礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年5月18日
 
「万民の主」
使徒の働き連講(29)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 10章23-36,43節
 
 
[中心聖句]
 
  34-   これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
(使徒の働き 10章34-36節)


 
聖書テキスト
 
 
23 それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。24 その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。
25 ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。26 するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。27 それから、コルネリオとことばをかわしながら家に入り、多くの人が集まっているのを見て、28 彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。29 それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったの
30 するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、31 こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。32 それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
 
復習:神は異邦人伝道の障害を除かれる(イラスト@)
 
 
前回は、福音が異邦人に伝えられた最初のケースを述べている使徒の働き10章から、福音を伝える側と受け取る側とに横たわる障害を神がどのように取り除きなさったかをお話ししました。

・コルネリオへのメッセージ:
あなたがたが神から離れていない=受け取る側の障害とは、自分たちは神から遠く離れているという思い込みのことです。カイザリヤにおけるローマ駐屯部隊の百人隊長コルネリオは、神を畏れ、神に近づこうとしましたが、神に受け入れられているという確信はありませんでした。神は夢の中で彼に現われ、「あなたの祈りは覚えられている。あなたに救いの道を知らせるペテロというキリストの弟子が今偶々近くのヨッパにいる。彼を招きなさい。」と語りました。

・ペテロへのメッセージ:
外国人嫌いを止めなさい(イラストA)=他方、福音を伝える側にも大きな障害がありました。12使徒の筆頭であるペテロですら、一般のユダヤ人同様、外国人嫌いでした。彼らと話をするとか、家を訪問して一緒に食事をするとかいうことは、とんでもないことと思っていたのです。そこで、彼はイラストAのような夢を見ます。ユダヤ人の戒律では絶対食べてはいけない生き物が天から吊り降ろされてきて、「これを料理して食べなさい」と命令を受けるのです。断るペテロに対して、「神がきよめたものを人が聖くないと言ってはいけない。」と叱られます。

 
A.コルネリオの使者(23−24節)
 
 
「23 それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。 24 その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。」
 
1.使者の到着と伝言
 
 
ペテロの偏見が叱られた丁度そのとき、コルネリオの使者3人がペテロの滞在先であるヨッパに到着します。そして、コルネリオがカイザリヤで待っているという招待の意を伝えるのです。ペテロは、使者たちを暖かく歓迎して、共に一夜を過ごします。
 
2.ペテロ、カイザリヤに行く(地図参照)
 
 
翌日ペテロは、5人の同行者を伴い、コルネリオの使者3人と共に、合計10人で出発します。ヨッパからカイザリヤまでは約50kmですから、2日の旅です。一行は、途中の町で一泊してからカイザリヤに到着します。コルネリオが幻を見てから4日後のことです。

 
3.待ち受けていたコルネリオ家
 
 
コルネリオが駐屯していたカイザリヤは、この出来事から百年前に立てられた近代都市です(絵図参照)。田舎で育ったペテロには、見るもの、聴くもの、新しいことばかりで戸惑ったことでしょう。しかし、町の見物はさておいて、ペテロはまっすぐにコルネリオ家に向かいます。かなり大きな屋敷だったのでしょう。その家はきれいに掃き清められており、コルネリオの家族、僕たち、親類、友達、そして部下の兵隊達大勢がきちんとした身なりで待ち構えていました。

 
B.コルネリオ家の歓迎(25−29節)
 
 
「25 ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。26 するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言った。27 それから、コルネリオとことばをかわしながら家にはいり、多くの人が集まっているのを見て、 28 彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。 29 それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」
 
1.「同じ人間」としての挨拶
 
 
想像した通り、ペテロは、レッドカーペットの待遇を受けます。コルネリオが「平伏して拝んだ」と新改訳聖書にありますが、必ずしも「神」の扱いを示したのではなさそうです。最大の敬意を表したと解釈すべきでしょう。「遠いところからよくお出で下さいました。」という最大級のねぎらいを示しました。しかし、ペテロは、自分を特別視するコルネリオの姿勢を丁寧に断り、同じ立場にある人間として扱ってほしいという願いを示します。神の前での平等という、その時彼が語ろうとしていたメッセージを、態度で示したものでしょう。「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」率直な、飾り気のない、しかし、親しみを込めた挨拶です。
 
2.ペテロは偏見が除かれた理由を説明する
 
 
ペテロは、「ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。 29 それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。」と、実は自分は人種的偏見を持っていたこと、しかし、それをきれいさっぱり捨てるよう神に告げられたことを説明します。
 
3.ペテロは招待の理由を質問する
 
 
それからペテロは、自分をなぜ招いたのかの事情を尋ねます。勿論、概略の話は聞いていたことでしょうが、招待者であるコルネリオの口からじかに聞きたかったのです。「そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」誠に尤もな質問です。
 
C.コルネリオの説明(30−33節)
 
 
「30 するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、 31 こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。 32 それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』 33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
 
1.四日前の幻
 
 
この話は、1−8節で記録された物語の再述ですので、ここではふれません。
 
2.コルネリオ家の敬虔な態度
 
 
コルネリオは言います、「いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」まだ信者になっていないコルネリオとその家族が、神の器のメッセージを聞こうとして、襟を正しつつ座している姿は、何とも麗しいものです。私たちがそれ以下であってはならないと思います。私も説教者として、このように整えられた聴衆の前に立つ光栄と喜びを想像できます。
 
D.ペテロは、福音の普遍性を説く(34−36節)
 
 
「34 そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」
 
一瞬の静寂を破るように、ペテロは重々しく口を開きます。「これで私は、はっきりわかりました。」何が分かったのでしょうか。なぜわかったのでしょうか。
 
1.ペテロがはっきり分かった理由
 
 
ペテロは、「これで・・・わかりました」と、確信に至った状況を説明しています。「これで」とは、同じ神様が、全く別々な場所と環境にある二人の人に、同一のメッセージをなさったこと、しかも、そのメッセージの内容が、人種や文化の相違を乗り越えよ、という一つの方向を示したいたことによるものです。言い換えれば、ペテロ自身が持っていた人種的偏見を神が砕いてくださったという個人的経験と、人間全体の贖いという大きな啓示が与えられたこと、この二つが重なったことが、「これで」という発言の意味です。
 
2.神は雄大な、そして公平な方である
 
 
「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」これは、大きな心を持ち給う神への雄大な信仰の表明です。神が、本当に神であるならば、国境によって、人種によって、その肌の色によって、扱いを変えるということは考えられないはずです。神の公平性、大きな愛への確信が表明されています。この思想が旧約聖書になかったわけではありません。イザヤ書を開いてください。「その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。』」(イザヤ19:19−25)ペテロは、この雄大な神観念に今開眼したのです。
 
3.神は、敬虔で正義を行う民を受け入れる
 
 
「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(35節)「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(43節)これは、すべての人の主という見方に限定を与えるというものではありません。はっきり言って、背中を向いて、「俺は嫌だ」という人まで、無理やり方向転換をして私を拝め」というお方ではなく、私たちがこの方を畏れ敬うなら、私たちの主になってくださる、というだけのことです。
 
4.イエス・キリストは万民の主である。
 
 
そして、その雄大な、公平な神が救い主を世に送り、万民のための救いをなしとげられた、だから、キリストは万民の主であるとペテロは宣言します。万民の主!何と雄大な力強い宣言でありましょうか。これについて、私のコメントを加えます。

・特定の国、地域、人種にとらわれない:
今日の主題を「万民の主」としたのには理由があります。一つには文語訳がそうだからです。もう一つは、その響きです。グローバル化が進んでいる現代では「万民」を言う思想はいわば当たり前です。しかし、一昔前の日本は、「国」と言えば小さな規模の藩であり、それが世界でした。地球儀を始めてみた坂本竜馬が「万民」という思想に感動し、維新に向かって進んでいった話、そして「万民公法」を活用して、海運業を営んだことは有名です。ペテロはその1800年前の人です。ガリラヤ湖が世界と思っていた漁師が、キリストは万民の主という思想に目覚めたのです。正に革命です。

・キリストの救いは万民に及んでいる:
キリストの生涯と御業については次回37−42節の講解をしながら学びますが、キリストが成し遂げた救いの御業は、万人のためのものでありました。

・(事実)救いは万民に及んでいる:
残念ながら、私たち日本人の多くは、キリスト教とは外国の宗教、またはアメリカの宗教という考え方を持っています。事実は全く異なりまして、クリスチャンの数から言いますと、アジア、アフリカにいるクリスチャンの数が圧倒的に多いのです。アフリカにおけるキリスト教の圧倒的存在についても、或る人々は、批判的に眺めて「アフリカが未開で、そこに文明と共に入って来たのがキリスト教だった。だから他に選ぶものが無くてクリスチャンになった。」といいます。とんでもありません。アフリカの宗教意識をリサーチしたムビティという学者によると、彼等の間には、元々造り主への信仰、唯一の神観念が存在していたというのです。そこにキリスト教の教えが伝えられたとき、海綿が水を吸い取るようにそれを受け入れたと言うのが実情です。

・真実に呼び求める「私の」主でもある:
万民の主であるキリストが「私の主」となるためには、ただ一つの道、彼を呼び求め、頼り、信じる必要があります。「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:12−13) 
 
終わりに:キリストを「私の主」と捉えよう
 
 
キリストは、万民の主でありますが、個人的な信仰の告白と信頼をもって「私の主」と捉えて今週の歩みを始めましょう。
 
お祈りを致します。