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聖書テキスト |
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20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 |
23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。26 最後の敵である死も滅ぼされます。 |
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はじめに |
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イースターおめでとうございます。全世界の主にある兄弟姉妹と共に、私たちの主キリストの復活を祝います。同時に、この中目黒教会にとっては召天者記念礼拝でもあります。ありし日のお友達・先輩方の面影を偲び、天国での再会を待ち望みたいと思います。 |
今日は、復活の章として知られている1コリント15章を選びました。特にその20節に焦点を当てたいと思います。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」 |
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1.キリストの復活は事実:特に多くの確かな証言が裏付け |
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「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」の「しかし」とは、コリント教会の一部で言われていた「死者の復活はない」という考えへの応答です。「復活が無かったら」とは全くの仮定であって、実際をいうと、キリストは本当に甦られたという「しかし」です。この事は疑いもない圧倒的な証拠によって、明らかとパウロは言います。パウロはそのいくつかの証拠をこの章で掲げていますが、何よりも説得的なのは、キリストの復活を見た5百人以上の人々の内、多くのものがまだ現存していて、証人台に立って証言する用意があるという発言(15:6)です。この手紙の書かれたのはAD55年ころ、つまり、キリストの十字架と復活の25年後のことです。この手紙はコリントという町の教会にあてて書かれたいわば公開書簡ですから、反論しようと思えば誰でも反論できたはずです。つまり今でいえばマスメデイア向けに、キリストが復活したと宣言しているのですから、堂々たるものです。キリストは復活された、それは、弟子たちの思い込みでもなく、ねつ造した話でもなく、精神的な復活を言っているのでもなく、まごうかたなき事実でした。少なくともそれが彼等の信仰の原点でした。さて、キリスト復活の事実性については、この手紙の受け取り手であるコリント信徒たちも同意して居ました。ただ、彼らはこう考えていたのです。キリストは特別な存在だから復活しても不思議はない、しかし、私達は普通の人間なのだから、復活など望めない、と。そこでパウロは、キリストと私たちは生命的に繋がっているのだ、というのがこの文章の強調点なのです。 |
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2.キリストは、私たちの復活の「初穂」(イラスト@) |
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キリストの命と私たちの命が繋がっている、ということをパウロは農業の喩えで説明します。キリストは私たちの初穂なのだ、と。さて、旧約聖書において、初穂とは収穫物の初物という以上に特別な意味を持っていました。 |
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・これからの多くの収穫の期待: 初穂とは、春の先駆けとして(5月ごろ)大麦の刈り入れが行われますが、その最初の収穫が「初穂の祝」の時に祭司によって捧げられました。レビ記を見ると、「あなたがたが・・・収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。・・・あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。」(23:10、11、14)と決められています。初穂というのは、珍しい初物という以上に、それを主に捧げるまでは誰も味わってはいけないという程、人々の「期待をそそる」収穫物でした。初穂が捧げられれば、これから多くの収穫が期待でき、それは喜ばれるべきものでした。キリストの復活は、それに続く私達の復活の先駆けであり、期待を膨らませるものであったとパウロは言うのです。 |
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・これからの収穫物のきよめ: もう一つ、初穂が捧げられると、残りの収穫物全体が聖いものとして捧げられることを意味していました。私たちはキリストという初穂に結びつくことによって聖くされているのです。 |
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3.キリストによってすべての人が生かされる(イラストA) |
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パウロは、私たちとキリストとの繋がりについて、もう一つ別な言い方をします。「死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」 |
・アダムによって、罪と死が世に入ってきた: 人祖アダムが罪を犯し、その結果死が全世界に及んだ(というのは罪が全世界に及んだから)ということになります。アダムは、すべての人間の祖先として私たちとつながりを持っているからです。 |
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・(第二のアダム)キリストによって、義と命が世に入ってきた: アダムに対比して、キリストは新しい人類の祖先となってくださった。第二のアダムであるキリストが義の行いをし、その十字架によって多くの人を義とし、その結果命も全てに及んだということになります。私たちはキリストに繋がることによって彼が成し遂げた罪の赦しを体験し、そして、永遠に生きる者となるのです。 |
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4.復活の順序(23ー28) |
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キリストが私たちにとって初穂である、と仮定すると、その復活はどんなプロセスで起きるのでしょうか。パウロは言います。「しかし、おのおのにその順番があります。」 |
・キリストご自身の復活: まず初穂であるキリストが復活しました。これはすでに起きている出来事です。 |
・キリストに属している者の復活: 次に起きるのは、私たちの復活です。その模様についてパウロは別な手紙でこう述べています。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです・・・主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4:13、16―17)これこそが私たちの望みであり、慰めです。この日を待ち望んでいるからこそ、現実には様々な苦労があり、悲しみがあっても、それを乗り越えることができるのです。 |
・キリストによる完全な権力の掌握: 「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。」(24−25節)現実政治の中では、理解しがたいような不条理がまかり通っています。世界においても、実際に大きな顔をしてのさばっているのは、ガキ大将のような国々です。何時までこれが続くのでしょうか。永遠ではありません。平和の君、キリストが支配し給う国が、私たちには間近に約束されているのです。 |
・「死」そのものの滅亡: 「最後の敵である死も滅ぼされます。」(26節)全ての敵の中に敵の中の敵、死が滅ぼされます。死の刺は既に抜かれているが(55節)、それでも死の齎す痛みは大きいのです。死は、痛みと悲しみを伴っています。しかし、死そのものが、全く滅ぼされる時が来るのです。「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(黙示録20:14)何という大きな輝かしい望みでありましょうか。 |
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おわりに:復活を望みつつ人生を送ろう。 |
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キリスト復活のこの日、キリストの次の言葉をもって説教を締めくくります。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25) |
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