礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年11月16日
 
「主は心を開かれる」
使徒の働き連講(46)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 16章9-15節
 
 
[中心聖句]
 
  14   主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
(使徒の働き 16章14節)


 
聖書テキスト
 
 
9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。
 
はじめに:「聖霊のストップ」の果てに(地図参照)
 
 

前回は、パウロの第二次伝道旅行の始まりに纏わるエピソードを学びました。アジヤで巡回を続けようとしていたパウロ一行は、あちらでもこちらでも「聖霊のストップ」にぶつかり、迷いつつ迷いつつアジヤの西端のトロアスにまでたどり着きました。
 
1.マケドニヤの叫び(9−11節)
 
 
「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。」
 
・マケドニヤ人の幻:
「私たちを助けてください!」=トロアスに着いた夜、パウロはマケドニヤ人が彼の前に立って「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願している幻を見ます。大きな切迫感をもって自分たちを罪の奴隷状態から解放してほしいと叫んでいるのです。パウロと一行は、この幻が「マケドニヤを含むヨーロッパへの福音の招き」であると確信して直ちに出発します。これは最初のヨーロッパ伝道であり、その後のキリスト教歴史の方向性を決めるほど重大な意味を持った出発でした。

・サモトラケ→ネアポリス→ピリピ(エグナティア街道経由):
一行は早速船に乗り、(現在の)ダーダネルス海峡を渡って、対岸のサモトラケ島を経由して、港町ネアポリスに着きます。ネアポリスは、イルリコ地方に続くエグナティア街道の始点なのですが、そこには留まらず、その街道を通ってピリピに向かいます。
 
2.ピリピという町(12節)
 
 
「それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。」
 
・パウロの宣教戦略:
主要な街道沿いの主要な町に教会建設=パウロの宣教戦略は、大きく言いますと、ローマ帝国の主要な街道に沿って進むこと、そして、主要な町に留まってそこに宣教の基地となるような教会を建設することでした。その戦略に従って、マケドニヤの中心的な都市であるピリピに滞在することにしたのです。

・ピリピの歴史
▼マケドニヤ王フィリポスが建設(BC4世紀):
さて、そのピリピは、ギリシャの北方マケドニヤ地方(州)の第一の都市(首都はテサロニケですが、あらゆる面で抜きんでていたという意味の第一)です。泉が多くあること、交通の要衝であること、金鉱に近いことから町として発展していました。BC4世紀半ばに、アレクサンドロス大王の父・マケドニヤ王フィリポス(馬を愛する男)が市街を整備し、彼に因んでフィリパイと名付けられました。
▼アントニウス・オクタビアヌスvsブルータス・カシアスの戦い(BC42年):
ユリウス・カエサルが暗殺された後に、カエサルの後継者であるアントニウス・オクタビアヌス連合軍が暗殺者であるブルータスとカシアスの連合軍と戦うのです(BC42年)が、その戦闘がフィリパイ郊外で行われました。アントニウス・オクタビアヌス連合軍が勝ちます。
▼ローマ植民都市に:
そのオクタビアヌスが初代ローマ皇帝となるのですが、このフィリパイの町をローマ軍の駐屯地と定め、自治権と免税特権を与えました。住民はローマ市民権を持ち、ローマと同等の扱いを受けるようになりました。
 
3.河畔の祈り会(13節)
 
 
「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。」
 
・ピリピのユダヤ人社会:
10家族以下で、会堂は無かった=それまでパウロは、新しい町に着くとユダヤ人会堂に入って、その安息日礼拝を利用して福音を伝えるのを戦略にしていましたが、ピリピではそれが出来ません。ユダヤ人の人口が10家族以下という僅かなものでしたので、会堂がなかったのです。10家族以上いたとすれば、それぞれの家族が忠実に十分の一の献金を会堂に献げ、それによって会堂管理の一家族の収入を支えることが出来たからです。

・川岸の祈り場(ピリピ遺跡図参照):
ガンギテス河畔で説教=さて、会堂が無い町のユダヤ人は、川のほとりで安息日毎に祈り会をすることを習慣にしていました。この習慣を知っていたパウロは、最初の安息日の朝、川の傍に言って見ました。その川とは、町の西側を流れるガンギテス河であったと考えられます。案の定、祈りを捧げている婦人たちを見つけて、それに加わりました。祈祷会に加わったパウロは、ユダヤ教のラビの服装をしていましたから、当然目立ちました。早速、聖書のメッセージをと頼まれました。待ってましたといわんばかりにパウロは口を開き、聖書の希望は、来るべきメシアにあること、そのメシアは既においでくださり、十字架による身代わりの救いを成し遂げ、甦っていける救い主として聖霊によって信じるものの心に住んでおられることを諄々と語りました。

 
4.ルデヤの入信(14−15節)
 
 
「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。』と言って頼み、強いてそうさせた。」
 
・神を恐れるルデヤ:
テアテラ本社の紫布販売会社々長=この福音に対して真剣に耳を傾けていたのが、ルデヤというアジア人女性でした。ルデヤは、小アジアの西側、エペソとトロアスの中間にあるテアテラ市に本社を持つ紫布販売会社の社長でした。紫布というのは、特殊な貝殻(或いは、アカネという植物の根)をすりつぶして作った染料を用いる当時の最高級ブランド生地でした。トップセールスウーマンとして、買い付けや販売のために各地を歩いていたのでしょう。この女社長は、商売に長けていただけではなく、「神を敬う」女性でした。金持ちは多くの場合無神論に走り易いのですが、ルデヤは違いました。真剣に眞の神を求め、そのために、ユダヤ教にも関心をもって、彼らの礼拝に加わっていました。正式にユダヤ教に帰依するところまでは行かないが、いわば求道者として忠実に礼拝に参加していたのです。

・心開かれたルデヤ:
彼女の求道心と聖霊のお働きがマッチ→バプテスマ=そのルデヤの心が「主によって開かれ」たのです。パウロが語っていたとき、この人の語ることには真理があると確信を持ったのです。彼女の心にパウロの語る一言々々が吸い取り紙に吸い取られるインクのようにしっかりと入り込んでいきました。主を求める求道心と、聖霊のお働きがマッチしたのです。私は、「主が心を開いて」という14節の句が好きです。人々が信じるのは、無理な説得や脅しや折伏によるのではありません。聖霊が静かに魂の中に働き、その人が心を開いて進んで主を救い主として受け入れる、これが本当の伝道です。伝道者は真剣に御言を伝えます。魂のために祈ります。しかし、人の心の扉をこじ開けて信じさせるのは、正しい道ではありません。心開かれた彼女はその場で主を信じ、家に戻った後で、家族にも福音を伝え、皆でバプテスマを受けました。

・ルデヤの協力申し出:
ルデヤ家が教会に=バプテスマを受けたルデヤは、パウロ達の宿泊所がどこかを尋ねます。パウロの一行が(多分)安宿に泊まっていたことを発見したルデヤは、パウロ達に自分の家を宿として提供しました。パウロは遠慮しました。ご婦人の家に男たちがごろごろ居候するのは評判が悪いと思ったのでしょうか。でもルデヤは強いて彼らを泊まらせました。旧約時代にも、預言者エリシャのために宿を提供したシュネムの女性がいたことを思い出しますね。いずれにせよ、ピリピ伝道の成功は、このルデヤの回心と協力によったのです。彼女は一時的な宿を提供しただけではなく、誕生したばかりの教会の集会所として自宅を使い続けました(使徒16:40)。パウロが、ピリピ教会の信徒たちは福音を広めた初めの頃協力してくれたと語っています(ピリピ1:4)が、ルデヤを念頭においていたことでしょう。私達が仙台で開拓的な働きをしていたとき、主は「ルデヤ」を起してくださいました。医者の奥さんでAさんとおっしゃいます。車の屋根につけたスピーカーの案内を通して伝道会に来られ、数回出席した後で主を受け入れました。心の傷を持っておられ、そこからの平安を求めておられたのです。そしてAさんは教会の柱となられました。神様は色々なところに「ルデヤ」を備えておられます。
 
おわりに:心を開き給う主に、私たちも心を開こう
 
 
先週、私たちは川嶋直行先生をお迎えしてウエルカム礼拝とジョイフルアワーを持ちました。主が豊かに語って下さり、感動しました。皆さんも同じと思います。主は、説教者を通し、聖書のみ言葉を通し、直接間接に私たちの心に働いておられます。私たちの心に暖かい愛の風を吹き込んでいてくださいます。でも、最終的に心を開くのは私自身の決断です。ホルマン・ハントが描いた絵を思い出されるでしょうか。いばらの冠をかぶった主イエスが、外に立って戸を叩いておられる絵です。主は心の戸をこじ開けなさいません。私たちの側で、どうぞお入りください、と戸をあけ放つステップが必要なのです。皆さんは、心を開かれましたか。
 
お祈りを致します。