礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年6月8日
 
「ペンテコステの再現」
使徒の働き連講(31)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 11章1-18節
 
 
[中心聖句]
 
  15,16   そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。
(使徒の働き 11章15-16節)


 
聖書テキスト
 
 
1 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。
4 そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。5 「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。6 その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。7 そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』と言う声を聞きました。8 しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません』と言いました。9 すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』というお答えがありました。10 こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。11 すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。12 そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家に入って行きました。13 その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。14 その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます』と言ったというのです。15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
 
はじめに:ペンテコステの波紋(イラスト@参照)
 
 
ペンテコステの恵みを感謝いたします。特別な機会ですから特別な場所からのメッセージも考えたのですが、丁度連講で「異邦人へのペンテコステ」という大切な課題を扱っておりますので、それをそのまま今年のペンテコステ・メッセージと致します。

・「第一波」(使徒2章、AD30年、巡礼者、エルサレム住民、弟子達=ユダヤ人):
使徒の働き2章は、「初めのペンテコステ」と呼ばれます。主イエスによって約束された聖霊のバプテスマが、祈り待ち望んでいた弟子たちに与えられ、聖霊に満たされた彼らの奉仕を通して3千人が救われ、教会が誕生しました。この時救われた人々は、ペンテコステの祭りのためにエルサレムに上ってきた人々、エルサレムの住民、弟子たちなど、みなユダヤ人でした。

・「第二波」(使徒10章、AD40年頃、コルネリオと家族、友人、ローマ兵士=異邦人):
使徒の働き10章が革命的な意義を持っているのは、ユダヤ人でない人々(異邦人)が直接聖霊を受け、クリスチャンとなったことです。その意味で10章は「異邦人のペンテコステ」あるいは、「第二のペンテコステ」と呼ばれます。この出来事は、今まで4回に亘ってお話ししました。さて、11章は、10章の出来事の更なる波紋と呼ぶことができます。
 
A.エルサレム割礼派の非難(1−3節)
 
 
「1 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、3 『あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。』と言った。」
 
1.コルネリオのニュースが、エルサレムとユダヤ全国の信徒たちに広がる
 
 
使徒の時代に、今のようなネットはありませんでしたが、ニュースというものは瞬く間に伝わるもので、「使徒たち(つまりペテロ以外の12使徒たち)やユダヤにいる兄弟たち(エルサレムとユダヤ全国の信徒たち)は、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。」この1節の文章は、彼らの価値判断を述べず、事実を報告するだけです。それは素晴らしいことだと思った人もいれば、これは大きな問題だと思った人もいたことでしょう。   
 
2.「ユダヤ主義クリスチャン」は、ペテロと異邦人の会食を問題視
 
 
ペテロの行動を「問題」と感じたのは、「割礼派クリスチャン」あるいは「ユダヤ主義クリスチャン」と呼ばれる保守的なクリスチャン達でした。ルカは、ペテロが上京してきたとき、待ち構えていたかのようにペテロを捕まえて文句を言ったのは「割礼を受けた者たち」だった、と記録しています。この時エルサレム教会の全部はユダヤ人でしたから、みんな割礼を受けた人ばかりだったのですが、敢えて割礼の大切さを強調したのは、(イエスをキリストと信じながらも)ユダヤ教の戒律をしっかり守ることを生き甲斐としていた保守的なグループでした。彼らが問題にしたのは、コルネリオの信仰の内容ではなく、ペテロが「割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」という、今から考えると詰まらない、しかし、当時の彼らには重要な課題でした。この問題は、実は、福音とは何かという根本問題にかかわることで、パウロが世界宣教の実践をした時、ガラテヤ書、ローマ書などで深く掘り下げて扱った課題でした。
 
B.ペテロの釈明(4−17節)
 
1.汚れた食物についての幻(4−10節)(イラストA)
 
 
「そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。『私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。そして、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」と言う声を聞きました。しかし私は、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と言いました。すると、もう一度天から声がして、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」というお答えがありました。こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。』」
 

この話は、何度か繰り返されています。ペテロにとってはとても印象的だったからでしょう。神はすべての人を受け入れなさることを示すエピソードです。細部は触れずにイラストをご覧いただくだけで、先へ進みましょう。
 
2.カイザリヤからの使者と同行(11−14節)(イラストB)
 
 
「すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家にはいって行きました。その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます。』と言ったというのです。」
 

コルネリオから遣わされた使者に同行してカイザリヤに行ったこと、コルネリオから、彼の招待の詳細を聞いたことも繰り返されます。これも、イラストを見るだけで再述は致しません。<先週、ヨッパからペテロに同行したのは5人と言いましたが、6人の間違いでした。お詫びして訂正します。>
 
3.聖霊の付与(15−17節)(イラストC)
 
 
「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
 
・聖霊が下る:
ペテロは、コルネリオ・グループへの聖霊降臨が「あの最初のとき私たちにお下りになったと同じよう」だったと言います。具体的に何が「同じよう」だったのでしょうか。
・「最初のとき」の現象:
@音、A火、B他国語=まず、「最初のとき」の状況を2:1−4を読みましょう。そこには、@風のような天からの響き、A炎のような分かれた舌の分与、B他国語での説教(神の御業について=11節)と三つの現象が記されています。
・コルネリオ・グループの現象:
異言と賛美=コルネリオ・グループについては、上記の内の第三、つまり、「異言を話し、神を賛美したこと」(10:46)が共通です。
・心が聖霊によってきよめられたことが共通(15:9):
そうした現象面ではなく、いや、もっと大切な共通点は、心が聖霊の火によってきよめられたことです。15:9には、「私たち(つまり最初のペンテコステを経験した人々)と彼ら(コルネリオ・グループ)とに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださった。」とペテロは振り返っています。第一のペンテコステで扱われた罪のきよめは、弟子たちの間での競争心、自己保身などの肉的な思いでした。コルネリオ達が扱われた罪が何であったかは記されていません。しかし、彼らはペテロが数日滞在している間に、罪の告白と、キリストによって変えられた経験を証したことでしょう。

・聖霊のバプテスマ(聖霊の影響が全人格に及ぶこと):
ペテロは、ここで重要なコメントを加えます。それは、第一のペンテコステの記録では言及されていない事柄です。それは、主イエスの預言の成就としてのペンテコステという側面です。16節「私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。」と言うのです。第一のペンテコステの時には多分強く意識していなかったことでしょうが、この第二のペンテコステにおいてペテロは主が使徒の働き1:5で語られた言葉の成就がペンテコステであることを強く意識したというのです。これは単に聖霊が下ったというよりも強い内容です。バプテスマとは「浸す」という言葉からきていますが、この時聖霊は、コルネリオ・グループの心を聖霊によってひたひたに浸されたのです。聖霊の感化が彼らの人格のすべての部分に、余すところなく、しかも完全に及んだのです。それは、聖霊に明け渡した魂に与えられる経験です。

・神はユダヤ人と異邦人を隔てなく扱う:
ペテロは、この経験を与えなさったのは神であり、神は、自分たちユダヤ人と、コルネリオ達異邦人に何の区別もなさらなかったとこの演説を締めくくります。
 
C.反対派も理解し讃美する(18節)
 
 
「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。』と言って、神をほめたたえた。」
 
これを聞いた人々は、「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえました。 実に素直な反応です。<こうした理解がずっと広まり、深まっていけばよかったのですが、残念ながら割礼問題は何回も蒸し返されます(例えば、使徒の働き15:1、5、21:21、ガラテヤ2:12−13)。如何にこの問題が当時のクリスチャンにとって深刻であったかを物語ります。>いずれにせよ、この時は、すべての人々が神の業を讃えて、集会を締めくくりました。
 
おわりに:ペンテコステは今も続いている
 
 
最初のペンテコステ以来、波紋は続いており、日本にまで及びました。現象的な出来事は必ずしも必要ありません。静かな、そして永続的な波紋が私の心の内に、そして周囲に及ぶように祈りましょう。
 
お祈りを致します。