礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年4月13日
 
「キリストの辱めを負って」
受難節に入る
 
竿代 照夫 牧師
 
ヘブル人への手紙 13章7-13節
 
 
[中心聖句]
 
  12,13   イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
(へブル 13章12-13節)


 
聖書テキスト
 
 
7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。9 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。10 私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
 
はじめに
 
 
パームサンデーの今日から始まる受難週を、世界中の諸聖徒たちと共に、意義深くまた、祈り深く過ごしたいと思います。今日のテキストとしてヘブル書の一文節を取り上げました。へブル書は、この三か月ほど、聖別会で取り上げたところですので、多くの方にはなじみ深い手紙であろうかと思います。
 
1.へブル書概観
 
 
へブル書については、以下のポイントを押さえておく必要があろうと思います。

・宛先:ヘブル人(ユダヤ人)クリスチャン

・目的:同胞からの迫害と棄教への圧力に耐えるように励ますこと=ユダヤ人の社会にしっかり根付いていたユダヤ教から、主イエスに対する信仰を捨ててユダヤ教に戻るようにという絶えざる迫害と圧力を感じていたユダヤ人クリスチャンたちに対して、キリストの救いの優越性を説き、彼らの信仰を励ますこと

・著者:不明、しかし、パウロの同労者で、同じ思想を持った人

・著作年代:AD60年代

・内容:キリストの卓越性=キリストが神であること、人となって大祭司の務めを果たしたこと、完全な救いを成し遂げたことを論理的に弁証している
 
2.13章の内容:へブル書全体の纏めと愛の実践の勧告
 
 
手紙の最終章として、今まで述べたことを纏め、また、キリスト教的愛の実践を促しています。今日のテキストである7−13節を私なりの注釈を入れながらお話し口調で読んで見ましょう。

・7節:
「指導者たちの模範に倣え」=教会が30年前に誕生して以来、あなたがたに福音を説き、あなたがたを導いた指導者たち、例えば、最初の殉教者ステパノ、12弟子で一番早く殉教したヤコブその他の人々をよく思い出しなさい。彼らの生涯の結末が、どんなに栄光に満ちたものであったかを良く知っているはずですね。その信仰に倣ってください。死に至るまでキリストに従い続けた彼らの模範に倣って、かりそめにも、今の信仰を捨てる気持ちなどを起こさないでください。

・8節:
「変わり給わない主イエスを見つめよ」=数多くの素晴らしい指導者が居ましたが、その中でも、本当の指導者は主イエスです。主イエスは、十字架で死にましたが甦って私たちと共に歩んでいてくださいます。そのようなお方として、過去の生涯を支えてくださったでしょう。そのご臨在は今も変わりません。そして、永遠まで私たちの救い主であり続けてくださいます。

・9節:
「律法ではなく、恵みに生きよ」=さまざまの異なった教え、特にあなたがたの友達や親族の多くが従っているユダヤ教の決まり事や教えに戻ろうとする誘惑に勝ってください。今まであなたがたが縛られてきた食べ物に関する細かい規定を守ることが救いだというような、本質的でない議論に振り回されてはいけません。私たちクリスチャンのよりどころは、神の恵み、これだけなのです。それに寄りすがっていきなさい。恵みによる自由を、律法主義によって曲げてはいけません。

・10節:
「聖餐はクリスチャンの祭壇」=さて、思い出してください。私たちクリスチャンは、主イエスの死を記念する聖餐式を行っていますね。それを「クリスチャンの祭壇」と呼ぶことができます。旧約聖書の決まりによれば、生贄を焼き尽くす全焼の供え物の場合には、祭壇の奉仕者も、また民衆も、その食物に与かることはありませんでした。<しかし、クリスチャンは、最も重要な供え物を象徴する聖餐式には、誰彼の隔てなく与かることができます。>

・11節:
「生贄制度における、血と体の扱いの違い」=特に10月の贖罪の日の生贄では、祭司のために屠られる牛、民のために屠られる山羊の血は、罪のための供え物として、大きなお皿のようなものに入れられ、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、牛や山羊のからだは宿営の外で焼かれるという習慣を良く知っているでしょう? それは、全焼の生贄によって、贖いが完全になされるという真理の象徴だからなのです。

・12節:
「キリストは門の外で苦しまれた。その血は完全な聖化を齎す」=年に一度の贖いの日でも、そのようになされるのだったら、歴史始まって以来初めてであり、終わりである完全な贖いが成就した十字架の日には、それと同じ重さをもって生贄がなされたのは当然です。キリストは、宿営の外、(この場合はエルサレムの門外で)苦しみを受け、完全な贖いを成し遂げられました。「ご自分の血によって民を聖なるものとするために」とあるのは、旧約時代の形式的な聖化のことではなく、信じる者を腹の底からきよめる徹底的な聖化の業の為でした。その御業のために主は、宿営の外で徹底的な肉体の苦痛を受け、そのしるしである血潮をもって、私たちを清めなさるのです(1ヨハネ1:7)。

・13節:
「キリストの辱めを身に負う恵み」=キリストがエルサレムの門外で、はずかしめを身に負って、十字架につけられたわけなのですから、私たちも、ユダヤ教とその制度という宿営から思い切って飛び出して、イエス様だけに従っていく、クリスチャンとしての旗色を鮮明にしましょう。それによって、今までの友達や親戚からはアウトカーストと見なされることがあるかもしれません。しかし、そのような時にこそ、キリストは私たちを見捨てず、離れないお方です。
 
3.キリストの辱めを身に負う
 
 
今日は、特に13節の「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こう」との勧めを私たちへのものとしていただきたいと思います。

・「はずかしめを身に負って」:
十字架の苦難=これは、当然悪いことをして辱められる辱めとは違います。ペテロは主イエスの十字架の苦難を思い返しながらこう言っています。「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。・・・キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(1ペテロ2:20−24)
パウロもまた、信仰者が信仰をもって歩もうとすれば必ず迫害に遭うことを宣言しています。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)特に異教的な社会に取り囲まれている日本人クリスチャンは、へブル書読者と似た環境にあって日々の戦いにあります。今NHKの大河ドラマの主人公になっている黒田官兵衛は、キリシタンでしたが、秀吉・家康と続くキリシタン禁制の締め付けによって、それを余り公にできなかった、しかし、蔭では宣教師を助けたとの記述があります。この官兵衛をキリシタンに導いた高山右近は、人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなりました。蒲生氏郷もそのひとりです。細川忠興・前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的でした。秀吉がバテレン追放令を施行したとき、秀吉は、茶道の師匠である千利休を遣わして棄教を促したが、主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士であると答え、利休に説得を諦めさせたというエピソードが残っています。右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を捨てることを選び、世間を驚かせました。関ヶ原の後、家康によるキリシタン国外追放令を受けて、マニラに送られる船に乗り、マニラに到着してまもなく病を得て64歳で召天しました。こうした400年前の出来事を長く話してしまいましたが、キリスト教への圧迫は形を変えて今でも日本社会には生き続けて居ることを感じます。信仰をもって社会に生きようとするとき、必ず、私たちは「キリストの辱めを身に負う」経験にぶつかります。どうか、たじろがないで、それにぶつかっていく力を祈りましょう。

・「宿営の外に出て」:
ノーをノーと言う勇気を持とう=私たちが敢えて世離れした生き方をすべきというのではなく、妥協を許されない場合においてしっかりノーをノーという勇気を持ちましょう。

・「みもとに行こう」:
主の足跡に倣おう=主イエスに従う道を選びましょう。主イエスのために苦しみ、十字架を担う時、主の心をより近く感じることができるのです。
 
4.「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
 
 
主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)と仰いました。イエスは、彼らが自分に従うことは、あくまでも自発的行為であるが、そのような願いを持つならば、次の事は覚悟しなさいよ、と釘を差すように語られます。次の事とは以下の三つです。

・自分を捨てる:
自分を捨てるとは、自分が自分であることを放棄するのではありません。もちろん、自分の命を絶つことでもありません。主が私達の為にご自分の神である立場と特権とを放棄して、人間の姿を取り、しかも僕のように仕えるものとなって下さったと同じように、私達も自分の権利、名誉、計画、プライドを神の国の為に喜んで捨てる用意を言い表すことを意味しています。今の仕事も、財産も、立場も皆一遍に捨てよというのではありません。それら全てはご入り用とあれば皆放棄します、それ程私はあなたに傾倒しています、と告白するのが大切です。

・自分の十字架を取る:
自分の十字架を取ることとは、恥ずかしめと苦しみと痛みと虐げの象徴でした。今でこそ、十字架のアクセサリーがファッションですが、当時はそんなものではありませんでした。まして十字架を誇るなどと言う思想は生まれるはずもない、という雰囲気でした。十字架は、先ず、主イエスご自身が担われました。イエスご自身が先ず十字架を背負って、その重さ、痛さ、辛さを嘗め尽くした者として、私達に十字架を担いなさいと語っておられます。私達にとっての十字架とは、主のための辱め、苦しみ、悩みを自発的に負うということを意味しています。具体的には、イエス様を証しするときに受ける人々の嘲り、正しいことを貫こうとして受ける迫害、他の方の救いのために必要な労苦と犠牲といったものが含まれています。イエス様の十字架が人類の救いの道となったように、私達も誰かの救いのために時間、労苦、誇りを犠牲にしなければならないのです。バックストン宣教師は路傍伝道しても人が集まらないので、缶からに紐を付けて引きずって歩いたといわれています。珍しがって集まってくる人にキリストの福音を伝えました。私は、イギリスに行ってバックストン家の館を見て改めて感心しました。彼は、ものすごいお金持ちの貴族の出身であるにも拘らず、チンドン屋のまねをしても福音を伝えようとしたのです。形は決められませんが、それぞれが自分に合った十字架を選び取り、担うのです。

・キリストの後に付いて行くとは
キリストの後に付いて行くとは、キリストにくっついて行くこと、毎日毎日、主イエスの足跡を辿り、その生き方に従って行く生き様を語っています。
 
終わりに:十字架を担う光栄
 
 
神は活きておられ、見ておられ、神のための真実な労苦、犠牲に必ず報いなさいます。この信仰が無ければ、クリスチャン生活は敗北に終わってしまうことでしょう。主が十字架の後に復活という大きな栄光を得られたように、私達も十字架を担うときにのみ与えられる主の報いと栄光を持つのです。No cross, no crown という諺があります。十字架なくして栄冠なしです。その栄光の冠を主と共に受けるのです。ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)で、イエスと共に十字架を担いだクレネのシモンが、イエスの心臓の鼓動を近く聞き、イエスの心を理解したように、私たちも主の辱めを身に負う時、主と近く歩むことができるのです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(12:2)
 
お祈りを致します。