礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年6月1日
 
「すべての人々に聖霊が」
使徒の働き連講(30)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 10章37-48節
 
 
[中心聖句]
 
  44   ペテロがなおもこれらの言葉を話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
(使徒の働き 10章44節)


 
聖書テキスト
 
 
37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。46 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。47 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」48 そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。
 
復習:「万人の主」
 
 
前回は、「万民の主」というテーマでお話ししました。

・万民のための救いを成し遂げた主:
すべての人を愛し給う神は、キリストを通して、万民のための救いを成し遂げなさいました。

・万民を区別なく受け入れ給う主:
神は大きな心をもってすべての人々を分け隔てなく愛しておられるお方です。イエス・キリストも父なる神の大きさと同じく、すべての人を受け入れなさいます。

・万民がこぞってほめたたえる主:
実際、現在地球上のすべての国にキリストを主と仰ぎ、ほめたたえる民が満ちています。

それまで、狭い心をもっていたペテロは、夢を通して、また、異邦人コルネリオへの神の語り掛けを通し、万民の主であるキリストに目が開かれました。そのペテロが万民のための救いを成し遂げなさったキリストの物語を進めます。
 
A.万民のための救い主(37−43節)
 
1.イエスの良い業(37−39節a)
 
 
「あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。」
 
・イエスは(当時のパレスチナでは)衆知の人:
ペテロは、「よくご存じの通り」と説教を始めました。主イエスのことを全く知らない聴衆に話しているのではありません。数年前まで、パレスチナでは相当の話題を巻き起こしていた人物として、語り始めます。勿論、聴衆の多くは短期滞在の外国人でしたから、詳しくは知らなかったでしょうが、イエスについての評判は聞いたことがあるという人が殆どでした。

・イエスには聖霊と力が注がれた:
「神はこの方に聖霊と力を注がれました。」とペテロは、イエスの力の秘密を語ります。メシヤとは、「油注がれた者」という意味ですが、イザヤ61:1には、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」という主の僕の告白が紹介されています。そして、主イエスは、故郷のナザレ村の会堂でこの部分を引用し、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と宣言されました。主イエスの力強いお働きの秘訣は、聖霊の油注ぎにありました。

・イエスは(愛の表れとして)癒しを施された:
「このイエスは・・・巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」主イエスは、多くの癒しの奇跡をおこなわれましたが、それらは自己顕示的なものではなく、愛と憐れみからほとばしる業でした。
 
2.イエスの十字架(39節b):人々の悪意の結晶
 
 
 「人々はこの方を木にかけて殺しました。」
 
人々がこのナザレ人イエスを木にかけて殺しました。「木にかける」とは、ユダヤ人にとって呪いの徴でした。イエスは、正に罪の呪いを身に受けて殺されなさったのです。
 
3.イエスの復活(40節):神の逆転勝利
 
 
「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。」
 
確かに、イエスの十字架は、人々の悪の結晶のような出来事でしたが、神はこれを逆転勝利の道とされました。
 
4.復活の証人である使徒たち(41−42節)
 
 
「しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。」
 
イエスの復活は、密やかな出来事ではなく、公然と人々に示威された出来事でした。しかも、イエスは幽霊や影のような存在ではなく、弟子たちと食事を共にするような、肉体的復活をなさいました。ペテロは、自分を含む弟子たちが復活の証人となるように召されていることを明らかにします。
 
5.信じる者に与えられる赦しと救い(43節)
 
 
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
 
キリストの中心的な働きは、罪の赦しであるとペテロは宣言します。勿論それは誰にでも与えられるものですが、ただ一つ、受ける側の信仰が必要であるとも付け加えます。
 
B.聖霊が聴衆すべてに注がれた(44−48節)
 
1.聖霊が下った(44−46節a)
 
 
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」
 
この出来事は、「異邦人のペンテコステ」と呼ばれます。使徒の働き2章の「初めのペンテコステ」が、ユダヤ人に対するものであるのに比べて、10章のこと出来事は異邦人への聖霊の注ぎであったからです。

・異言と讃美:
大切な部分は語り終えたものの、ペテロの説教はまだつづいています。しかし、聴いている間に聖霊が聴衆に下りました。それは自分たちも、また、共にいた人々にも分かる形での出来事でした。この時の状況が初めのペンテコステと似たものであったことは、使徒の働き15章でペテロが振り返っているところです。彼らが主を讃美し、しかも異なる言葉によってそれを行ったことに現われました。

・み言葉を聞き(信じた)者に注がれた:
この聖霊の満たしを経験したのは、「み言葉を聞いていた人々すべて」であったとルカは記します。耳で聞いていた人すべてという機械的なものではなく、耳で聞き、「信仰をもって応答した人」すべてと考えられます。この出来事の数日後にペテロが11章でこの出来事を振り返って述べていますが、「私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」(11:17)と言っています。使徒たちは「信じたとき」に聖霊が与えられたのですから、コルネリオ・グループも(直接言及はされて言いませんが)信じる心が働いており、その信仰に応じて聖霊が注がれたと考えるのが自然でありましょう。

・初めのペンテコステとの類似と相違:
・聖霊の注ぎとバプテスマの順序:初めのペンテコステにおいて、聴衆は先ず悔い改めることを求められ、悔い改めて信じた後に、聖霊のバプテスマを受けました(2:38)。しかしこの時の出来事は、まず聖霊に満たされ、それからバプテスマを受けました。通常の順序と逆ですが、神は方程式にとらわれなさる方ではありませんから、順序はどちらでもよいのです。
・異言の目的(説教のためと讃美のため):第一のペンテコステにおいて、先ず使徒たちは聖霊に満たされ、異なる言葉で語るという奇跡を行いました。コルネリオ・グループも異なる言葉で語ったとありますが、これは説教の為というよりも、神を賛美するための特別な行為だったようです。
・御業の本質は心のきよめ(15:8、9):しかしながら、異言という現象はあまり重要ではなく、心のきよめが重要でした。15章でペテロが第一のペンテコステとコルネリオ事件とを比べているところがありますが、彼は「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」と言っています(15:8、9)。

・ユダヤ人の驚き:
この出来事には「割礼を受けている信者」つまり、ペテロのお供をしてヨッパからやってきた5人のユダヤ人クリスチャンにとっては、驚き以外の何物でもありませんでした。この人々は、異邦人のことを神から遠く離れた人々と考えており、その人々が、自分たちと同じような恵みを受けるということは夢にも思っていませんでした。しかし、ペテロが語ったように、「キリストが万民の主である」という声明が、たんなる理念ではなく、事実であるということを、この異邦人グループが聖霊を受けたことで悟ったのです。
 
2.バプテスマを受けた(46節b−48節)
 
 
「そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。」
 
彼らの信仰の確かさを公に示すために、バプテスマ式が直ちに行われました。感激に満ちたものであったと思います。これについて、幾つかコメントします。 

・通常と順序が逆:
通常は、水のバプテスマと共に、或いはその後に聖霊のバプテスマが来るのですが、この場合は順序が逆で、聖霊のバプテスマがあって、水のバプテスマとなりました。神様が人を扱われる時、何かの方程式を当てはめなさることはありません。

・割礼なしに洗礼を受ける:
このバプテスマ式の時に、ペテロのそばにいたユダヤ人から、「割礼が先なのでは?」という声は上がりませんでした。割礼を受けて(宗教的に)ユダヤ人になることが、救いの前提であるという間違った教えは、後になって、パウロが異邦人伝道に取り組んだ時に、保守的ユダヤ人が繰り返した主張でしたが、コルネリオ家の洗礼式の時には、それが話題に出ないほどの、神の鮮やかな御業が皆に印象付けられていたのです。

・信仰と洗礼の直結:
「いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」というペテロの質問は、当然、誰も止められない、という答えを想定したものです。信じた、それゆえ聖霊を受けた、そしてそれを公に告白するバプテスマを受ける、このプロセスは直結していました。今週の木曜日に一人、そして、来週のペンテコステ礼拝に数名の方が洗礼を受けようとしています。感謝なことです。一人一人が単純に信じた、そしてその信仰を告白するバプテスマを受けるという単純なプロセスです。一人ひとりになされた主の御業のゆえに、主を讃美しましょう。
 
おわりに:信仰をもって聞こう
 
 
聞いていたものすべてに聖霊が下ったという、驚くべき声明に心を留めましょう。勿論、耳で聞いていただけではなく、信仰をもって応答したものに聖霊が注がれるのです。ガラテヤ3:2と5−6を読んで祈ります。「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。・・・あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。」
 
お祈りを致します。