礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年1月5日
 
「私の前に主を置く」
年頭礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
詩篇16篇1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  8,9   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
(詩篇16篇8-9節)


 
聖書テキスト
 
 
1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
 
はじめに
 
 
明けましておめでとうございます。昨年を振り返りますと、景気が回復基調に戻ったり、オリンピック招致が決まったりと明るいニュースはありましたものの、全体の流れで見ますと、決して物事が良い方向に進んでいないように感じます。このまま進んだらどうなるだろうかという大きな危惧を感じつつの越年でした。しかし、世的な意味で良きことを期待できないだけ、主にある希望を強く持たせていただきました。そのような意味で、ダビデの「黄金(ミクタム)の詩」と言われる詩篇16篇が強く私の心に語りかけられた年末年始でした。それをお分かちしたいと思います。
 
A.詩篇16篇を味合う
 
1.概観:
 
 
まず、詩篇全体を、区切りごとに読んで味わいたいと思います。

@神は私の守り、幸い(1−2節)

「1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。 2 私は、主に申し上げました。『あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。』」
避け所である主に限りなく近づいて行き、神を最高の宝と考えているダビデの姿があります。「あなたに身を避け」という言葉は強意でして、神だけに身を避け、他のものを頼りにしない、というダビデの真実なより頼みを示しています。その神は、彼の幸いそのものであり、他の事柄に気を取られていない純粋なデボーションを告白しています。

A神に向かう二種類の人々(3−4節)

「3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。」
世の人々は、二種類に分けられます。聖徒たちは、神に近づこうとする人々のことです。ダビデはその人々との連帯と交わりに生き甲斐を感じます。他方、他の神を信じる人々、特にモロクのような血を注ぐことを要求する偶像信者に対して、ダビデは深い悲しみを感じます。

B私のゆずりである神(5−8節)

「5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。 7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。 8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」
5節の告白は、2節の告白の延長です。主以外に宝はないという絶対的な帰依、傾倒の心を告白します。6節はヨシュア時代の土地分配を思い起こさせます。しかしこれは比喩的表現であり、主が財産であることを告白するものです。自分の当たりくじが主ご自身であったとは、何と幸運なことかと喜んでいるのです。そして、そのような考え方導いてくださった神を賛美します。特に、辺りが静まる夜にはその頷きを深くします。そして、いつでも主を私の前に置くことが幸いなのだ、という深い霊的な真理に到達します。順境でも逆境でも、神を自分の前に置くことで、揺がない心の軸を持つことになるのです。

C明るい将来展望(9−11節)

「9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
9節で現在の幸福の再述したダビデは、10節以下で神との近しい交わりという現在の幸せは必ず死後にも及ぶとの確信を表明します。

シェオル(死人の世界)は、ダビデと神との近しい関係を壊す力を持ちません。つまり、死がダビデの支配者となることはないと確信しているのです。それどころか、神の諸々の祝福がその御手にあることをダビデは確信します。
 
2.特徴:その明るさと積極性
 
 
このアウトラインからもお分かりと思いますが、詩篇16篇は、すべてが明るく、積極的です。数多くのダビデの詩は、彼が直面した人生の苦難から生まれ、その苦悩がにじみ出ていますが、この詩は、それが表面には出てきません。それはダビデが、神ご自身をしっかりと見つめていたからに他なりません。ダビデにとって神は「避けどころ」(1節)、「幸いの源」(2節)、「ゆずりの地所および杯」(4節)、「助言者」(7節)、「ともにおられる方」(8節)、「喜びと楽しみの対象」(9、11節)、「復活の主」(10節)でありました。
 
B.主がすべてのすべて
 
1.主は私の幸い
 
 
「あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(2節)愛し合っているカップルは、相手の存在だけで幸せです。昨年末召天された池田兄のご葬儀で、私は彼が残したこんな文章を紹介いたしました。「私たち夫婦の生涯が恥のうちに終わらないようにするには、私たちのために死に渡された主を愛することだけで充分。さらにそのようにして行きたいと思います。さて、ひとつだけ主にあって誇ってもよいと言われたとすると、私は、私と妻の主にある関係を挙げさせていただきます。この30年間、主から頂いた愛のかたちを常に基軸として歩めることが、大きな主の恵みだからです。」人間的に見ると彼の人生は、決して平坦でも豊かでもありませんでしたが、このような告白ができたということに、私は大きな感謝と安心を覚えつつ、葬儀を司式させていただきました。
 
2.主は私のゆずり
 
 
「あなたは、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(5−6節)6節の文語訳は「準縄(はかりなわ)は我がために楽しき地に落ちたり。宜(うべ)我良き嗣業(ゆづり)を得たるかな。」となっています。

・ヨシュア時代の土地分割:
測り綱とは土地を測量し、地境を定める道具です。その綱が自分にとって有利な条件の場所に落とされたとダビデは言っています。落とされた、とは籤で引き落とされたという偶然の出来事を示唆します。ダビデの時代から3百年余り前、イスラエルの指導者ヨシュアがカナンを占領して、その土地を各部族にくじで分割し、更に細かくその支族に分割しました。その時定まった地境は原則としてその子々孫々まで変更されませんでした。つまり、測り綱がどちらに落ちたかによって、肥沃な土地を得るもの、そうでないものの差が生まれ、その家族の運命が決まってしまったのです。

・ダビデの土地獲得はあったか?:
ダビデが自分の生涯のどこかで新しい土地を獲得し、それを感謝している記事は見当たりません。反対に、サウル王に追われていた時代にベツレヘムの地所を奪われたという経験があります。1サムエル26:19に、ダビデがサウルに向かって「王さま。どうか今、この僕の言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが・・・人によるのであれば、主の前で彼らがのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行ってほかの神々に仕えよ』と言っているからです。」と言っていることが記録されています。つまり、ダビデはベツレヘムにある先祖伝来の土地を奪われて、神ご自身こそが自分にとって嗣業なのだという信仰を深くしたのです。それが、地上の所有物や楽しみに頼らない生き方へとダビデを導きました。ダビデはその眼を主に向けて、「私の幸福はあなただけです。あなたこそが私の財産です。私の楽しみはあなただけです。」(2節)と告白するのです。

・私たちの嗣業であるキリスト:
エペソ書は、私達新約の教会が、ダビデに勝る素晴らしい特権に与っていることを言い表しています。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストの中に選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。・・・この方にあって私達は御国を受け継ぐ者ともなりました。」(エペソ1:3‐4、11)その嗣業は栄光に富んだものです(1:18)。ハレルヤ!
 
3.主は私の守り
 
 
・現在の祝福は将来に続くとの確信:
先述しましたように、ダビデは神との親しい交わりの幸せが死後にも及ぶと確信します。どんな絶望的な状況にあろうとも、神のご臨在と祝福を信じる者は楽観的であり得ます。

・その確信はメシヤ復活の予言となる(使徒2:27−32):
ダビデから千年経った後のペテロは、この10節をキリスト復活の予言ととらえます。それを語っているのが使徒2:27ですが、その中でペテロが語った要点は4つです。

@ダビデの確信:
ダビデは、自分の魂がよみ(死者)の世界に放置されるはずがないと確信していた。

Aダビデの実際:
しかし、実際に彼自身は死んで葬られてしまったので、「その肉体は朽ち果てない」との約束はダビデ自身には当て嵌まらない。「彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。」(29節)と。それでは、詩16:10の約束は実現しなかったのか。

Bダビデの子孫:
そうではなくて、彼の子孫の一人によって実現するとペテロは言う。「彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。」(30節)これはダビデの子孫からメシヤが興るという約束である。

Cイエスがメシヤ:
ナザレのイエスはダビデの子孫であり、復活によってメシヤであることを宣言された。つまり、詩篇16篇に約束されている死者からの復活は、イエスにおいて実現した。したがって、イエスこそ待望のメシヤだった。「後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(31−32節)という言葉の強調点はそこにある。
 
C.「主を前に置く」心の営み
 
 
8節に戻りましょう。ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(8節)という信仰の姿勢を示しています。神は遍在のお方ですから、いつでもどこにでもおられます。しかし、ダビデが殊更に「いつも主を私の前に置いた」と、神を物体でもあるかのように表現しているのは、臨在の主を意識的に捉えながら生活をするという心の姿勢を示しているのです。
 
1.主の眼を意識して生活する
 
 
「主を私の前に置く」とは、主の眼を意識して生活することです。主が彼の「すわるのも、立つのも知っておられ、その思いを遠くから読み取られる」(詩篇139:2)方であることを意識し、その方に喜ばれる生き方を全うしようとする態度のことです。その方に喜ばれる生き方を全うしようとする態度(同24節)は信仰生活の基本です。
 
2.主の助けと導きを絶えず仰ぐ
 
 
「主を私の前に置く」とは、主の助けと導きを絶えず仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と断言することができました。実際のダビデの生涯を見ますと、サウル王に逐われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でしたし、また、その後イスラエル王となってからは、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には主との強い絆があり、その点では揺るがされなかったのです。
 
3.すべてのことを主への愛のゆえに行う
 
 
「主を私の前に置く」とは、すべてのことを主への愛のゆえに行うことです。17世紀に、フランスの修道院において台所奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいました。彼の記した「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)は、後のウエスレーはじめ多くの人々に感化を与えました。彼の言葉を引用します。「人々は、神の愛に近づく方法や手段を考える。彼らはその愛を思い出すための規則や方法を学ぶ。それは、悩み多き世界が神の臨在の自覚の中に入り込むようなものである。しかし、事実はもっと単純である。私たちがいつも行っている普通のことを、神を愛するためだけに行うという方がもっと手っ取り早く易しいのではないだろうか。」彼にとって、「普通のこと」とは、それがどんなに世俗的または当たり前のことであろうとも、神の愛の手段となりうるのです。仕事が神聖なものであるか、世俗的なものであるかとは問題ではなく、仕事の背後にある動機が問題なのです。「私たちは、なすべき偉大なことを持っている必要はない。私たちは小さなことを神の為にすることができる。私は、フライパンのケーキをひっくりかえすことを神の愛の為に行う。私は働く力を与えてくださった神の御前に跪いて礼拝する。それから王様のように楽しく立ち上がる。私にとって、地面にある藁一本を神の愛のために拾うだけで十分なのである。私は、世の中には神様と私としか生きていないように感じるようになった。」ローレンスの台所に関する最も有名は言葉があります。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静謐さの中に住み給う神を持っている」
 
おわりに
 
 
新しく迎えた2014年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、ダビデのように「主を前に置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。
 
お祈りを致します。