礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年8月17日
 
「グローバル宣教への転機」
使徒の働き連講(39)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 13章38-52節
 
 
[中心聖句]
 
  46   私たちは、これからは異邦人の方へ向かいます。
(使徒の働き 13章46節)


 
聖書テキスト
 
 
38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。40 ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。41 『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」42 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。43 会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。44 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。46 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」48 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。49 こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。50 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。51 ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
 
前回:ピシデヤのアンテオケでの説教(地図参照)
 
 
前回は、パウロの第一次伝道旅行の主な拠点であるピシデヤのアンテオケで、パウロの行った会堂礼拝の説教を学びました。先週は、その説教に対する聴衆の反応にも触れる予定でしたが充分時間がありませんでしたので、今日は先週の締め括りと重複しながら話を進めます。

 
1.「解放の福音」は信じる者に与えられる(38−41節)
 
 
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」
 
・キリストの福音は「解放の福音」:
死の恐れ、良心の呵責、罪への傾きなどの束縛から解放してくださった(ガラテヤ5:1):パウロの説教は、39節の「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」とのみ言葉に凝縮されています。つまり、主イエスの十字架と復活の福音は、私たちをあらゆる束縛から解放する「解放の福音」であるということです。死の恐れという束縛、良心の呵責と言う束縛、罪に傾いてしまう性質の弱さという束縛、世間体と言う束縛、過去の失敗体験と言う束縛、低い自己評価と言う束縛から解放してくださるのです。本当にこれは、考えれば考える程革命的な良き訪れです。自分の内にある弱さに向き合いつつ、しかし、大胆にキリストの自由を宣言しようではありませんか。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

・福音は信じる者に与えられる:
この解放の福音を自分のものにする道は、ただひとつ、解放者なる主イエスを信じる信仰です。ここでパウロは、「信じる者はみな、この方によって、解放される」と言い、後にこの人々に当てた手紙では「あなたがたが御霊を受けたのは、信仰をもって聞いたから」(ガラテヤ3:2)と言います。

・信じない者への警告:
しかし、パウロは、すべての人が信じる訳ではない、この解放の福音とは余りにも虫が良すぎる、或いは、愚かしいと言って信じない人がいることを示唆します。「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。」このことばは、ハバクク1:5の自由な引用です。これも悲しい現実です。
 
2.集会のフォロアップ(42−43節)
 
 
「ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。」
 
・聴衆は、説教を新鮮に受け止め、再度の説教を依頼:
聴衆は、このようなタイプの説教を聞いたことがありませんでしたので、新鮮にこれを受け止めました。彼らの魂が目覚めたのです。そして次の安息日も説教に来てくれるように頼み、また、会堂司にも、説教者としてパウロとバルナバを選ぶように依頼しました。ただ、会堂司がこれを聞き入れたかどうかは、記されていません。多分否定的だったと思われます。

・パウロたちは、神の恵みにとどまるようにと勧告:
パウロは、ユダヤ人の聴衆と、改宗した異邦人に向かって、神の恵みにとどまるように勧告して、この場での話を終えます。

 
3.第二の安息日の異変(44−45節)
 
 
「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。 45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」
 
・大勢の来会、特に異邦人が会堂を埋める:
パウロがキリストについての明快なメッセージを伝えてから一週間が経ちました。その間、救い主が到来したらしいという話が町中に広まり、あちらの市場、こちらの広場でその噂でもちきりとなりました。その期待感があったものですから、翌週の安息日には、異邦人が大多数である「ほとんど町中の人」が会堂に集まってきました。これは驚くべきことです。例えば、今日の礼拝に、世の中で知られているような特別講師が話をすると聞いた近所の方々が押し寄せてきたことを想像してください。入りきれない聴衆をどうさばくのか、アッシャーは苦労するでしょう。讃美歌など歌ったことのない人々が、この会衆の90%前後だったならば司会者は苦労するでしょう。丁度そのような異様な光景です。

・ユダヤ人は「ねたみに燃え、反対して、ののしった」:
私がその時のアッシャーだったら、嬉しい悲鳴を上げますが、それでも、困惑よりも嬉しさの方が大きいと思います。しかし、会堂の常連のユダヤ人は、この事態に喜ぶどころか「ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」のです。口では、異邦人にも神の教えを広げようというスローガンを唱えながら、腹の中では、居心地の良いこじんまりした集会に慣れ過ぎていて、異質な会衆を受け入れる心のゆとりがなかったのです。異邦人をユダヤ教に改宗させることに一応熱心でしたが、その成果を挙げられなかったという引け目があったため、異邦人から熱狂的に受け入れられたパウロたちへのねたみが燃え上がったのかも知れません。もっと言えば、会堂にやってくる有望な求道者を自分の教えに引き込んでしまう「羊泥棒」としてパウロを見たのかも知れません。それが反対と罵りとなって現れました。
 
4.パウロとバルナバの革命的宣言と行動(46−49節)
 
 
「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。46B 私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」』」 48 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。49 こうして 、主のみことばは、この地方全体に広まった。」
 
・ユダヤ人を叱る:
その狭量さと頑固さについて=パウロたちは、ユダヤ人たちの心の狭さ、その頑なさを厳しく責めます。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」ああ、このすばらしい福音を一番先に聴いたのです。しかし、それを心の狭さと頑固さのゆえに拒絶して、救いのチャンスを逃してしまったのです。「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」これは何たる悲劇でありましょうか。今日、神の声を聴いたならば、心を頑なにしてはならない、とへブル書にも記されています。

・ユダヤ人の拒絶がグローバル宣教への突破口となる:
ユダヤ人たちの(全部ではないにしても)拒絶は、パウロたちの宣教の方向性を異邦人へと向かわせます。それは、感情的になって、「そんなに君たちが聞かないのだったら、君たちは望みがない、話を聞いてくれる異邦人に向かうよ」という捨て台詞ではありません。この決断の根拠として、パウロはイザヤの預言を引用します。「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」(イザヤ49:6b)この言葉は、メシヤ的な人物としてイザヤ書に描かれている「主の僕」預言の一部です。6節の前半から読むともっとクリアです。「「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。」つまり、主の僕の使命は、イスラエルの回復を含んではいるが、実はもっと大きな使命がある、それは福音をグローバルなものとして広げていくことなのだ、と言うのです。皮肉なことに、福音に対するユダヤ人の拒絶が、グローバルな宣教活動の転機となりました。これについて、後にパウロが記したローマ人書特にその9〜11章も参照しながら、幾つかのコメントを加えます。

@異邦人伝道への方向転換は、ユダヤ人伝道の放棄を意味しない:
パウロは、この後も、ユダヤ人社会に福音を伝えようという努力を継続し、それは一定の成果を挙げました。しかし、彼の宣教の重心は異邦人伝道に向かいました。少なくとも、このアンテオケにおけるシナゴーグでの奉仕は中断せざるを得ませんでした。

A異邦人宣教は、神学的に、また、実際的にキリスト教のグローバル化を齎した:
ここで、意識的に異邦人伝道にギアチェンジしたことが、キリスト教を、一民族的の宗教から世界宗教に転換させる結果を生みました。ユダヤ人の拒絶こそが福音が世界に広がっていくための踏み台となったのです。「彼ら(ユダヤ人)の違反によって、救いが異邦人に及んだのです。」(ローマ11:11)キリストの贖いの事実の中に福音の普遍性は意味されていたのですが、それがグローバルな宣教と言う形を取るために、神はこの悲しい出来事を「益」として用いなさったのです。本当に神の知恵とご計画の深さを思いますと、頭を垂れざるを得ません。

B異邦人宣教の実践は、周り回ってユダヤ人の救いを齎す:
パウロは、世界中の異邦人がキリストの福音によって変えられ、喜びに満たされることがユダヤ人のねたみを呼び起こし、それが彼らの救いとなって跳ね返ってくると信じていました(ローマ11:11)。「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。・・・彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。』」(ローマ11:25−31)。この預言は、実際に歴史の中で実現しつつあります。

・アンテオケ教会の基礎メンバーが入信:
48節の「永遠のいのちに定められていた」とは、ある人々は滅びに定められていて、ある人々は救いに定められているという予定の教理を支持するものではなく、飽くまで個々人の自由な信仰を基礎としながら、それは、神の予知なさることだと言っている、と私は解釈します。ともかく、かなりの数の異邦人がキリストを受け入れ、教会を形成し、さらにその人々が核となって福音がガラテヤ州全体に広がっていきました。
 
5.パウロたちは追放されるが・・・(50−52節)
 
 
「ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。 51 ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。 52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」
 
・ユダヤ人の扇動によってパウロたちは追放される:
さてパウロのアンテオケ伝道に話を戻します。ユダヤ人たちは、卑怯にも自分たちが迫害に手を貸すよりも、「神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。」のです。

・イコニオムへ:
パウロとバルナバは、やむを得ず、主イエスに教えられたように、証のために足の塵を払って次の場所へ向かいます。もちろん、アンテオケを見捨てたのではなく、信じる群れを残しての緊急避難です。それは、この旅行の帰り道にもう一度アンテオケに立ち寄ったことからも伺えます(14:21)。さて、次の場所は、アンテオケから「皇帝街道」を南東に向かって150kmのところにあるイコニオムでした。ここも、北方を巡る別な街道との合流地で、ガラテヤ州の大切な拠点でもありました。(再度地図参照)

・アンテオケ信徒たちは、聖霊による喜びに満たされて前進:
このような厳しい状況で誕生し、指導者を直ぐに失ってしまったアンテオケ教会ではありましたが、彼らは、信仰から離れることなく、むしろ聖霊による喜びに満たされて前進していました。何という慰めでありましょうか。
 
終りに:一つの道の行詰まりを他の道への突破口と変える神の御手を信じよう
 
 
私たちの人生には、挫折や行き詰まり、人の悪意によって主の働きが妨害されてしまう事態と言うものがあります。それにぶつかると、私たちは、失望したり、祈りは答えられないという虚しさを感じてしまったりします。しかし、このパウロの伝道旅行の出来事で教えられることは、一つの道の閉塞は、より大きな道に私たちを導くよすがとなりうるということです。主の大いなる摂理の御手をあらゆる事柄に認め、信じ、喜んで進んで行きましょう。
 
お祈りを致します。