礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年1月26日
 
「志をひとつにして」
教会総会に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピ人への手紙 2章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  2   私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
(ピリピ2章2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ、神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
はじめに
 
 
第66次教会総会を迎えました。立てられる新しい計画、目標に向かい、新しく任命される役員・運営委員を中心に今年度の働きを始めます。このような時に大切なことは、文字通り私たちが「志を一つにして」共に戦う姿勢です。ピリピ2:2の「志を一つにする」というみ言葉について幾つかのことを考えましょう。
 
◆◆ 志を一つにするとは? ◆◆
 
 
1.全体主義的な一致ではない
 
 
2節で「志を一つにして」とパウロが述べている「志」とは、ギリシャ語フロネオー(思う)の訳で、「同じように思う」との意味です。NIVではBeing one in love and purpose(愛と目的において一つとなれ)となっています。

「同じように思え」と言いましても、皆がハンコで押したような人間になれという意味ではありませんし、政治的意見、個性や趣味や物の考え方が同じになることを強調しているのでもありません。況して、あるカリスマ的指導者の下で皆が同じ方向に進むという全体主義的一致を意味するものでもありません。教会とは、そのようなステレオタイプの人間を育てる場所ではありませんし、そうあってはなりません。
 
2.イエス様の思い(真の謙遜)で共通
 
 
「志を一つにして」(新共同訳=思いを一つにして)は、先ほどお話ししましたように思う(フロネオー)という言葉です。この同じ言葉が出てくるのが5節です。「キリスト・イエスの中にあった思いを、あなた方の思いとしなさい」と。そして6節以下に、その思いが詳しく述べられています。一言でいえば、己を捨て、己を虚しくして従った僕の姿です。この謙遜の思いがピリピ教会のメンバーに共通した思いとなるようにというのがパウロの願いであり、勧めでありました。つまり、志を一つにするとは、イエス様の思いで私たち信仰者の心が一致していくことです。繰り返しますが、志を一つにするとは、意見が同じになることや個性や趣味や物の考え方が同じになることでもありません。目的と動機が同じになることです。協力的な精神、助け合う心、互いを尊敬する心、自分を中心に考えない真の謙遜です。
 
3.対立を超える謙遜:ユウオデヤ・スントケ間の対立克服が願い(4:2−3)
 
 
パウロがこの手紙で一致を強調している背景には、ピリピ教会で起きていた指導者間の対立がありました。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」(4:2−3)ユウオデヤとスントケは、二人とも素晴らしい女性指導者でした。パウロがピリピ教会の礎を据えた頃からの協力者であり、福音を広めることに熱心であり、霊的な器であったと考えられます。しかし、何かの理由で対立していました。それが教会全体の憂いでありましたし、教会全体もこの二人の対立に影響されて、コリント教会ほどではなかったにせよ、分派的な傾向に走っていました。バイブル・ナビの注釈を引用します。「多くの人――クリスチャンでさえも――は、他の人たちに良い印象を与えたり自分を喜ばせたりするためだけに生きている。しかし自己中心は不和をもたらす。それゆえパウロはピリピ人たちに互いに愛し合い、心を合わせ、志を一つにするよう求めて、霊的な一致を強調した。他の人たちの問題に、まるで自分の問題であるかのように気づかって共に取り組むとき、他の人たちを最優先するというキリストの模範を経験するのだ。」ですからパウロは3−4節で勧めています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」と。
 
4.他人を自分よりもすぐれた者と思う謙遜
 
 
特に、この勧めから、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という部分に光を当てて考えましょう。他人の考え、他人の生き方、行動というものは、自分のそれよりも勝れたものだという前提で物を考えなさい、それが謙遜だ、とパウロは語っています。クリスチャン生活が長い人ほど、そう考えることが難しくなります。況して、牧師・教師という指導者になると人が自分よりも勝っているという考え方から遠くなってしまいがちです。これは自戒を込めて言っているのですが・・・。さて、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」その謙遜さはどこで現れるでしょうか。
 
5.会議において表れる謙遜:他人の意見を尊重し、聴く
 
 
私は、会議と交わりがその場であると思います。議論をするとき私達は往々にして、自分は正しく、相手は分かってくれないだけだ、という前提に立ってしまいます。自分の立場に対して確信は持つという事は良いことなのですが、もしかしたら自分は間違っているかも知れない、という幅を認めながら話し合うのとそうでないのとは雲泥の差があります。会議などで自説を譲らない人がいると、一致が生まれにくいのです。自分の主張するところは主張しても、「他の意見は勝れたもの」というゆとりを持つと、会議は楽しくなり、生産的になります。
 
6.交わりにおいて表れる謙遜:他人の経験を尊重し、聴く
 
 
交わりの時間もそうです。他人の話をよく聞き、彼(彼女)に与えられた恵みを共に感謝し、彼(彼女)の考え方から学ぶのが謙遜です。「他の人の経験は自分の経験より優れたもの」という前提に立ちますと、交わりにおいて「聞く」態度が生まれます。逆に、交わりの時間に、自分の意見や体験を長々と話すのは、傲慢の表れと言えましょう。他人の話をよく聞き、自分の話も混ぜながら、共通の方向に導かれる、これが本当の交わりではないでしょうか。このような、交わりを通して得られた教会の方向性が真の一致の基礎です。
 
7.戦いにおいて表れる一致
 
 
1:27には、「心を一つにして福音の信仰のために奮闘しており」と記されています。また、4:3には、「この人たち(二人の女性指導者)は、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」とも記されています。教会の一致とは、福音を広めるための戦いにおける一致です。このような言い方をしますと、お互いの喧嘩は棚上げにして、伝道のために一致しましょう、という安易なスローガンに陥りやすいのですが、新約聖書の言っている一致とは、戦いのための便宜的な一致ではありません。一致そのもの、つまり、主にあるキリスト者たちが互いに愛し合い、尊敬しあい、助け合っているその姿こそが伝道なのです。主イエスは、ゲッセマネにおいてこう祈られました。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。・・・そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。・・・わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:21、23)
 
おわりに
 
 
この年、教会の交わりを通して得られる一致をもって、福音の拡大のため共に奮闘しようではありませんか。
 
お祈りを致します。