礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年4月6日
 
「仕え尽くし、与え尽くす」
受難節に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書 20章17-28節
 
 
[中心聖句]
 
  28   人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
(マタイ 20章28節)


 
聖書テキスト
 
 
17 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。18 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。21 イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」24 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
 
はじめに
 
 
カレンダーの都合で、今年の受難週・イースターは例年より遅くやってきます。来週が受難週の始まりの棕櫚聖日、再来週がイースターです。この間「使徒の働き」連講を暫くお休みして、主の受難に関する思い巡らしをさせていただきたいと思います。
 
A.主イエスの嘆息
 
1.十字架の告知(17-19節)
 
 
「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』」
 

・エリコからエルサレムへ最後の旅:
マタイ20章は、主イエスの地上生涯における最後のエルサレム行きの物語です。最後の中継地点であるエリコからエルサレムまで、直線距離にすると25kmほどですが、高低差にすると1000m前後を登りに登っての旅となります。

・12弟子だけに重大な告知:
その途中で主は、差し迫っている十字架について、大勢のサポーターを外して、12弟子だけを呼び寄せて予告をなさいました。今までも受難についての言及はありましたし、十字架について比ゆ的に語られたことはありましたが、ご自分が文字通り「十字架刑にかかること」を明言されたのは、これが初めてです。事態の深刻さが伺われます。

・告知内容は:
・(ユダの裏切りによって)祭司長、律法学者たちに引き渡され、
・(議会において)死刑に定められ
・(兵士や群衆によって)あざけられ、むち打たれ、
・(ピラトなどの)異邦人に引き渡され
・(最も酷い刑罰として)十字架につけられること
の五点です。今までの受難告知に比べると、非常に具体的であることが特徴です。特に異邦人への言及、十字架刑への言及が、これから直面する事態が容易でないことを物語っています。しかし、残念な事に、並行的に記録されているルカ伝の記事によりますと、弟子達は「これらのことが何一つわからなかった」(ルカ18:34)のです。
 
2.ゼベダイの子らの利己的リクエスト(20-21節)
 
 
「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、『どんな願いですか。』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」
 
・“KY”の弟子たち:
弟子たちは、こんな深刻な主イエスの受難予告がなされたにも拘らず、主が持っておられた切迫感に対して全く鈍感であっただけでなく、他の関心事についての議論にうつつを抜かしておりました。それはお互いの間での優劣争い、権力闘争でありました。

・その中でも“超KY”なヤコブとヨハネとサロメ:
その典型が、ヤコブとヨハネ、そしてその母のリクエストです。ヤコブとヨハネは、そのお母さん(サロメと言って、イエス様と親戚筋に当たります。言わばそのママゴンお母さん)に自分たちの願望を代弁してもらいました。

・そのリクエスト:
神の国で、一人を右大臣、もう一人を左大臣に!=「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右大臣に、ひとりは左大臣にすわれるようにおことばを下さい。」。誠に自己中心的で、他の人のことを考慮に入れないリクエストでした。イエス様だけではなく、他の十弟子の立場も考えていません。実際、この二人は、ずっと以前から大切な時にペテロと共に「特別な三人組」として、主イエスに用いられていたのです。彼らは、三人のうちの二人という立場でも満足せず、ペテロを外して二人の地位を高いものに固定したいという「ペテロ外し」的な主張をしたのです。「あなたの御国で」と言うことで何を意味していたのでしょうか。やがての日(来世)のことなのでしょうか。それとも、現世的なものなのでしょうか。私は恐らく後者であろうと見ています。神の国が、現実政治の中に顕れる、その支配者がイエス様だと思ったのでしょう。神の国に対する何という認識不足でありましょうか。
 
3.主イエスの質問と示唆(22―23節)
 
 
「けれども、イエスは答えて言われた。『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。』彼らは『できます。』と言った。イエスは言われた。『あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。』」
 
・「私の苦い杯、受けるべきバプテスマを受けられるか?」:
主イエスは、ため息をつきながら尋ねられました。「あなた方は見当違いのリクエストをしていますよ。私が十字架の上で飲もうとする苦い杯を一緒に飲む準備がありますか。私が受けようとしている苦しみというバプテスマを一緒に潜り抜ける積もりがありますか。」聖書では、杯は苦難を表わし、神の怒りを耐え忍ぶことの象徴でした(イザヤ51:17)。バプテスマも、試練や困難と言う大水というイメージで語られていました(詩篇69:15)。

・二人の楽天的答え:
「できます。」= ヤコブとヨハネはこの主イエスの質問の意味をどこまで理解したのでしょうね。彼らは「できます。」と言いました。苦い杯の内容とバプテスマの厳しさを本当に理解したならば、そう簡単に「できます。」とは言えないはずなのですが、安請け合いをするところが未熟というか、信用できないと言うか、困ったものです。つまり、彼等は主のみ苦しみの内容について無知でした。自分達の弱さにも気がついていませんでした。

・主のコメント:
「報いを決めなさるのは神のみ」=それに対するイエスの答えが記されています。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」困難に直面し、取り組むのは人間のなすべき責務である、しかし、その報いを決めるのは人間の業ではなく、神の業である、と言うことが、主のお答えの趣旨です。
 
4.十弟子の立腹(24節):二人の無理解よりも、出し抜かれたことに対して
 
 
「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」
 
十人の弟子が腹を立てたのは、ヤコブとヨハネがイエス様のお気持ちを理解しないようなリクエストをしたからではなく、自分達が出し抜かれたからでした。つまり、十弟子の立腹は、この十弟子もヤコブとヨハネと同じ土俵にあることを露呈してしまった訳です。
 
B.主イエスの教え
 
1.権力指向を捨てよ(25-26節a)
 
 
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。』」
 
・異邦人の癒しがたい性向は権力志向:
弟子たちのこのような態度を見て、主イエスが更に悲しまれたのは当然です。そこで主はもう一度彼らを呼び寄せて、大切な真理を語られました。それが今日のポイントです。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」「異邦人の」と言う言葉で、神を知らず、畏れない世間一般のあり方を描写されます。一言で言えば、癒しがたい権力指向です。この場合の「権力をふるう」とは、「カタキュリエウオー」(主として振る舞う)ということです。何かの力によって他人を動かす原理のことです。人は動かされるよりも動かすこと、支配されることよりも支配することを好みます。誰が優位に立つかを巡っての権力闘争が起きるわけです。

・神を知る人々は、全く違う思考を持つべき:
しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない、つまり、このような権力指向が教会内に持ち込まれてはならない、絶対にノーだと断言されます。主は、世の政治原理が教会に入り込んではいけないと、きっぱりと言明されます。
 
2.徹底的に仕えよ(26節b−27節)
 
 
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」  
 
・仕える者(自発的に他人の下に立って助ける者)となれ:
仕える姿勢とは、権力志向の真反対の姿勢です。英語で大臣の事をミニスターと言います。仕える者という意味です。でも大臣はその本来の意味から離れて、偉い人となっています。主はここで、偉い大臣としてのミニスターではなく、本当のミニスター(仕える者)となりなさいと語っておられます。仕える者(ディアコノス)とは、その働きに関して、他人の下に立って助ける者のことです。

・しもべ(敢えて、束縛される立場で他人の下に立つ者)となれ:
しもべ(ドュウロス)とは、束縛された立場で人の下にあって助ける者のことです。どっちの立場にせよ、誰でも、仕えること、しもべになることは嫌です。仕えられる方が遙かに気持ちが良いのです。これが人情です。それを知りながら、敢えて仕えよ、しもべになれ、と主は語られます。何かが起きなければ、これは不可能です。

・それが本当の「偉さ」(立場の偉さではなく、神の前の価値高さ)である:
「偉くなりたいと思う者は」「人の先に立ちたいと思う者は」という言い方を誤解しないでください。教会で高い地位というものがあるかどうかは別として、責任ある立場というものは存在します。その責任ある立場を「偉い」と仮定して、その立場を得るために、艱難辛苦して、謙れと語っておられるのではないのです。偉いとは、本質的な、神に喜ばれる人、神に高い評価を受ける人と言う意味です。そのような者となりたければ、人に仕えるものとなりなさい、僕になりなさい、と主は語られます。
 
3.仕えつくし、与えつくす生涯を(28節)
 
 
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
 
・主イエスは、仕える立場に立つために地上に来られた:
主は、ご自分の立場を仕える者の例として紹介されます。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」イエスご自身、神の形であり、神の栄光を持っておられたのに、人の形を取り、卑しい生まれと貧しい育ちをなさいました。先生と呼ばれる方なのに、弟子達の足を洗われました。

・「贖いの代価」(罪から釈放するための身代金)として命を捨てた:
そして、最後には私達の罪の刑罰を一身に引き受けて十字架にかかり、命を投げ出してくださいました(イザヤ53:11-12)。「贖いの代価」とは、人質的な状況にあるものを釈放するための身代金のことです。主は、ご自分の命を、罪のために束縛されている私たちを釈放する身代金として、十字架でお捨てになりました。先に主は(17−19節で)、ご自分が「祭司長、律法学者たちに引き渡され、死刑に定められ、あざけられ、むち打たれ、異邦人に引き渡され、十字架につけられる」と、非常に受身的にご受難を予告されました。しかしここでは、その受難が自発的なこと、目的をもっての自己犠牲であることを明かされます。それは、愛のゆえに仕える姿勢の究極、つまり、自発的に命を捨てることでありました。

・私たちも、その愛にほだされて命を捨てることができる(1ヨハネ3:16):
キリストのその犠牲的愛、その謙りの姿勢に、あなた方も倣うようにと語っておられます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)キリストの愛が分かったその時、私達は本当に砕かれ、溶かされ、自然に仕えることが出来、与えることが出来るのです。
 
終わりに:仕えるとは、何をすることなのか、考えよう
 
 
来週から受難週に入ります。この節期、主イエスの仕える姿勢に倣って、周りの方々に仕えるという姿勢をもって接したいものです。実際問題としては、そう易しくはありません。こちらが仕えようとすると、相手側はそれを良いことにして、つけ上がったり、却って邪険にするかも知れません。どのような言動を取るかについては、本当の知恵を要する課題とは思いますが、心においては、すべての人に仕えるという姿勢をもって接したいものです。目上の人、目下の人、優しい人、横暴な人、皆に対してそうしたいものです。

さらに、主が与えることに徹して、一番良いもの、つまりご自分の命を、惜しむことなく、保留することなく、喜んで明け渡してくださったように、私達も兄弟達の為に、おのが身を捨てて仕える者でありたいと思います。本当に兄弟のために己を捨てられるのは、己を十字架につけたものだけです。私達は自分を主と共に十字架に釘付けしましたか。彼と共に死んだ者と自分を考えていますか。それが聖化の経験です。主に明け渡しましょう。
 
お祈りを致します。