礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年2月2日
 
「そこは荒野」
使徒の働き連講(21)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 8章25-31節
 
 
[中心聖句]
 
  26.27   主の使いがピリポに向かってこう言った。『立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。
(使徒の働き 8章26-27節)


 
聖書テキスト
 
 
25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) 27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
 
前回の復習:サマリヤにおけるリバイバル
 
 
クリスマスや新年、教会総会で連講を中断しましたが、今日から再開します。前回は、「それでその町に大きな喜びが起こった。」(8:8)との御言から、ピリポのサマリヤ伝道について語りました。七人の教会執事の一人であるピリポが、ユダヤ人から蔑まれているサマリヤに行き、キリストの福音を伝えたこと、そして、多くの人々がキリストを信じ、町全体に喜びが起きたことを話しました。教会の本拠地エルサレムでも見ることのできないほどのリバイバル現象です。今日は、そのピリポが、リバイバル的な働きから離れて、たった一人の外国人への伝道に行った、これまた心暖まるエピソードを学びます。
 
A.荒野への導き(25−27節a)
 
 
「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。『立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。」
 
1. ペテロ、ヨハネのエルサレム帰還(地図@参照)
 
 
ペテロとヨハネは、新興のサマリヤ教会を視察し、励ます任務を終えて、本部教会のあるエルサレムに戻りました。サマリヤのスカルから約50km南に向かっての道のりです。脇目も振らず真っ直ぐに帰ったのではなく、「サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝え」ました。かつて、ヨハネとヤコブがサマリヤの村々を通った時、主イェスに敵対する言動を見聞きして腹を立て、「主よ。私達が天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と発言したことを思うと、大違いです。

 
2.「成功」の場所から離れる:意外な転任命令
 
 
26節の「ところが」は、「使徒の働き」の著者であるルカの驚きを示します。自分が開拓したサマリヤ教会が隆々と栄え、しかも本部教会からの視察と励ましを得て、その働きは、益々盛んになるはずでした。それらを全部ひっくり返すような人事案が主の使いによって提示されたわけです。誰がピリポの後を継ぐのか、定まっていなかったことでしょう。それでも、主の使いはピリポに向かって、「サマリヤを去るように」と言われたのです。ピリポには、「自分がいなくなったら、サマリヤ教会はどうなるのか」という疑問が残ったことでしょう。でも、主は、深いお考えの故に転任を命じられました。使徒13:2にも、アンテオケ教会がバルナバとサウロの指導の下にぐんぐんと成長していた時、主はこの二人を宣教師として派遣されたという記事があります。教会の指導者が或る特定の人間ではなく、主ご自身であることを示すために、主は人間の指導者を取り去る時があります。今年も年会が近づいてきました。年会で牧師たちがどのように移されるかは分かりません。インマヌエルでは、牧師の任期は一年でありますので、年会で転任があってもサプライズと言ってはなりません。牧師はその積りで年会に臨みますし、また信徒もその思いをもって臨んで頂きたいのです。「この人がいなければ教会は成り立たない。」ということが決してないのが教会です。主が主導権を持っておられることを信じましょう。
 
3.「任地」は荒野:理解を超えた場所へ
 
 
ピリポにとってもっと驚いたことは、転任先です。人が多く住んでいるサマリヤでなくて、人が殆どいないガザ街道(エルサレムからガザに下る道)が転任先でした。ルカはわざわざ、「このガザは今、荒れ果てている。」と注釈しています。ガザとは今大きな話題になっているパレスチナ自治区で、ハマスの勢力下にあるところです。そこへの道は、当時も今も荒野です。ガザはパレスチナからいうとエジプトの入り口であり、乾燥した半砂漠地帯だったからです。人口は乏しく、豆鹿やジャッカルしか住んでいないようなところです。また、ガザの町自体がローマ軍の侵攻によって荒廃していました。ですから、ガザ街道に行けという命令は、人間的に見れば理解し難いものでした。多勢を対象とした華やかな働きから、わずか一人を対象としての地味な働きへ、また賑やかな都会から荒野へ、今目で見ている確かな働きから未知数の働き場へ、という納得の行かない命令でした。成功したサラリーマンが、ある日突然人里離れた僻地に派遣されるようなものです。
 
4.ピリポの単純率直な服従
 
 
このように不可解で、常識からも外れたような命令に対して、ピリポは単純率直に従いました。何故でしょうか?「主の使い」の導きを確信したからです。「そこで、彼は立って出かけた。」(27節)とありますが、「立つ」も「出掛ける」も文法的にはアオリストで、躊躇なく直ぐに立って、出掛けた様子を示します。何の質問も、文句もなく、素直に従いました。現実的にはありえないような行動です。何故これができたのでしょうか?私は、ピリポが自我に死に切っていたからだと思います。死に切っている器は、理不尽と思える決定にも淡々と従うことが出来ます。もし彼が理屈をこねて、服従を躊躇していたら、大きなチャンスを見逃したことでしょう。ピリポの服従は、エイズ患者のホスピスに転身したフォードの副社長ジョー・カーデイックを思い出させます。彼は、死に行くエイズ患者の救いの器となりました(「キリストの心で」p.30)。私達も、聖霊のゴーとストップのサインに敏感でなければなりません。それに従う気持ちを持っていると、サインは見え、従うと尚更サインが見やすくなるものです。あるときには耳で聞こえるように確かに、あるときは、日々の御言葉を通して、あるときは心の平安というサインを通して主は導いておられます。それに従う私達でありたいと思います。
 
B.エチオビヤの宦官との出会い(27節b−28節)
 
 
「すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」
 
1.エチオピヤの宦官:財務大臣(地図A参照)
 
 
エチオピヤというと、多くの方はアベベを思い出します。1960年のローマ・オリンピックのマラソンで裸足のまま走って優勝した英雄です。1964年の東京でも連覇を果たしました。私はというと、エチオピヤ料理を思い出します。ケニアはエチオピヤの隣ですから、エチオピヤ料理店が多くあって、何回か料理を頂きました。テフと呼ばれる練ったそば粉の様なものをうすく鉄板の上に広げて熱し、それを一口サイズに千切っては、幾つかあるおかずの皿からおかずを取って丸めて食べるといったもので、いくらでも食べられます。そのエチオピヤには、紀元1世紀始まったコプト教会というキリスト教会があります。先に述べたアベベもコプト教会のクリスチャンです。北アフリカに広まっていたキリスト教会は、7世紀以降イスラム教の征服によって殆ど姿を消しました。しかし、地中海沿岸から2千キロも離れた山岳地帯に住むエチオピヤの一角には、コプト教会がしっかり存在し続けました。恐らくその基礎となった男が、カンダケと呼ばれる女王の全財産を管理する、今日で言えば財務大臣です。地位は高く、給料も高かったのですが、一つ悲しいことは、彼はこの職に着くために男性たる機能を取り去る手術をしていたのです。その為に子種がありませんでした。この当時の政府高官は、王様のハーレムに余分な手出しをしないように、こんな非人間的な扱いをされていた訳です。いずれにしろ、この財務大臣も心の渇きがあったのでしょう。遠いエチオピヤからエルサレムまで片道2千キロの道のりをものともせず、巡礼者として礼拝に訪れました。

 
2.真剣な求道者:聖書を愛読
 
 
この財務大臣が礼拝の帰り道、聖書を読んでいたのです。恐らく彼は「門の改宗者」と呼ばれる(割礼を受けて正式に改宗する前の)ユダヤ教求道者のような立場であったと思われます。「彼は・・・預言者イザヤの書を読んで」いました。聖書と言っても、今日のようなコンパクトな本ではなく、パピルスの繊維をなめしたごわごわした一枚の紙、または羊皮紙を丸めた巻物で、一つの本が一つの巻物といった感じでした。高価なものでしたが、財務大臣には大した金額ではなかったかもしれません。彼が読んでいたのは、ヘブル語のものではなく、ギリシャ語訳(70人訳)であったと思われます。いずれにせよ、それをエルサレムで買い求めて、嬉しくてたまらない財務大臣は、その1章から声を上げて読んでいたのです。微笑ましい光景ではありませんか。電車などで恥ずかしげもなくポルノ新聞や雑誌を読んでいる大人が大勢いますが、少しはこの人に見習って貰いたいものです。
 
C. ピリポの大胆な接近(29−31節)
 
 
「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。』と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、『あなたは、読んでいることが、わかりますか。』と言った。すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう。』と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」
 
1.堂々たる態度
 
 
「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。』と言われた。そこでピリポが走って行くと・・・」とあります。彼は徒歩で旅行するみすぼらしい伝道者で、相手は高級車にのった一国の財務大臣でした。でもピリポは物おじししないで、堂々と近づきました。何故でしょうか。それは、聖霊が与える大胆さをもっていたからです。私達はキリストの大使です。大使というのは、Your Excellency と呼ばれて当然の立場にあります。ですから「申し訳ありませんが、クリスチャンです。すみません。」等と言ったとしたら、派遣し給うキリストの権威が損なわれます。クリスチャンはいつでも堂々と振る舞わなければなりません。 
 
2.接近の知恵
 
 
この財務大臣は、声を出してイザヤ書を読んでいました。彼に近づいて行ったピリポは、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と尋ねました。すると、宦官は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言って、馬車に同乗するように、ピリポに頼みました。自然な会話からキリストに話題を持っていく知恵をここに見ます。証とは取って付けたように不自然な非常識なものではありません。予め準備されたマニュアルに従って会話を進めるセールステクニックでもありません。ごく自然な会話から、魂の必要に入っていくのは聖霊の知恵によるのです。知恵とは、相手の関心事を自分の関心事とすることによって相手を受け入れ、相手の心を開いていただくことです。宦官はピリポの質問によって心を開きました。イギリスの列車で、酒飲みのおじさんに乗り合わせることになった少女が、一生懸命彼女にウィスキーを勧めましたが、彼女は丁寧に断り続けました。おじさんが「俺のような酔っ払いなんか困ったもんだとバカにしているだろうね。」と自虐的な言葉を投げかけたのに対して、少女は彼の親切さを褒めることによって、心を開かせたという話を聞いたことがあります。私たちに必要なのは、愛に基づく知恵とユーモアです。
 
おわりに
 
1.今いる場所、置かれた立場を感謝しよう:そこが荒野であったとしても
 
 
ピリポは、ガザへの道に遣わされ、しかも、そこは荒野と言われながら、恬淡と従いました。私たちが今いる場所は荒野かも知れません。置かれた立場は窓際かも知れません。しかし、私たちはすべてのことに神の摂理を信じています。神は必ずご自分の目的をもって私たちを今の場所、今の立場に置いていてくださるのです。今の環境を許しなさっておられるのです。それを喜んで、積極的な心で受け入れ、そこで主のみ旨を行うものとなりたいと思います。
 
2.大胆な、しかし知恵深い証人となろう
 
 
私たちは、聖霊に満たされると路傍でも恐れず叫ぶような力強い証人になって行くという固定観念からも、また、私達が大胆でないのは聖霊に満たされていないからだという劣等感の様なものから解放される必要があります。置かれた立場で自然に振る舞う事によって立派に証人たりうるのです。自然な会話の中にキリストの麗しい香りを放つことができるのです。今週、どこかで誰かに証が出来るように、祈りましょう。主は必ず機会が与えてくださいます。
 
お祈りを致します。