礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年10月26日
 
「マルコを巡る対立」
使徒の働き連講(44)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 15章30-41節
 
 
[中心聖句]
 
  39   激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて船でキプロスに渡って行った。
(使徒の働き 15章39節)


 
聖書テキスト
 
 
30 さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。31 それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。32 ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。33 彼らは、しばらく滞在して後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところへ帰って行った。35 パウロとバルナバはアンテオケにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、宣べ伝えた。
36 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。41 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。
 
A.エルサレム会議とその後(30-35節)
 
 
「さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。彼らは、しばらく滞在して後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところへ帰って行った。パウロとバルナバはアンテオケにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、宣べ伝えた。」
 
1.エルサレム会議の論点と結論
 
 
・直接の争点:
異邦人クリスチャンに割礼は必要か否か=前回は、教会における最初の会議であるエルサレム会議の経緯についてお話ししました。会議の直接の争点は、異邦人クリスチャンに割礼は必要か否かでした

・本質の争点:
福音とは何か=しかし、問題の本質はもっと深く、福音とは何かということが争点でした。つまり、救いを齎すものは神の恵みにより、私たちの信仰によるのか、それとも、人間側の善行によるのかという深い問題でした。

・結論:
救いは、恵みにより、信仰による=幸い、救いは、恵みにより、信仰のみによるという原則と、実践においては、異なる文化の人々に配慮するという決議がなされ、代表団が選ばれ、公式の手紙が託されたというところで先回は終わりました。
 
2.代表団の旅行と奉仕(地図参照)
 
 
・アンテオケ教会の喜び:
手紙を託されたパウロ、バルナバ、ユダおよびシラスの四人は、エルサレムを離れて約600km北にあるアンテオケに向かいます。アンテオケに到着した四人は、教会の人々を集めて、手紙を手渡しました。アンテオケ教会は、この手紙の内容とメッセージを大きな安堵と感謝をもって受け取りました。これは単に、自分たちの主張が通ったという軽いものではなく、福音の本質が正しく捉えられ、宣言されたという安心です。また生活面から言えば、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとが食卓において自由に交われるという保証でもありました。

・代表団の奉仕:
代表団は、単なる伝達者ではなく、福音の恵みを伝える説教者でもありましたので、今日の言葉でいえば、特別な聖会を開き、説教を致しました。アンテオケ教会の人々が恵まれたことは言うまでもありません。ユダとシラスは間もなくエルサレムに帰りましたが、パウロとバルナバは、母教会であるアンテオケにとどまり、他の多くの人々と共に、主のみ言葉を教え、宣べ伝えました。この二人がどのくらいの期間留まったのかは記されていませんが、その長さは、ごく短期間でもなく、また、間延びがするような長逗留でもありませんでした。
 
B.第二次伝道旅行に出発(36-41節)
 
 
「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。」
 
1.出発の経緯
 
 
二人は、仲良く奉仕を共にし、交わり、そして、伝道旅行にもう一度出発しようという段になりました。それを言いだしたはパウロでした。その目的は、先に訪れた場所を再訪して、出来上がったばかりの教会を励まそうということで、この点は全く問題ありませんでした。しかし助手として誰を連れて行こうかというところで大きな意見の違いと、論争が起きてしまいました。
 
2.マルコをどう扱うか?
 
 
・バルナバ:
「セカンドチャンスを与えよう」=バルナバは言いました。「マルコは伝道旅行の途中で脱落し、迷惑をかけた。でも今は悔い改めているし、セカンドチャンスを与えるべきだ。このままでは、彼の生涯にも傷が付く、彼を贖いという牧会的配慮で扱うべきだ。私は彼を第二次伝道旅行のメンバーリストに加えたいと思う。」

・パウロ:
「献身の不徹底な人は連れて行けない」=これに対してパウロが言いました。「そんな甘い考えは駄目だ。伝道は真剣勝負だ。のるかそるかの伝道旅行は、テストじゃないんだよ。」

バルナバも負けてはいません。「そんな考えが牧会者である君の口から出るなんて思っても見なかった。贖罪的な見方を人にしなさいと言っている普段の君の主張と矛盾するじゃないか。是非連れていこう。」 パウロも譲りません。「いや駄目だ。君は大体親戚には甘いよ。伝道の厳しさが分かっていない。」こんな論争が続いて、言わば喧嘩別れになりました。
 
3.二人の別行動
 
 
・バルナバ:
マルコと共にクプロ島へ(地図参照)=バルナバは、マルコを連れて船に乗り、第一次伝道旅行の第一の伝道地であるクプロ島に向かいます。

・パウロ:
シラスと共にシリヤおよびキリキヤへ=パウロは、エルサレムからもう一度戻ってきた預言者のシラスを選び、陸路(第一次伝道旅行で、長期間を費やした)シリヤおよびキリキヤを通り、小アジヤ(現在のトルコ)地方に出かけます。このシラスの選任は大きな益を齎しました。シラスは、エルサレム教会の信任を得ていましたから、パウロの奉仕がエルサレム教会との関連で行なわれるとの印象を与えました。また、シラスは預言の賜物を持っていましたから、パウロの代わりに説教することもできました。もうひとつ、シラスはローマ市民権を持っていましたから、ローマの諸都市を巡るのに大変有利でした。こうしたことも、パウロとバルナバが別行動を取った副産物といえましょう。
 
4.二人の論争の評価
 
 
さて、皆さんは、バルナバとパウロのどちらが正しかったと思いますか?皆さんがパウロまたはバルナバの立場に立ったら、どうなさいますか?とても難しい問題ですね。

・短期的:
パウロが正解(シラスの良き奉仕、ヨーロッパ伝道の成功)=短期的にいえばパウロが正解だったと思います。マルコでなく、預言者でもあるシラスを伴ったお陰で効果的なヨーロッパ伝道を成功させ、ヨーロッパにおける教会の基礎を築くことができたからです。

・長期的:
バルナバが正解(マルコを回復させた)=しかし長期的にはバルナバが正解でした。目覚ましい成果は挙げなかったかも知れません(或いは記録されていないだけかも知れません)が、マルコをしっかりと回復させたという点では、パウロのなしえない働きをしました。

・両方が正しいかも?:
つまり、どちらも正しかった、どちらの道も祝された訳です。喧嘩をした二人は、聖霊に満たされていなかったのでしょうか?私は、両方とも御霊に満たされていたと思います。一つの疑問が湧きます。御霊に満ちていれば意見の相違は起きないのでしょうか?私は、人間の個性が違うように、その意見にもバラエティがあると思います。あってよいのです。 要は、正しいスピリットで意見を持ち出し、進んでいくことが大事なのではないでしょうか。
 
C.マルコの足跡
 
 
さて、この出来事の後のマルコの足跡は「使徒の働き」には出て来ませんが、折々のパウロの手紙、そしてペテロの手紙に言及されているところからマルコの姿の足跡を辿ってみたいと思います。
 
1.第二次伝道旅行前
 
 
その前に、マルコのそれまでの足跡を見ます。

・母マリヤの信仰の影に育った若者:
マルコの母マリヤは、主イエスのために最後の晩餐の場所、そして、昇天後の祈りの家を提供した信者でした(30年)。その家は、ペテロが投獄された時、その救出のために祈る祈り会にも使われました(44年)。「ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(12:12)

・第一次伝道旅行への同伴と脱落:
バルナバとパウロがエルサレムを訪れた時、彼らに伴ってアンテオケに行きました(45年)。「任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。」(12:25)。そして同年、第一次伝道旅行に助手として参加して、直後に離脱したのです(46年)。何が理由であるか書かれていません。色々な憶測が成り立ちますが、一つだけ言えるのは、誰が見ても納得できる正当な理由ではなかった、ということです。ここまでは、この連講でもお話ししました。
 
2.パウロと共に投獄(59年頃)
 
 
・コロサイ書:
さて、その後の消息ですが、59年に記されたコロサイ教会宛てにパウロが書いた手紙の中で、「私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。--この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。---」(コロサイ4:10)と記されていますから、第二次伝道旅行の始め(49年)にパウロに見捨てられてから僅か10年後に、そのパウロの牢獄(とは言っても、この時は借家に軟禁)に共に住むまでに関係が回復し、信頼を得ていたことが分ります。

・ピレモン書:
「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」(ピレモン24)ここでも、自ら牢に入り奉仕してくれるマルコを見ます。それだけでなく、パウロの意図を汲んで、ローマからコロサイへの使者として旅立とうとしていました。パウロの大きな信頼を見ます。

 
3.ペテロに同伴(64年頃)
 
 
ローマでの投獄の5年後くらいにペテロが書いた手紙の中で「私の子マルコ」と記されていますから、ペテロにも用いられていたようです。「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。」(1ペテロ5:13)更に、140年頃の教会指導者パピアスは、「マルコはペテロの通訳としてあちらこちらに伝道旅行をし、マルコ伝を執筆した」と述べています。ペテロの説教は主イエスの行いと言葉を簡潔に述べる単純なものであったと考えられますが、その記録がマルコ伝になった訳です。主は色々な環境をその貴い御目的のために用いなさいます。

 
4.パウロの最期に立ち会う(67年)
 
 
時代を戻して、パウロの絶筆であるテモテへの第二の手紙(67年)の中で愛弟子のテモテに向かって、「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(2テモテ4:11)と言っています。パウロが最後に信頼したのは、皮肉かも知れませんが、かつてパウロを見限り、パウロも見限ったマルコだったのです。マルコは「役に立つ男」という形容詞で呼ばれました。世界一の宣教師から、その生涯の最後に「彼は役立つ男」と呼ばれるとはなんという光栄でしょう。
 
終わりに:自分に対しても、他人に対しても、限りなく希望を持とう
 
 
・自分に対して:
マルコは、生来気弱で、役立たずの人間だったかも知れません。信仰を持てからもそれが尾を引いて、失敗続きであったかも知れません。どうか私達は自分に対して、「私は駄目なんだ」というレッテルを貼らないようにしましょう。 性格的に、体力的に、知的に弱さを持っていたとしても、主はその弱さを用いてみ業を進めなさいます。過去どんなに大きな失敗を犯してしまったとしても、失望することはありません。神は役立たずの人間をお造りになりませんでした。神の贖いの恵みを信じましょう。

・他人に対して :
その真理は、私たちが他人に対する態度にも反映されます。私たちの周りにいるどんな人でも、仮に、気弱に見え、役立たずに見えるような人物であったとしても、その人に駄目だといってレッテルを貼らないようにしましょう。どんな人でも、神の傑作品です。何らかの目的を持って神が造られた貴重な存在なのです。その価値を私たち人間が神に変わって否定し、潰してしまうことほどの傲慢を持ってはなりません。謙りましょう。
 
お祈りを致します。