中に羊を囲い込んで安全を確保していました。でも、ベツレヘムは特別で羊の集散地でしたから、多くの羊をケアするために、外に置いたまま夜を過ごすことがあったのです。そこから考えても、クリスマスが12月であるという可能性は低いと私は見ています。かと言って、全世界の風習に逆らうのも大人げないことですから、一緒に祝ってはいますが・・・。ユダヤ人で新約学者であるイーダーシャイムという人が、その著書「イエスの生涯と時代」という本の中で、ベツレヘム郊外にあって、エルサレムよりのミグダル・エデル(見張りの塔)の傍の羊の群れは、普通の群でなくて、エルサレムの神殿に捧げるための特別な群であること、羊飼い達も特別な使命のための人々であったことを指摘しています。ですからこの羊飼い達は、生贄用の羊を養いながら、「世の罪をのぞく神の小羊」としてのメシアを待望していたと考えることは、そんなに大きな飛躍ではありません。そうでなければ、天使たちのメシア誕生に関わるメッセージの意味を直ぐには捉えられなかったことでしょう。
 
4.ダビデ王の「後輩」としての誇り
 
 
当時の羊飼いは、社会における大切な役割を担っていながらも、身分的には低く見られていました。特に宗教的には、ラビからは人間扱いされていませんでした。彼らが、安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったからです。しかし、ベツレヘムの羊飼い達は、ある種の誇りを持っていました。彼らから千年も昔、ダビデ王が少年時代、このベツレヘムの野原で羊を飼っていたこと、その羊飼いとしての経験がゴリヤテとの戦いの勝利となり、「主は私の羊飼い」という詩篇となったわけですから、ここの羊飼いが、それを意識していたことは容易に想像できます。そして、その偉大なダビデ王の子孫から救い主が生まれることもかれらは知っていました。期待が膨らむはずです。
 
B.グッドニュース
 

その羊飼いたちに天使が現れ、良き知らせ(福音)を伝えました。そのメッセージの内容が10−12節です。「10 御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」

 
1.恐れではなく喜び
 
 
天使は先ず「恐れてはいけない」とかたりました。それは、天使の出現によって、羊飼い達は非常に恐れた、と記されているからです。それを見て取った天使は「恐れることはない。喜びの知らせを齎したのだよ。」と彼等の心を静めました。我々も多くの恐ろしいニュースを見て心騒がされた一年を送りました。どこにも良いニュースが見いだせない中で、私達はキリストの誕生と言う驚くべきことに目を留め、喜ぶことができるのです。新改訳聖書で「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」と訳されていますが、直訳すると「私はあなた方に、この民全体に至るはずの大きな喜びを宣べ伝えます。」となります。喜びについての知らせではなく、喜びそのものを伝達します、というのが天使のメッセージの趣旨です。その喜びの知らせとは何でしょうか。
 
2.確かな知らせ
 
 
天使たちのみ告げは、確かな、そして具体的な内容を持った知らせでした。

・いつかではなく、「今日」:
天使が知らせを告げたその夜、旅人としてベツレヘムに訪れていたマリヤに赤ちゃんが産まれました。休むべき所もない雑踏の中、動物小屋の飼い葉桶に寝かされていました。何時来るかわからない遠い先のことをボーっと待っているのではなく、もう、救い主は生まれている、というのがメッセージでした。

・どこかではなく、「ベツレヘム」:
「ダビデの町」とは、この場合ベツレヘムのことです。遠くまで旅行する必要はなく、彼らから手の届くところに救い主が来られました。

・誰かではなく、「救い主キリスト」:
その方こそ、待ち望んでいたメシヤ(キリスト)救い主です。

・誰かのためではなく、「あなたがた」のために:
「民全体におよぶ」スケールの大きな神の救いのご計画が今や成就したのです。それも、待ち望んでいた羊飼いから始まってのことです。なんと、素晴らしい、胸躍らせる知らせであったことでしょうか。
 
3.福音は確かめられたた:即刻の訪問と確認
 
 
羊飼い達の行動は迅速でした。お産をしたばかりのお母さんにお見舞いに行くというのも(少なくとも現代の)常識に反します。だから、明日にしてもいいのではとは考えなかったのでしょうか。また、そんな偉い人を訪問するならば、手ぶらで行っては失礼かも(という日本的な)考えはなかったのでしょうか。あったかも知れません。しかし、羊飼い達は、それらを全部吹き飛ばして、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」と行動に移り、そして急いで行って、ヨセフとマリヤを探し当てたのです。「急いで行って」というところに、彼らの喜びがはち切れていた様子が伺えます。このメッセージは、羊飼い達によって事実として確かめられました。彼らはベツレヘムの動物小屋に行き、そこで生まれたばかりのイェスを見、全てが天使のみつげの通りであったことを確認しました。
 
4.福音は広がっていった:羊飼いたちは物語を伝えた
 
 
羊飼い達は、野原で聞いたばかりの天使のみつげの内容を伝えました。できるだけ正確に、そして感動をもって・・・。それを聞いた人々は当然驚きました。聞いた人々とは、マリヤとヨセフ以外に誰かいたのでしょうか。宿屋のお手伝いさんでしょうか。羊飼いの集団が訪れたことで野次馬のように集まってきた近所の人々でしょうか。分かりませんが、喜んでそのまま受け入れた人と、そんな馬鹿なと冷ややかに聴く人といたことでしょう。その冷ややかな反応も恐れずに、羊飼い達は、天使の現われとそのみ告げについて熱心に語りました。だからこそ、マリヤをはじめ、何人かの人々の記憶に残り、そして、ルカの記録に残ったわけです。羊飼い達は、「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」のです。「神様、ありがとうございました。あなたはお約束を成就して下さったのですね。あなたは生きておいでです。あなたはその救いを実現しようとしておられます。あなたの聖名をさんびいたします。」と歌いながら、野原に帰っていきました。
 
おわりに:クリスマスは、「待ち望むものにとって」福音
 
 
クリスマスは、救い主を待ち望んでいた羊飼いにとって福音でした。逆なりに言いますと、待ち望んでいなかった人々は何の感動も覚えず、いつもと変わらない夜を過ごしたことでしょう。私たちは今年のクリスマスにどんな期待を持っているでしょうか。さまざまな楽しいことに勝って、馬小屋に生まれてくださった救い主が、その満ち溢れる恵みをもって私たちの心に宿ってくださることを祈りましょう。

終わりに「ああベツレヘムよ」という讃美歌を歌いますが、その最後の節はこう締めくくられています。

「聖なる主イェスよ、来たりたまえ。
 心をあわせ、祈り望む。
 ともに住みたまえ、インマヌエルよ。」

これを私たちの祈りといたしましょう。
 
お祈りを致します。