礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年6月15日
 
「コスモポリタンの教会」
使徒の働き連講(32)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 11章19-26節
 
 
[中心聖句]
 
  21   主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
(使徒の働き 11章21節)


 
聖書テキスト
 
 
19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
 
はじめに:
 
 
使徒の働き10章が、「異邦人のペンテコステ」として覚えられる、画期的な章であることをお話ししましたが、11章も同様に、異邦人伝道の拠点となるアンテオケ教会の誕生を記す画期的な章です。
 
A.散らされた信徒たちの伝道(19−21節)
 
 
「19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。 20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。 21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」
 
・タンポポのように(イラスト@):
サウロが起した教会への迫害で、エルサレムの信徒達は殆どエルサレムの外に散らされてしまいました(8章)。この「散らす」という言葉は「種を撒き散らす」(ディアスペイロー)という動詞で、ディアスポラの元の言葉です。さて、散らされた人々は、行く先々でイエス様の事を話しましたので、却って福音が広がりました。タンポポが風に散らされると遠いところに飛んで行って、その場所で芽を出し花を咲かせるのと似ています。もし迫害がなかったなら、教会の居心地が良くて、周りの町々に伝道しようという気持ちにならなかったかもしれません。迫害ですら、神様のみ許しで起きるのです。

・フェニキヤ、キプロス、アンテオケでの伝道(地図@):
散らされた人々の内、北西の方向に旅したグループのことが記されています。フェニキヤというのはガリラヤの北でツロ、シドンという港町を中心とした地方のことです。キプロスは地中海の島で、フェニキヤの対岸です。アンテオケとは、シリヤ地方の首都です。後で詳しくお話しします。その信徒たちは、キリストの証をしましたが、証の対象は、その地方に住んでいるユダヤ人に限られていました。ユダヤ人社会はローマ帝国の至る所にありましたので、彼らの集まる会堂(シナゴーグ)で証をしたのです。

・メガ国際都市アンテオケ(地図A):
その中でも、アンテオケにおいて革命的な第一歩が踏み出されました。それを話す前に、アンテオケという町についてお話しします。アンテオケは、シリヤ州の州都でした。BC323年にアレクサンドロス大王が死にますが、その直後、彼の王国は、四人の王様によって分割されます。その一人がセレウコスで、シリヤ地方を治めます。その息子がアンテオコス1世でした。彼の時代にシリヤの首都として町が作られ、それがアンテオケと名づけられました。アンテオケは、港町のセルキヤからオロンテス川沿いに20km陸地に入ったところですが、水上交通が可能でしたので、地中海沿岸の商売や文化の中心地となり、ローマ、アレキサンドリヤに次ぐローマ帝国第三のメガシティ(人口80万人)となっていました。アンテオケには色々な人種が集まったのは当然です。もともとのシリア人、ギリシャから移住したギリシャ人も多数いました。また、商売に長けたユダヤ人も数多く住んでいました。ユダヤ教に改宗したギリシャ人もおり、最初の執事であったニコラオもその一人です(6:5)。アンテオケは、元々コスモポリスであったのです。

・「救われてしまった」アンテオケ人:
先ほどお話ししましたように、散らされたエルサレム教会信徒たちは、ユダヤ人だけに対してイエス様の福音を話していました。ところが、キプロスやクレネ生まれのユダヤ人がその働きに加わった時、ユダヤ人ではない人々(異邦人)にも福音のお話をしたのです。ここで「キプロスやクレネ生まれ」と態々説明している事が面白いですね。クレネというのは、北アフリカのリビヤ地方の中心地で、かなり開けたところです。キプロスも同様です。彼らは、異邦人に対する偏見が少なかったものですから、こんな試みをしたのでしょう。興味深そうに話しを聞いていたギリシャ人はこう反応しました。「それは、素晴らしい話しだ。私もイエス様とやらを信じたい。」そのような人が次々起きてきて、「救われてしまった」のです。話しをした人もびっくりしました。こんなことってあり?という具合です。今で言うと、小学校を卒業していきなり高校に入ってしまうほどの驚きです。(イラストA)

・主の御手が共にあった:
ルカは「主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」と解説しています。主の御手が彼ら(つまり、福音を語る人々)と共にあった、とは、福音を語るときに与えられた知恵と大胆さのことでしょう。人の努力ではなく、神の御力が語るものに加えられたのです。同時に主の御手は、聴く側にも共にありました。彼らが心を開き、単純な心で福音を受け入れようとしたのです。双方が働いて、大勢の人々が信じ、救われ、アンテオケ教会が確立していきました。
 
B.バルナバの訪問と喜び(22−24節)
 
 
「22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。 23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。 24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」
 
・エルサレム教会の懸念と使者の派遣:
アンテオケ教会が誕生して成長しているという知らせは、たちまちエルサレムの母教会に伝わりました。コルネリオの入信の時も相当揺さぶられたエルサレム教会でしたが、今回はそれ以上の激震でした。エルサレム教会はユダヤ人で成り立っており、彼らは、非ユダヤ人(異邦人)がそのまま救われるとは夢にも思っていなかったのです。異邦人は、割礼を受けてユダヤ教に改宗し、その後キリストを受け入れるべきものと思っていました。その上、アンテオケ教会は、エルサレム教会から見ると「とても変わった」教会でした。旧約聖書の教えをよく知らないままイエス様を信じていましたから、律法をを守っていませんでした。豚肉を食べたり、安息日に仕事をする人もいました。エルサレム教会はこれを聞いて、アンテオケ教会はとんでもない方向に進んでいると心配しました。そこで視察のためにバルナバを派遣したのです。

・広い心のバルナバによる励まし:
幸いにも派遣されたバルナバは、キプロス出身のユダヤ人で、心の広い人でしたから、自分たちと違う生き方をしている人々でも、その心の中に住んでおられるイエス様は同じということを見て、心から感謝し、励ましを与えました。そして、彼らが心を堅く保って(目標をしっかり持って)、常に主にとどまっているようにと励ましました。ここでバルナバが、食べ物や、カレンダーや、色々な生活習慣のことで注文を付けたならば、アンテオケ教会は萎んでしまったことでしょう。リーダーが、広い心のバルナバでよかったのです。
 
C.教会の確立と進展(25−26節)
 
 
「25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
 
・サウロをリクルート:
アンテオケで働きが拡大した時、バルナバは、自分の力では纏めきれないくらいのエネルギーを新しい信徒たちに感じました。彼が祈りの中に協力者としてリクルートするように示されたのは、若く有能なサウロでした。幸い、彼は、アンテオケからわずかの距離にあるタルソ周辺で故郷伝道をしていました。バルナバは、そのサウロを訪ね、助けを求めました。バルナバは、功績を独り占めにしようとか、自分一人ではできない仕事を自分だけ手頑張り続けるというケチな考えから解放された寛大な器でした。本当に教えられます。クリスチャンの働き人の鑑ですね。

・「キリスト屋」との呼び名:
さて、サウロが加わって、アンテオケ教会はますます成長しました。その数においても、また熱心さにおいても。ルカは、クリスチャン(キリスト屋)という呼び名がアンテオケから始まったというエピソードを紹介します。私たちは、自分のことを「クリスチャン」と呼んでいますが。その呼び方は、教会が誕生してからすぐに始まったのではなく、約12年後、しかも、教会の誕生地エルサレムから500kmも離れたシリアのアンテオケで始まったのです。アンテオケの信者は、二言目にはキリスト、キリスト、どんな話しにもキリストという言葉を使いました。たとえば、「おはようございます。お元気ですか?」「はい、とても元気です。キリストのお蔭です。」「〇〇さん、何か最近楽しそうですね。どうしたんですか?」「ええ、実は、先月私はキリスト様を救い主として信じたんですよ。その時、私の罪が赦され、心が軽くなりました。感謝です。」「xxさん、今日飲みに行かない?」「どうもありがとう、でも、キリスト様が心の中に入って、楽しくてしょうがないんです。特に飲まなくても私は幸福です。」・・・という具合です。周りの人々は半分あきれ、半分からかいながら、「あいつらは何でもキリストだね。キリスト屋(クリスティアノス=クリスチャン)だ」と言う様になりました。それを聞いたアンテオケ信徒たちは、「うん、それもいい名前じゃない。そうか。僕らは自分たちのことをキリスト屋(キリストの従うもの)と呼ぶことにしよう。」ということになりました。それまでは、「弟子」、「この道の人」、「聖徒」、「ナザレ人」と呼ばれていたのですが、ここからクリスチャンと呼ばれるようになりました。

・コスモポリタンの(広い心の)教会:
先ほども言いましたように、アンテオケの町自体が大変コスモポリタンな雰囲気を持っていました。そこで生まれたクリスチャン達は、もっとコスモポリタン的でした。リーダーのバルナバもサウロもディアスポラ・ユダヤ人でしたから、国際感覚豊かでした。また13:1に出てくるリーダーのうち、「ヘロデの乳兄弟マナエン」は、権力の中枢に近い人です。「ニゲルとあだ名されるシメオン」は、アフリカ系だったと思います。コスモポリタンという意味は、自分の文化と異なる文化の人々、自分と違う肌色をしている人々を見下さないということです。その点、アンテオケ教会は人種や文化の違いを余り気にしない雰囲気がありました。残念ながら、その反対がエルサレム教会でした。確かに聖霊に満たされた素晴らしい信徒の集まりではありましたが、保守的なユダヤ人の集まりでしたから、外国人と交わることはとてもおぞましいこと、という偏見から卒業できませんでした。ペテロがコルネリオの家に行って一緒に食事をするだけでも清水の舞台から飛び降りる程の決心が必要でした。ペテロの行動について報告を聞いたエルサレム教会の信徒たちは、ペテロがユダヤ人らしくない振る舞いをしたと責めました。誤解は溶けましたが、でもそんな空気は強かったのです。福音は、このような自文化中心主義(エスノセントリズム)を乗り越えるものであるはずですが、エルサレム教会の場合、中々ここから卒業できませんでした。さて翻って、島国で育った私達日本人のことを考えてみましょう。私たちは、このエスノセントリズムからなかなか卒業できないでいるように思います。毛色の変わった人々が来ると、何となく弾き飛ばしてしまいます。福音による、本当のインターナショナリズムを捉えたいと思います。インターナショナリズムとは自分と違った生き方をする人々を、わだかまりなく受け入れることなのです。
 
おわりに:お互いを先ず受け入れよう
 
 
アンテオケ教会は、「心が広い」という意味で、コスモポリタン的な教会となりました。私たちも、福音の広さ、豊かさのゆえに他を受け入れる教会となりたいと思います。先ず手始めに、隣に座っている方に対して、隣は何をするものぞ、と他人行儀にならずに、挨拶を交わし、主にある友として受け入れ、祈り合いましょう。
 
お祈りを致します。