礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年3月16日
 
「聖霊に励まされて前進」
使徒の働き連講(26)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 9章31-43節
 
 
[中心聖句]
 
  31   こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
(使徒の働き 9章31節)


 
聖書テキスト
 
 
31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
32 さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。33 彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。34 ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。35 ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。
36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。43 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。
 
はじめに
 
 
前回は、回心したばかりのサウロに手を差し伸べて仲間に入れたバルナバの姿から、「私たちもだれかのためにバルナバとなろう」というメッセージを語りました。今日はその続きです。
 
A.全教会の安定と前進(31節)
 
 
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」
 
1.全教会の安定(31節a)
 
 
「こうして教会は、・・・平安を保ち・・・」

・迫害の緩和(地図参照):
31節の「こうして」とは、当然、サウロによる迫害が終結したので、という意味です。もちろん、10章、12章には別な形の迫害の記録がありますが、組織的な厳しい迫害は一段落したとみることができます。この一段落によって教会全体は落ち着きました。それだけではなく、このころ行われたローマ帝国によるユダヤ人への迫害がユダヤ人によるクリスチャンに対する迫害を緩めたとも見られます。それらが背景となって、「こうして教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ(パレスチナの三行政区)の全地にわたり・・・平安を保ち」と言われたのです。

・教会内の平和:
「教会は、・・・平安を保ち」とあります。NIVは、enjoyed the time of peaceとなっています。迫害の勢いが減っただけではなく、教会内に平和があったのです。教会が、和解を齎す福音を宣べ伝え、その中で、その和解が実行されることによって、平和が保たれたのです。はっきり言えば、教会の中から、不協和音が聞こえなかったというのです。もし、教会の中ががたがたしておりますと、求道者が折角教会を訪れても、その教会に落ち着かないで、去ってしまいます。勿論、人間の集まりですから、全く波風が立たないと言うことは期待できませんが、「つとめてすべての人と和らぎ、かつ聖からんことを求めよ」とありますように、教会の平和は、努めて求められるべきものです。

・全教会的安定(イラスト参照):
もう一つ興味深いことには、ここで述べられている教会は、単数であるということです(ある写本は複数だが、信頼できるものは単数)。エルサレムにあった教会が各地に飛び火して、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤというパレスチナの三行政区においてそれぞれ信徒の集まりが独立した群として形成されたのですが、それを総称する言葉も単数なのです。それぞれの教会は互いに別々なものではなく、全部がキリストの一つの体なのです。もし教会という概念が地域的な交わりだけを指すとすれば、ルカはここで「諸教会は」と複数で言わなければならなかった筈ですが、敢えて幾つかの教会を纏めて単数で表わしている所に意味があります。地域の教会は他と離れて存在することは出来ず、大きな普遍的な有機体の一部であることをこの言葉遣いだけでも汲み取れます。(イラスト参照)

・建て上げられる:
「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて」とありますように、教会が建物(神殿)に譬えられています。清き住まいとしての教会の内的成長と、その結果として外的な増加がもたらされました。この言い方が受身であることに注目しましょう。教会は、私達の力で建て上げるものではなく、主の助けと恵みによって建て上げられるものなのです。
 
2.教会進展の要素(31節b)
 
 
その教会の進展を示す動詞が三つ記されています。

・敬虔:
「主を恐れること」=「主を恐れる」とは、罪を避け、神を恐れつつ歩む敬虔さのことを指しています。主を畏れるとは、神が神であり、私達がその被造物であるということを認め、その御前に謙ることです。また、どんな時にも私達を見ていてくださり、私達の心を計り給うお方としての神を意識しながら、そのお方に相応しく歩むことです。旧約聖書では、主を畏れることは知恵の始め(箴言9:10)、知識の始め(箴言1:7)、人間のすべて(伝道12:13)であると語っています。新約聖書ではこれを「敬虔」(ユーセベイア=良い+畏れ・尊敬・礼拝、英語ではpiety or godliness)と言います。パウロは、敬虔こそ「今のいのちと未来のいのちを保証するもの」(1テモテ4:8)と位置づけています。今日の教会で欠けているものは、この敬虔ではないかと思います。「キリストが私のために死んだ」などと敬語無しに言われると、私のような年代の者は抵抗を感じてしまいます。言葉遣いがすべてではないとは思いますが、たかが敬語、されど敬語です。権威に従うとことを嫌い、すべてを平たく考えようというポストモダンの風潮にはありますが、主に対する畏れと畏敬を失ってはなりません。

・聖霊に励まされて:
聖霊による励まし(パラクレーシス)とは、パラクレートス(傍らに立つもの、弁護士、カウンセラー、慰め手、助け手)である聖霊が傍らに立って下さること、それに伴う励まし、慰め、特に説教における勧めのことです。説教者が聖霊の感動を受けて神の御言を語り、聴衆も聖霊の感動によって励まされ、慰められる様子を表します。そういった集会が、この場所で繰り広げられることを祈ります。これは、聖霊によって感動を受けた互いのクリスチャン同士の言葉を通しての慰めも含みます。私たちのスモールグループが、このような恵みを頂く機会となることを祈ります。さらに個人的なデボーションにおいて、御言によって教えられ、励まされることも含みます。聖霊に励まされる個人であり、グループであり、教会全体であるように祈ります。

・前進:
前進した、と言う言葉は、「強められた」(strengthened<ポリュウオー=運搬するの受身=進む)とNIVでは翻訳されています

この三つの要素こそ、教会の成長の鍵です。年会を越えたIGM諸教会のため、世界の諸教会のため、私たちの中目黒教会のため、このような成長を祈りましょう。
 
3.前進の結果(31節c)
 
 
「信者の数がふえて行った。」

主への敬虔と聖霊の励ましと前進の結果、信者の数がふえて行きました。迫害や困難を乗り越えて増加しました。それも、人数の増加に関する成長目標を定めた結果ではなく、自然的な成長でありました。
 
B. ペテロのルダ訪問(32−35節)
 
 
「32 さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。 33 彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。 34 ペテロは彼にこう言った。『アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。』すると彼はただちに立ち上がった。 35 ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。」
 
1.ペテロのルダ訪問(32節)
 
 
平穏が与えられた環境で教会が成長した様子が、ペテロの奉仕のエピソードで紹介されます。その第一は、彼のルダ訪問でした。ルダはエルサレムの北西35kmにある小さな町です(地図参照)。そこにも「聖徒たち」がおりました。おそらく、エルサレムにおける迫害を逃れたクリスチャンが核になっていたと思われます。そこにペテロの巡回が及びました。

 
2.アイネヤの癒しとその波紋(33−35節)
 
 
ルダには、8年間中風を病んで、寝たままだったアイネヤという男がおりました。ペテロは彼の信仰による立ち上がりを促し、アイネヤは癒されました。その後アイネヤは、その周辺教会の指導者となったと思われます。
 
C.ペテロのヨッパ訪問(36−43節)
 
 
「36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。 37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。 38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、『すぐに来てください。』と頼んだ。 39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。 40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、『タビタ。起きなさい。』と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。 41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。 42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。 43 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。」
 
1.タビタの良き業(36節)
 
 
ペテロの働きのエピソードがもう一つ紹介されます。それは、タビタの復活です。タビタ(ギリシャ語ではドルカス=鹿)という女弟子がヨッパにいました。ヨッパとは、昔ヨナがタルシシュに向けて船出した港町で、ルダからは更に北西15kmの所にあります。そこにもクリスチャンの群れが存在していました。一説では、そこのユダヤ人の半数がクリスチャンになっていたといわれています。その中で、タビタは多くの人々を助けるボランティア活動に励んでいました。39節に示唆されているように、上着、下着を縫い上げては、貧しい人々、特に、寡婦さんたちに差し上げていたと思われます。中目黒教会婦人会でドルカス活動という支援的な働きがありますが、その名前の由来がこのタビタ(ドルカス)です。
 
2.タビタの死とペテロへの知らせ(37−39節)
 
 
そのタビタが、病に倒れ、亡くなってしまいます。病の床に着いてからも、最期までボランティア活動に励んでいたのでしょう。彼女の死は、多くの友達の悲しみを誘いました。その友達が、ペテロが近くのルダまで来ていることを聞きつけて、ペテロの来訪を求めます。ペテロを通してなされる奇跡の数々を聞いていたからなのでしょう。彼女の死を悼んで集まってきたのは、タビタの慈善活動の恩恵を受けた人々でした。
 
3.タビタの復活とその反響(40−42節)
 
 
ペテロは、タビタの復活を祈り、その祈りが応えられます。丁度主イエスがラザロを生き返らせなさったのと同じような奇跡です。当然ながら、その出来事が大きな反響を呼びました。多くの人がそれを通して主イエスを信じるようになりました。
 
4.ペテロのヨッパ滞在(43節)
 
 
この出来事の故に、ペテロは暫くヨッパの皮なめし業のシモンの家に滞在することとなるのですが、それが実は、10章にしるされたようなコルネリオの救いの伏線となるのですが、それは次回の楽しみと致します。
 
終わりに:聖霊の励ましをいただいて前進しよう
 
 
教団は、主の豊かなご臨在と語り掛けを頂いて、年会を終えたところです。年会においては、聖霊に満たされた説教者たちを通して多くの聖霊の励ましをいただきました。藤本代表はヨハネ13章から「互いの足を洗い合う恵み」と題して、恥ずかしい部分、汚れた部分を主によって洗っていただく恵み、同時に、信仰者同士が恥ずかしい部分も含めて互いに足を洗うだけでなく、洗っていただく恵みが語られました。ライアン博士はヨハネ14章から「更に大いなる業」をする可能性が弟子たちに与えられていることから、大きな励ましをいただきました。朝比奈先生はヨハネ21章から「新しい神体験」と題して、キリストの愛を新鮮な気持ちで触れる恵みを語られました。私自身も大きな励ましを頂きましたし、これらのメッセージは群れに対する励ましでもありました。今年度も、聖霊に満ちた説教者を通して与えられる励ましをしっかり受け止め、前進いたしましょう。
 
お祈りを致します。