礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年8月10日
 
「解放の福音」
使徒の働き連講(38)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 13章23-43節
 
 
[中心聖句]
 
  39   モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。
(使徒の働き 13章39節)


 
聖書テキスト
 
 
23 神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。
24 この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。25 ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』
26 兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。28 そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。29 こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。
30 しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。31 イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。32 私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。33 神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。34 神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。35 ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』36 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。37 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。
38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。40 ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。41 『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」
 
1.<復習>ダビデの子孫からメシヤが(23節)
 
 
前回は、パウロの第一次伝道旅行の中心地ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教に目を留めました(地図参照)。パウロは、神に選ばれたイスラエル人の歴史を概観し、その歴史のクライマックスとして、ダビデの子孫からメシヤが起こすという神の約束を思い出させます。「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。」(23節)神の救いの計画の雄大さ、そして、約束に対する神の忠実さを学びました。メシヤがダビデの子孫から出ることまでは、イスラエル人ならば頷けるでしょう。

問題はその先です。パウロは、そのダビデの子孫とは他ならぬナザレのイエスだというのです。イエスは、単にダビデの家系に生まれただけでなく、その生涯と死と復活によってそのメシヤ性を証明なさった、と24節以下に述べます。それがどうして、ナザレのイエスなのか、パウロは論述を続けます。
 
2.ヨハネの証言(24−25節)
 
 
「この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』」
 
・先駆者・バプテスマのヨハネ:
パウロは、イエスに言及する前に、バプテスマのヨハネに言及します。というのは、バプテスマのヨハネの名前は、パレスチナのユダヤ人の間で広く知られ、尊敬されていたからです。勿論ヨハネの名声は、パレスチナの外にいるディアスポラ・ユダヤ人にも響いていました。ですから、ヨハネから論証を始めることはとても賢い方法でした。

・ヨハネの証言:
イエスがメシヤ=人々から尊敬されていたヨハネでしたが、そのヨハネが、自分は「後からくる方」の靴の紐を解く値打もない、つまり、「自分は、多くの人が誤って考えるようなメシヤではない。それどころか、後からメシヤとして来るイエスは、自分よりも遙かに価値高い存在なのだ」と証ししたのです。つまり、出自の不明なイエスという男が、ある日突然メシヤと自称したのではないと語るのです。非常に大切なポイントです。
 
3.イエスの十字架(26−29節)
 
 
「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。」
 
・二種類の聴衆を意識:
パウロは再び、会衆が二種類によって成り立っていることを意識して発言します。ユダヤ人と異邦人と双方に対して、「救いのことばは、私たちに送られている」というのです。そして、その理由を十字架に求めるのです。

・イエスの十字架:
パウロは、自分もそうであったように、木にかけて殺された者は呪われるというユダヤ人一般の考え方を忖度します。異邦人の間でも、十字架刑は最も卑しいおぞましい形の死刑です。その形で命を奪われた男に何かの価値も見ることができるでしょうか?

・十字架の背景:
パウロは、イエスの十字架の背景について、三つの誤りを挙げます:
@間違ったメシヤ観:
パウロはまず、人々の間違ったメシヤ観があったことを指摘します。旧約聖書が毎週読まれているのに、「苦難を通して救いを成就すべきメシヤ」というアイデアが全く不足していたことを指摘します。
Aイエスの無罪への無理解:
人々がイエスの無罪であったことを理解しなかったこと、もっと言えば、彼らが指導者達の嫉妬による扇動に付和雷同して、イエスを恰も罪人であるかのように扱ったことが誤りであったことを説明します。
Bピラトへの訴えの誤り;
外国人の指導者・総督ピラトに訴えてイエスの死刑を求めたことは言語道断であると述べます。ただ、神は人々の誤りを逆手にとって、ユダヤ人だったならば実行したかったであろう十字架刑を実現したことを示唆します。それによって、苦難のメシヤが贖いを成就するという預言が成就された訳なのです。

・イエスは確かに死に、葬られた:
「彼らはイエスを墓に納めた。」という声明は復活の伏線です。イエスの死が事実であったことを強調して、次の段階、つまり復活に議論が進みます。
 
4.イエスの復活(30-37節)
 
 
「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。イエスは、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、幾日もお現われになりました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。私たちは、神が先祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』というように言われていました。ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。」
 
・神の逆転劇:
一般には悲劇と見える十字架を神が逆転なさったのが復活です。「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。」この「しかし」は、何と痛快な何と勝利に満ちた「しかし」でしょうか。

・復活は、多くの人々に目撃された:
復活の事実は、誰かの作り話や思い込みではなく、多くの目撃者によって確かめられた事実であることを強調します。「ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、幾日もお現われになりました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。」ピシデヤのアンテオケにおける説教がなされているのは、復活の出来事から約20年後のことです。つまり、復活を目撃した生き証人がまだまだ多数存在していたことをパウロは意識しています。

・詩篇2篇の預言が成就した:
詩篇2篇は、神の「副王」としてダビデが任命されたことを示しています。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」これは、クリスマスの預言ではありません。メシヤ的な王が神の子として任命されるという預言です。それが成就したのです。

・詩篇16篇の預言も成就した:
詩篇16篇は、ダビデが、神の愛するものに約束された永遠的生命について預言しています。「あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。」事実から言いますと、ダビデは死に、葬られ、その墓が存在します。ですから、この永遠的な生命の約束はメシヤのために取っておかれるべきものである、それがイエスの復活において成就した、それがパウロの論点です。
 
5.キリストの齎した解放(38−41節)
 
 
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」
 
39−42節は、この説教の締めくくりで、信じる者への祝福と、拒絶する者への災いを宣言します。

・罪の赦し:
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」と言います。イエスの生涯と死と復活が罪に赦しのためでした。彼の十字架は、罪の刑罰の身代わりであり、復活はその確かさを保証するものでした。

・律法の束縛:
「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」前の節を受けて、パウロは、解放の福音を高らかに宣言します。「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点」とはどんな点なのでしょうか。パウロが後に(このアンテオケ教会を含む)ガラテヤ諸教会宛てに書かれたガラテヤ書で再強調している点も含めて解放されるべき諸点を挙げてみましょう。

@審判の恐れ:
律法は、それを守る者に祝福を約束し、それを破る者に罰則を与えます。そのような罰則がなければ律法ではありません。しかし、実情はというと、私たちは律法を守る力がないだけでなく、それを破ってしまう抗しがたい罪の傾向を持っています。殺すなかれ、との戒めがありますが、実際に刃物を持って人を殺さなくても、憎しみの心を抱くことによって人を殺してしまいます。言葉をもって人に癒しがたい傷を与えてしまいます。私たちが自分の律法違反に相応しい審判を受けるとすれば、懲役何万年となってしまうことでしょうか。これは、冗談ではありません。しかし、キリストは十字架にかかり、その罪に値する罰と呪いを受けてくださいました。それによって私たちは全く赦され、義と認められるのです。「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)何という福音でしょうか。

A心理的圧迫:
さて、律法は、その性質上、人々を縛り、それ故に人の心に罪責感を与えてしまいます。「律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」(ガラテヤ3:10)例えば、父と母を敬えという戒めがあります。これは、とても大切な戒めです。殆どすべての人は、これに同意します。しかし実際上は、何度父と母を悲しませて、申し訳ないという気持ちに落ち込んでしまうことが何度あることでしょうか。キリストの贖いは、この心理的束縛感から私たちを解放します。律法は私たちを外側から縛ります。しかし、福音はこの律法を内在的なものに変えるのです。つまり、律法を守らねばならない決まりとしてではなく、律法を喜んで守る心を与えてくださるのです。

B生活上の束縛:
律法は、イスラエルの人々の生活を縛るものでした。生活上の細かい規律を守ることが要求され、それを満たすものが神に喜ばれ、満たさないものは神に嫌われてしまうのです。食べ物や安息日などの決まりは、一定の意味と目的を持ったものであり、イスラエル人は、その決まりを守ることに慣れていましたから、左程の苦痛は感じていませんでしたが、決まりに慣れていない異邦人には大変なハードルだったのです。キリストの十字架は、そうした儀式的な、また、生活上の決まりから信仰者を解放しました。キリストは十字架において完全に律法の要求を満たし、その結果私たちを解放なさるのです。

・解放の道:
キリストは完全な解放を与えてくださいました。
@主が私たちのために呪われたことによって:
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
A私達が信仰をもって救いを受けることによって:
「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。・・・アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。・・・このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:2、6−9、14)

・不信仰への警戒:
「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。」これはハバクク1:5の自由な引用です。キリストによる解放の福音が余りにも素晴らしいので、人々の常識はこれを拒絶してしまう可能性があることを示唆します。
 
6.聴衆の好反応(42-43節)
 
 
「ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。」
 
・聴衆は、再度の説教を依頼:
聴衆は、このようなタイプの説教を聞いたことがありませんでしたので、新鮮にこれを受け止めました。そして次の安息日も説教に来てくれるように頼み、また、会堂司にも、説教者としてパウロとバルナバを選ぶように依頼しました。

・パウロたちは、神の恵みにとどまるようにと勧告:
パウロは、ユダヤ人の聴衆と、改宗した異邦人に向かって、神の恵みにとどまるように勧告して、この場での話を終えます。さて、次の週にはどんなことが起きるのでしょうか。たのしみですね。
 
終わりに:私たちが「囚われている点」に解放の福音を当てはめよう
 
 
私たちは心理的にも、社会的にも、色々なものに囚われて生きています。社会的に言えば周りの人々の眼であったり、世間の常識であったり、あるいは心理的に言えば、今まで失敗してしまったという過去の体験であったり、自分はダメ人間なんだろうという低い自己評価であったり、抜けられない悪習慣であったり、まあ、色々なものに囚われています。

それらに対して正直に向き合いつつ、しかし、大胆にキリストの自由を宣言しようではありませんか。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)
 
お祈りを致します。