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聖書テキスト |
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1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。 |
3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 |
6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 |
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始めに |
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2013年のクリスマスおめでとうございます。アドベントの間、待望という基本的テーマで、メシヤの来られるのを待ち望んでいたイスラエルの民の姿を学びました。今日はクリスマスデーです。パウロは、救い主の来臨を、「定めの時が来たので」と表現しています。 |
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1.神の時が満ちた:「定めの時が来た(時が満ちた)ので・・・」 |
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・メシヤ待望は沸騰点に
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@メシヤ予言は繰り返され、期待感が膨らんでいた:キリストが世に来られたクリスマスの出来事は、ある日突然起きた事ではありません。充分な準備期間が満たされて起きたことです。4節の「定めの時が来た」とは文字どおりには(プレローマ トゥ クロヌウ=時の盈満において)です。満ちたとは、諸準備、諸環境が満たされたという事です。キリストに関する予言とメシヤ待望が沸騰点に達したとき、主はおいでくださいました。 |
A律法の限界が感じられ、恵みへの期待が膨らんできた:このガラテヤ書の文脈で言いますと、ユダヤ人たちを縛っていた律法の限界がフルに感じられる丁度その時にキリストが世に来られ、新しい恵みの時代の幕開けを宣言してくださったのです。律法の限界に関して、パウロは、それを養育係のもとにある子どもに例えます。つまり、正しい道徳律の許に育てられ、それに従っていけば救いに到達するという教えのことです。それは、恵みによる本当の救いを頂くための準備ではあったかもしれませんが、あくまでも準備です。人間は、正しい道徳律を守る力がない、その自覚が、恵みによる救いを求める願いに人々を強く導いていた時代でした。 |
・福音伝達のインフラ整備: ケアンズという教会歴史の著者は、主イェス誕生の一世紀初めは、福音伝達のインフラ整備が実現していた時代であったと説明しています。 |
@パックス・ロマーナ(ローマによる平和): 一つには、ローマが地中海世界を統一して世界帝国となったのがBC27年でした。彼らはいわゆるパックス・ロマーナ(ローマによる平和)を齎しました。世界中に張り巡らした石造りの道路、堅牢な橋、郵便制度、法律制度その他は、福音を世界に広めるためのインフラ整備と考えられます。 |
Aギリシャ語・ギリシャ文化の普及: その300年前、マケドニヤのアレクサンドロス大王はパレスチナ・ペルシャ・インド・エジプトに至る征服戦争を行い、ギリシャ語とギリシャ文化を広めました。ローマが帝国となった後でも、ギリシャ語は(今日の英語が世界語となっているように)世界共通語であり続けました。こうした環境も、インフラ整備の一つでした。主イェスの誕生は、このような環境的な神の整えの時代に起きた出来事でした。「神のなさることは時に適って美しい」と聖言にありますように、実にグッドタイミングでキリストは世に来られました。私達の人生でもそうですが、人間の計画、願望によって事は動かない、神の時に従って物事は進むものです。私達の側で必要なのは神の時を待ち望む忍耐であり、神の良善を信頼する信仰であり、事が起きた時にそれを主のお働きと認める弁別力です。 |
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2.御子の派遣:「神はご自分の御子を遣わし・・・」 |
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・永遠の神の御子がこの世に: さて、父なる神はその代表者として特別な使命を与えてキリストを世に「遣わし」(エクサペステイレン=ご自身から、ご自身の栄光を離れて)なさいました。派遣された方がクリスマスのずっと以前から存在しておられたご人格であった事がこの句によって示されます。誕生されたキリストは、イザヤの予言によれば「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)です。こんな素晴らしい方が、「ひとりのみどりご」として生まれてくださったことがクリスマスの不思議です。 |
・神の栄光を離れて: 神の謙遜:栄光の神であられるキリストが、栄光の座を離れて、この罪と汚れの渦巻いている世界に、普通の人、普通の赤ちゃんとして生まれてくださいました。これまた、驚くべき奇跡です。これについて、パウロは「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6−8)と記しています。ここに表れているのは、神の謙遜です。神は遜って私たちと同じ目線に立つ存在として降りてきてくださいました。 |
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3.女からの誕生 |
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「この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで・・・」 |
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・マリヤから生まれた: しかもキリストは、「女から」生まれなさった、つまり、マリヤの体を通して真の人となり給うたことを強調しています。完全に自然的な誕生ではなく、処女マリヤからの誕生ではありましたが・・・。 |
・「律法の下に」:律法の要求を満たし、律法の束縛にある人々を釈放: 何故キリストは真の人となりなさったのでしょうか。それは、キリストが「律法の下に」生活し、ユダヤ人として律法の要求を忠実に満たすためでした。イェスは、他のユダヤ人と同じように割礼を受け、宮に詣で、律法を学び、それを実践されました。虎穴に入って虎児を得る、という例えのように、律法の完全な実践を通して、律法の下に奴隷となっていた人々を救おうとされました。5節の「律法の下にある者を贖い出すため」とは、私たちが受けるべき罰を身代りに受けることによって、律法の呪いと支配から私達を贖い出すためでした。 |
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4.御子派遣の結果 |
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「その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」 |
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・私たちを神の子(養子)とするため: キリスト来臨の結果は、「私たちが子としての身分(つまり、養子=もともと持っていなかった特権、財産)を受けたことです。このような養子縁組は、家を重んじる古代ローマでは一般的でした。その縁組みのときには、養父が養子にトーガを着させて、その徴としました。それによって、彼の財産全部が養子のものとなるのです。 |
・父子としての親しい関係に導くため: キリスト来臨は確かに歴史的事実ではありましたが、それだけでは言わば絵に描いた餅です。それが個人的なものとなるために働いて下さるのが御霊です。信じるものの心の中に宿り、働きなさる御霊の第一の仕事は、私達に神の子供としての確信を与えなさることです。「あなたがたは子であるゆえに(子である証拠として)、神は「アバ(アラム語のおとうちゃん)父。」と呼ぶ御子の御霊(キリストの内に働いておられたと同じ御霊)を、私たちの心に遣わしてくださいました。」ここで使われている「呼ぶ」とは、弱々しい囁きではなくて、ごく自然に神様を「お父さん」と呼び始めるのです。さらに、パウロは、神の相続財産を頂く特権をもう一度思い出させます。7節に「子供であるならば、論理的に相続人となるでしょう」と言います。私達がキリストを選んだのではありません。キリストが私達をどんな理由かは分かりませんが選んで下さったのです。私達の性格の良さとか真面目さとか毛並みの良さとかで無かった事は確かです。本当に価値の無いものをこの救いの中に選んで下さった事を思いますと、「ああ恵み、ああ恵み我にさえ及べり」としか歌えません。 |
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終わりに:「定めの時」が私にも! |
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最後に、もう一度「定めの時が来たので」というパウロの言葉に目を留めて終ります。神はこの全世界の救いの為にも定めの時を持ち給いました。それを十字架と復活という形で実現なさいました。同じように、私達個人々々に対しても、主は救いと助けを私達の人生全体に計画しておられます。それを感謝とともに受け止めて信仰を持って進もうではありませんか。 |
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