礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年9月14日
 
「信仰によるきよめ」
使徒の働き連講(42)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 15章1-21節
 
 
[中心聖句]
 
  8,9   人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
(使徒の働き 15章8-9節)


 
聖書テキスト
 
 
1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。18 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』19 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。20 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。21 昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」
 
はじめに
 
 
前回は、パウロとバルナバが、彼らの派遣母体であるアンテオケ教会に戻り、報告を行った記事を学びました。特に、神が伝道旅行を行った使徒たちと共にいて、彼らの業を助けてくださったこと、もっというと、彼らを通して、ご自身が働いてくださったことに焦点を当てました。彼らは母教会であるアンテオケ教会で十分な休息を取っていましたが、その時に大変な問題が起きました。それがキリスト教会全体の問題となって、それを解決するための会議がエルサレムで開かれるのですが、その記事をかいつまんでお話しします。
 
A.エルサレム会議のきっかけ(1―5節)
 
1.割礼派の画策(1節)
 
 
「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。』と教えていた。」
 
・教会に「割礼派」がいた:
アンテオケ教会で休息していたパウロとバルナバ、そして教会の信徒たちに困ったことが起きました。それは、エルサレム(ユダヤ)からアンテオケ教会を訪問した人々が迷惑な教えを始めたからです。「あなたがたは、主イエスを信じるだけでは不十分だ。救われるためには、先ず、割礼を受けて宗教的にはユダヤ人になる必要がある。」と。

・彼らは異邦人伝道のあり方に危機感を覚え、阻止しようとした:
この人々は、異邦人教会を次々と建設していったパウロの働きを耳にしていたのでしょう。その働きの中心地であるアンテオケに乗り込んできて、その働きを阻止しようとしました。この動きはガラテヤ2:12に記されている「ヤコブから遣わされた割礼派の人々」と重なっています。この人々の別働隊がガラテヤ諸教会を巡り歩いて同じ教えを説き、生まれたばかりの信徒達を惑わしていました(ガラテヤ1:7,4:17)。彼らが教会外の人間ならば対応は易しかったかもしれませんが、主イエスに従うと自分で考え、他人からもそう思われている人々が「異なる福音」を述べたことに問題性がありました。
 
2.問題解決の努力(2−3節)
 
 
「そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。」
 
・激しい論争と対立が生じた:
パウロとバルナバは、割礼派の行動と主張を容認することができませんでした。「激しい対立と論争」が生じたのは当然です。教会には、譲って良い些細な問題と、譲ってはいけない生命的な問題があります。初代教会における「割礼」問題は、信仰の根幹に関わるような「譲れない」問題でした。救いとは、(神の側から言えば)キリストの贖いに現れた恵みのゆえに、(人間側から言えば)信仰だけによって与えられるものであるのに、異邦人に対して割礼を受けてからクリスチャンになれと指導するのは、ユダヤ教の律法を守ることによって救われるという律法主義に福音をすり替えるものだ、というのがパウロの主張でした。

・アンテオケ教会代表団がエルサレムに向かう(地図参照):
この「割礼派」の人々も、自分たちの主張は、キリスト教の総本山であるエルサレム教会の主張であると確信していましたから、その対立は解けるどころか深刻になって行きました。両者が合意した一点は、この解決のためにエルサレム教会の使徒たちと長老たちとの話し合いが必要であるということでした。そこで両者はエルサレムに向かいます。パウロとバルナバというコンビに加えて、アンテオケ教会の長老が数人同行しました。彼らは、アンテオケ教会の皆さんに祈りと旅費の応援をもって見送られ、恐らく海路でツロに向かい、そこから陸路でエルサレムに登ります。道々(ツロがその中心である)フェニキヤ地方、その南のサマリヤ地方を通ります。ただ一目散にエルサレムに向かったのではなく、キリスト信者たちに、宣教報告をしながら旅を続けます。彼らは、福音が異邦人の間に広まっている様子に驚き、そして、神を賛美します。

 
3.エルサレムに到着(4−5節)
 
 
「エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、『異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。』と言った。」
 
・エルサレムで歓迎される:
パウロとバルナバは、エルサレム教会によって温かい歓迎を受けます。アンテオケ教会に於けると同様に「神が彼らとともにいて行なわれたこと」の故に、共に神を賛美します。

・パリサイ派信徒が難題を出す:
二人の報告によって主の聖名を讃美していた教会の雰囲気に水をかけたのが「パリサイ派の者で信者になった人々」でした。空気が読めないというか、頑固というか、ともかく面倒な人々です。ところで、使徒の働きの前半には、信徒となった人々の様々な背景が記されています。6:7を見ると「多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」とあります。また、コルネリオ家に訪問したペテロに同行した人々の中に「割礼を受けている信者」がいたこと(10:45)、その報告を聞いてペテロの行動を非難したのも「割礼を受けた者達」(11:2)であったことが記されています。この表現は、事実割礼を受けていたすべてのユダヤ人を指すのではなく、割礼の大切さを殊更に強調するグループのことなのです。教会における彼らの存在は、保守的なユダヤ人もひきつける初代教会の魅力の大きさ、懐の深さを示していますし、同時に、福音の本質を理解しないままの人々を仲間に入れてしまった問題点をも示しています。
 
B.エルサレム会議(6−21節)
 
1.会議の招集(6節)
 
 
「そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。」
 
・メンバー:
使徒・長老たち=ここから、正式な会議が始まります。これは、教会が形成された後に正式に開かれた会議の最初のものです。4世紀にニケア会議、5世紀にカルケドン会議など、重要な教理が論じられる会議が行われますが、エルサレム会議はその最初です。メンバーは使徒たちと長老たちでした。パウロたちは正式メンバーではなかったようです。

・議題:
議題は、「異邦人キリスト者に割礼を義務付けるべきか否か」でありました。副次的に、異邦人クリスチャンとユダヤ人はどのように交わることができるかも問題でした。
 
2.会議における論争(7節a)
 
 
「激しい論争があって後・・・」
 
・激しい、しかし率直な論争:
会議以前にも激しい論争が行われていましたが、会議が始まってからもそれは続きました。日本人は「和を持って貴しとなす」文化ですから、公の論争を好みません。論争があるとしてもそれは蔭で根回し的に行われ、実際の会議ではシナリオ通りに議事が進んで、質問もなく、反対も無く、議長が「賛成の方は、拍手してください。」というと、大多数が拍手して終わるという「会議」が多いのです。この場合、反対の意見を持っている人はどうすれば良いのでしょうか。全く黙殺されてしまいます。しかし、この教会会議で「激しい論争」があったことは、教会の成熟の証であると思います。激しい論争になっても、殴り合いは起きなかった、席を蹴って出ていく人もいなかったのです。互いの違いを真剣にぶつけあったのです。
 
3.ペテロの声明(7節b−11節)
 
 
「ペテロが立ち上がって言った。『兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
 
議論が尽きた頃、使徒ペテロが立ち上がります。そして「聖霊のお働き」について、説明を致します。会議の参加者は静かにその説明に耳を傾けます。

・神の摂理が働き、異邦人は神の声を聞いた:
ペテロは、神の摂理が働いて、ペテロを通して異邦人が神の声を聞いた、その物語を始めます。

・コルネリオははっきり救われ、きよめられた:
ペテロ自身、異邦人に対して大変な偏見と誤解を持っていたことを正直に告白します。このペテロの告白は、「割礼派」の信徒たちの心を開く効果を持っていました。神がペテロの偏見を打ち破り、「私たち(ユダヤ人)と彼ら(コルネリオに代表される異邦人)とに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださった」と、コルネリオへの聖霊の注ぎの出来事を思い出させます。

・救いの原則:
ペテロは、コルネリオの救いに関連して二つの大切な原則を表明します。@救いは徹頭徹尾信仰によるという原則です。人間の行いによるのではありません。もしそうならば、ユダヤ人は律法を持っているから有利になるわけですが、神はユダヤ人と異邦人の区別をなさいません。9節の「何の差別もつけず」という言葉が鍵です。A救いはただ一方的な神の恵みによるという原則です。11節「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」もし救いが一方的な神の恵みによるとするならば、私たちの誇るところはなくなります。これを見ると、パウロが後に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と救いの原則を纏めていますが、この点で、ペテロとパウロは一致しています。

・異邦人を束縛するな:
律法という、ユダヤ人自らも負い切れない重荷を、異邦人に負わせようとする営みが、どんなに非現実的、非福音的、破壊的なものであるかを強調して、ペテロは演説を終えます。
 
4.バルナバとパウロの証(12節)
 
 
「すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。」
 
・キプロス島やルステラでの奇跡の証:
ペテロの証言で白熱していた会議に水が入ります。その時バルナバとパウロが、異邦人伝道の時実際に起きた奇跡について証言を加えます。特にキプロス島での奇跡、ルステラでの奇跡などを話します。これは、どんな議論に勝るサポートです。
 
5.ヤコブによる締括(13−21節)
 
 
「ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。『兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃虚と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。』」
 
・異邦人は神の恵みの中にある:
ここでヤコブが登場したことが大切です。主イエスの弟のヤコブは、教会の二本柱の一角として尊敬されていました。同時に、保守派のクリスチャンからは、その代表と見なされていました(例えばガラテヤ2:12)。そのヤコブが、異邦人は神の恵みの中にあると発言したものですから、割礼派クリスチャンも納得せざるを得ませんでした。

・それは、アモスも預言している:
ヤコブはここでアモス書を引用します。「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。」(アモス9:11−12)。つまり、イスラエルが回復される時、異邦人も共に回復される、と預言されているのです。

・異邦人クリスチャンの自由を認めよう:
ヤコブは、ペテロやパウロの行き方を支持し、異邦人クリスチャンの自由を認めようと提案します。これは福音の本質に関わることですから、保守的傾向の強いヤコブさえも、その自由を認めざるを得ませんでした。

・ただ、交わりのため最低限の決まりを求めよう:
しかし、福音の自由を認めつつ、彼は保守的な考えで生きているユダヤ人クリスチャンへの配慮も提案します。それは、異邦人クリスチャンであっても「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けること」をお願いすることでした。これは、足して二で割るような妥協案ではありません。原則を堅持しつつ、実践における配慮を求める、正に牧会的配慮です。これらの決定がどのようになされたか、また、世界中に伝達されたかは、次回学ぶことにしましょう。
 
終りに:信仰によって救われ、きよめられるという単純な真理を確認しよう
 
 
8−9節のペテロのことばに戻りましょう。

・人の心を知り給う神を認めよう:
神は私たちの深い部分、人に知られないところで考えていることを全部ご存知です。それは私たちを裁くためではなく、赦し、きよめる為です。

・神は差別なさらない:
人間の中にはまじめな性格的の人もおれば、いい加減な人もおり、人間色々です。でも神はすべての人を愛し、同じ条件で救い給います。

・救いの条件は信仰のみ:
その条件とは信仰です。他の条件だったら差別が起きます。信じるという単純な心の営みは、誰でもできる、いや、誰でもしていることです。その信仰を贖い主、キリストに向けるだけで良いのです。

・御霊を与えて、心をきよめ給う:
信じる時、神は私たちに聖なる御霊を与え、全ての罪からきよめてくださいます。今日その恵みを受け取りましょう。
 
お祈りを致します。