礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年5月4日
 
「狭い心が砕かれて」
使徒の働き連講(28)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 10章9-24節
 
 
[中心聖句]
 
  15   神がきよめた物を聖くないと言ってはならない。
(使徒の働き 10章15節)


 
聖書テキスト
 
 
9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。 10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」21 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」22 すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」23 それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。24 その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。
 
10章のテーマ:福音を異邦人に伝達
 
 
・受け取る側の準備:
使徒の働き10章の大きなテーマは、「異邦人に福音が伝えられたこと」です。その異邦人の代表がコルネリオで、福音を届ける代表がペテロです。前回は、コルネリオの心の準備を神がなさったことをお話ししました。(イラスト@参照)

・伝える側の準備:
今回は、ペテロの心が準備されたことを学びます(イラストA参照)。実はこちらの方がより難しい課題でした。というのは、ペテロは普通のユダヤ人が共通して持っている「狭い心」に支配されていたからです。詳しく言うと、旧約聖書の儀式的な決まり事をきちんと守っていたことがその理由です。ユダヤ人は、割礼という通過儀礼、結婚や性に関する厳しい道徳的規定、安息日などの暦に関する規定、衛生上に守るべき規定などなどたくさんの決め事を守っていました。そして、それらは、彼らが神に選ばれた民としての意識と道徳的水準を保つために必要な規定でした。しかし、それが、いつの間にか自分たちの民族的な優越意識となり、他民族を卑下し、他民族との交わりを妨げる障害となってしまったのです。キリストの福音がすべての人に宣べ伝えられ、救われたものが同じ信仰者として交わるために、このユダヤ人の選民意識、人種的・文化的偏見が妨げだったのです。もちろん、ペンテコステ経験を通してペテロのこの狭い心は大分除かれていましたが、それでも、平均的ユダヤ人として、ペテロは異邦人への偏見は未だ強く持っていました。

 
A.ペテロ、不思議な幻を見る(9−16節)
 
 
9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと幻ごこちになった。11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
 
1.コルネリオの使者の旅(地図参照)
 
 
使徒ペテロを招くためにコルネリオから派遣された家僕と従卒が、カイザリヤから南のヨッパまで約50kmほどの距離を旅行していた時のことです。

 
2.ペテロの祈りの時
 
 
さて、地中海沿岸の港町であるヨッパには、エルサレム教会の指導者であるペテロが滞在していました。彼は、町はずれで皮なめしを生業にしているシモンの家に居候して居たのです。前回もお話ししましたように、彼は、ユダヤ教の慣習をしっかり守っていました。朝の9時、正午、午後の3時というエルサレム神殿の供え物を捧げる時間に合わせて、祈りを捧げるのでした。そのためにペテロは屋上に上って祈りを捧げていました。お昼も近づいてきましたのでお腹も空き、「お祈り」が「おいねり」に変わってしまいました。皆さんも経験がおありと思います。ペテロを責めることはできませんね。
 
3.不思議な幻(イラストB参照)
 
 
その「おいねり」の中でペテロは幻を見ました。シモンの家の一階からはおいしそうなお昼ご飯を用意している匂いが上ってきますから、食べ物の幻を見るのは当然と言えば当然です。しかし、その内容な奇妙なものでした。天が開けて、大きなシーツのような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来たのです。その中には、地上のあらゆる種類の「四つ足の動物」、この場合は、ユダヤ人が食べてはいけないと規定されている豚やウサギ、ラクダ、岩だぬき(ハイラックス)、キリン、しまうま、などが入っていたことでしょう。また、「はうもの」としては、蛇、トカゲ、カエル、また、「空の鳥」としては禿鷹、ハゲワシ、トンビ、烏、ダチョウ、フクロウ、ペリカン、コウノトリなどがいっぱい詰まっていました。

 
4.天からの声:「神がきよめた物を、聖くないと言ってはならない。」
 
 
不思議なものを見て度肝を抜かれたペテロに声が聞こえてきました。「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」それが、主の声であることを悟ったペテロでしたが、反論しました。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(これからも、食べる気はありません。)」ペテロはまじめなユダヤ人でしたから、レビ記11章の禁忌リストをしっかりと教え込まれ、守っていました。このリストは、今でも正統的なユダヤ人、イスラム教徒によって厳しく守られています。そのペテロに対して、天からの声は革命的でした。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」そして、それは三回繰り返されたというのです。つまり、ペテロが一時的に何かを聞いたというよりも、神からの大切なメッセージとして受け取りなさい、という明らかな語り掛けだったのです。
 
5.メッセージの意味
 
 
天からの声は、ペテロに革命的な変化を迫るものでした。何の革命でしょうか?

@偏見を打破せよ(マルコ7:15、使徒10:28−29、エペソ2:14−16):
これは、今まで嫌いだった食べ物を、好き嫌い無しに食べなさいという食生活の問題以上の意味が含まれていました。先ほど述べましたように、ユダヤ人は、食べ物の規定以外に沢山の禁忌をもっており、そこから発生した民族的な優越意識、他民族への蔑視と偏見を強く持っていました。「神がきよめたものを聖くないと言ってはならない。」という神の語り掛けは、その偏見を砕く必要を語っています。実は、ペテロが主イエスと行動を共にしていたころ、食べ物が聖いか聖くないかという同じ課題について、主イエスがこう語られたのを聞いていたはずです。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)ペテロは、この主イエスの言葉をすっかり忘れてしまっていたのでしょうか? でも、この神の言葉が繰り返されたことで、ペテロの偏見が除かれました。幻を見た3日後にカイザリヤを訪問するのですが、その時こう言っています。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。」(28−29節)逆に言えば、ペテロがこの幻を見なかったとしたら、コルネリオの招待を断った可能性が大きかったことを示します。この出来事から約15年後に書かれたパウロの手紙は、キリストの十字架こそがその偏見を砕くものであると述べています。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14−16)

A救いの深さと広さを捉えよ(15:8−9):
「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない。」という宣言は、私たちの狭い人種的偏見を砕くだけではなく、神の救いの御業の深さ、広さ、完全さの宣言でもあります。ペテロは、後になってコルネリオの出来事を振り返り、こうコメントしています。「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(15:8−9)
 
6.現代の「差別」問題
 
 
ペテロが持っていた人種偏見と差別観は、21世紀の現代でも、厳然と存在しているだけでなく、世界のあらゆる紛争の根源となっています。今、大きな危機を齎しているウクライナ問題の根もここにあります。アメリカのプロ・バスケットチームのオーナーが人種差別発言をしたとかで、選手たちが全員ユニフォームを裏返しに着て無言の抗議をしたことが先週報じられていました。日本のサッカーチームのサポーターが“Japanese only”という非常識な垂れ幕を掲げて、そのチームの試合が無観客試合にさせられるという懲罰を受けました。いわゆるヘイトスピーチが仲良くなるべき隣の民族との間に起きていて心の痛いことです。これらすべての根っこにエスノセントリズム(自民族中心主義)があります。これを砕くのは、すべての人を限りなく受け入れ、すべての人に同じ条件で救いを提供するキリストの福音以外に考えられません。
 
B.ペテロ、幻の目的を悟る(17−24節)
 
 
17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」21 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」22 すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」
 
1.コルネリオの使者の到着
 
 
さて、ペテロの物語に戻ります。ペテロは、自分のみた幻の意味するものを恐らく悟ったことでしょうが、それをどう現実と結びつけて良いか分からず、訝ったままでした。そこにコルネリオからの使者が到着しました。ペテロが屋上で思い巡らしている最中に、階下での会話が聞こえてきたのです。「もしもし、この家に、ペテロと呼ばれる方がお出ででしょうか?」「そういう皆さんはどなたですか?」ことばの訛りから、客は外国人であることがすぐに分かりました。
 
2.聖霊の語り掛け
 
 
この会話の最中に、ペテロは聖霊のささやきを聞きます。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」ペテロは、最前に見た幻が、外国人を差別してはいけないという神のお告げであったことを悟るのです。
 
3.使者の伝言
 
 
ペテロは迷うことなく階段を下りて自己紹介をします。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」客人も自己紹介して用件を述べます。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」
 
4.ペテロ、コルネリオを訪ねる
 
 
ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせました。これも驚くべき行動です。ユダヤ人にとって、外国人を招いて泊まらせ、食事を共にすることは、考えられないことだったからです。教会において、ユダヤ人と異邦人との間の交流が始まる前に、聖い食物と聖くない食物との区別が廃止されねばなりませんでした。

そしてその翌日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけました。ヨッパの兄弟たちも数人(使徒11:12には「6人」と記されている)同行しました。二日の道程で、彼らはカイザリヤに着きました。ペテロを待ちかねていたコルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、家庭集会を開きます。驚くべきことがこの後に起きるのですが、今日はここで止めます。
 
おわりに:神の基準と判断に対して謙虚であろう
 
 
「神がきよめた物を、(人が)聖くないと言ってはならない。」という言葉の重みを考えましょう。私たちも、気づかないうちに、自分の判断や基準を正しいものと信じて行動したり、発言してしまうことが多いと思います。その判断が自分の過去の経験や常識や世間的な正しさに基づくものであったり、はたまた、聖書がこう言っているからという自分なりの捉え方に基づいて、活ける神ご自身のみ思いを見失ってしまうことがないだろうかと反省をさせられます。「神が<きよめた>ものを、

<聖くない>と言ってはならない」という言葉の<>の中に、色々なものを当てはめてみましょう。例えば「神が<赦した>者を、<赦されていない>と言ってはならない」とか、「神が<愛して受け入れておられる>ものを、<あれは、愛されていない、神から捨てられている>と言ってはならない」とか、「神が<愛しておられる>民族を、<あの民族は呪われている、嫌いだ>と言ってはならない」とか、「神が<選んでくださった>伴侶者を、<百年の不作だ>と言ってはならない」といろいろあてはめられるように思います。要は、私たちは限りなく広い心を持ち給う神のご判断に対して常に謙虚でありたいということです。私たちの内にある差別的な考え方を打ち砕いていただくことが、本当の意味でのきよめであり、本当の宣教の始まりと言えましょう。
 
お祈りを致します。