礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年3月2日
 
「目からうろこ」
使徒の働き連講(24)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 9章8-20節
 
 
[中心聖句]
 
  18,19   するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。
(使徒の働き 9章18-19節)


 
聖書テキスト
 
 
8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
 
はじめに
 
 
前回は、教会の迫害者サウロがキリストに出会って全く変えられるという劇的なストーリーをお話ししました。特にダマスコへの途上でサウロに現われた主イエスが、「なぜ私を迫害するのか?」(4節)と彼に問うた言葉の意味するところを皆さんと共に考えました。
 
A.盲目となったサウロ(8−9節)
 
 
「サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。」
 
1.目は開いているが何も見えない
 
 
圧倒的なキリストの顕現に触れて、サウロは変わりました。象徴的な出来事は、彼が盲目になったということです。激しい衝撃から立ち直って、よろよろと立ちあがったサウロは、自分が何も見えないことに気づきました。周りの人々もその不思議さに気づきました。「目は開いているのに」とは、まわりの人々の観察です。サウロは、他の人の手にすがってでなければ、一歩も進めない人生に変わったのです。体力にも自信があり、学識も誰より勝るものを持ち、正義感と行動力において群を抜いており、何でもできると自信満々であったサウロには、この経験は、遜りを教えるものでした。その衝撃は、三日間「何も飲み食いしなかった」という態度に表れています。
 
2.ダマスコ市街へ(地図参照)
 
 
サウロは、人の手にひかれるまま、ダマスコに入ります。そして「まっすぐ」と呼ばれる街路に行き、そこにあるユダという人の所有する一軒家に泊まることになりました。ユダがどんな人かは説明されていません。

 
B.アナニヤの登場(10−16節)
 
 
「さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、『アナニヤよ。』と言われたので、『主よ。ここにおります。』と答えた。すると主はこう言われた。『立って、「まっすぐ」という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。』しかし、アナニヤはこう答えた。『主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。』しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」
 
1.アナニヤへの命令:「サウロを訪ね、手を置いて祈れ」
 
 
ここでアナニヤという人物が登場します。パウロが後に説明しているところによれば、「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良い」人でした(使徒22:12)。この記述と9:13−14とをあわせると、彼がキリストの弟子としてダマスコにいたこと、恐らくその弟子団の指導者であったこと、エルサレムでの迫害の様子を聞いていたこと、更にその迫害の首謀者サウロがダマスコに近づいていることを知っていたこと、が分かります。そのアナニヤに対して主は、「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」と命じられました。「まっすぐ」というのは、ダマスコ市街の中心を東門から西門に抜ける1.5kmの真っ直ぐな街路のことで、今でも「バブ・シャルキ通り」という名前で存在しています(写真参照)。そこにサウロが滞在していること、さらに彼は祈っていること、そして、そのサウロは、アナニヤが按手をした幻を既に見たことを告げます。

 
2.アナニヤの反論:「サウロは、超危険人物」
 
 
当然、アナニヤは主に対して反論します。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」と。当然と言えば当然です。例えて言えば、傷ついた野獣を治療するために野獣の檻に入っていきなさい、とアナニヤは命じられたのですから、拒絶反応は当然です。
 
3.主の答え:「サウロは、私の選んだ器」(26:17−18)
 
 
しかし、主のご命令は、アナニヤの考えを遥かに超えるものでした。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」「主の聖名を異邦人、(異邦人の)王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ選びの器」とは、イザヤ書にしばしば出てくる表現で、これは、主の僕の預言を成就するものです。サウロは、救われて、だんだん訓練を受けて、そのような器に育っていくという通常のクリスチャンのプロセスを飛ばして、いきなり、選びの器として召されている、と主は言われます。サウロが、異邦人の町で育ったこと、ガマリエルの下で聖書と神学の訓練を受けたこと、キリキヤの会堂のメンバーであったことなどが、異邦人伝道の素地として考えられます。その熱心は教会を迫害するほどであったことも、神の側から見れば、「有望な青年」だったことでしょう。この青年を主は召し、こう仰せられました。「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(26:17−18) 

サウロは、伝道のために選ばれた器であっただけでなく、苦しみのためにも召されていました。「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と。サウロの召しは、主のために苦しむ苦しみのための召しでもありました。厳粛なことです。でも、覚えましょう、主のための苦しみは、私たちにとって喜びなのだということを。最後に歌う讃美歌の中にも「君のために苦しむは、楽し喜ばし、とこしなえの栄えあり、実に栄えあり」とある通りです。(634)。
 
C.目が開かれたサウロ(17-20節)
 
 
「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」
 
1.アナニヤの按手:サウロの召しの確認(22:14−16)
 
 
ここまでわかったアナニヤは、議論をやめ、出掛けて行って「まっすぐ」街のユダの家を探し出します。そこで、彼は盲目のまま、祈っているサウロを見出します。アナニヤはサウロの上に手を置いて祈ります。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」「兄弟サウロ」とは、何と暖かい呼びかけでしょうか。さらに彼は「見えるようになりなさい。」と語りました。この9章では省略されていますが、22章におけるサウロ自身の回顧記事では、アナニヤの言葉が詳しく記録されています、「私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(22:14−16)パウロの使命がより明確に確認されたのです。何よりもサウロは、彼がダマスコ途上で出会った主イエスとの出会いが、自分だけの思い込みや主観的なものではなく、信仰の先輩であるアナニヤによって補強された思いがしたと思います。
 
2.サウロの開眼:目から鱗が落ちる
 
 
祈り終える間もなく、サウロの目から鱗状のものがポロリと落ちました。それが何であったかは分かりません。ともかく、前のようにサウロは視力を回復したのです。以前よりももっと深くものを見るようになりました。イエスが主であることに目が開かれたのです。十字架にかかった敗北者としか考えなかったイエスが、実は甦った勝利者であり、彼の救い主であることに目が開かれました。そのイエスは、彼を赦し、受け入れてくださる愛の主であることに目が開かれました。キリストの愛が私に迫った、と彼は告白しています。律法を守ることによって正しい人間になろうとしていたサウロは、律法によってではなく恵みによって生きる人間となりました。自力で生きる人間から、聖霊に満たされ、聖霊の力で生きる人間に変えられました。こうした諸々の開眼が、「目から鱗」の中身だったのです。最近、ちょっとした気づきをすることを「目から鱗」と表現することが流行っていますが、本当の目から鱗は、霊的な開眼であることを知っていただきたいと思います。
 
3.バプテスマ
 
 
サウロは、信じたことの証として、アナニヤからバプテスマを受けました。心の納得だけではなく、それを公に証したのです。アナニヤはバプテスマに当たってこう言いました、「その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(22:16)恐らく、近くの池か川に行ってバプテスマを受けたのです。彼の赦されざる過去の罪がきれいに洗い流されたことの象徴として。
 
4.宣教開始:「イエスは『神の子』(メシヤ)」
 
 
サウロは、数日弟子たちと共におり、体力を回復し、交わりを深めます。キリスト教について、旺盛な知識欲から知識を吸収します。その後「諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始め」ました。彼の性格から、もう黙っておられなかったのでしょう。これが伝道者サウロ(パウロ)の第一歩でした。この場合の「神の子」とは、楽天の野村監督が田中将大投手を指して「マー君、神の子、不思議な子」と言ったのとは異なり、旧約聖書に預言されているメシヤの称号としてです。この主張のために、彼は迫害の対象となり、ダマスコに居られなくなるのですが、その物語は次週にいたします。
 
終わりに:私たちの目の鱗は何か?
 
 
私たちの目には、意識的か無意識的かは別として、何らかの鱗が視界を曇らせている場合があります。固定概念という鱗があります。一つのことを一つの角度しか見られないという鱗です。あるいは、偏見という鱗です。特定の人や人種について、この人(々)はこんな人なのだと決めつけてしまっている鱗です。不信仰という鱗もあり得ます。神様について、これはできるが、あれはできっこないと限定して考えている鱗です。

どうか、先ほど歌いました讃美歌のように、「主が備えられた真実の道をわが目に曇りなく見させてください。」と主が見せようとしておられる幻を見、主が示し給う道を悟り、それに喜んで進む祈りを捧げようではありませんか。
 
お祈りを致します。