礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年11月30日
 
「すべての点で同じように」
アドベント第一聖日に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヘブル人への手紙 2章9-18節
 
 
[中心聖句]
 
  17   神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
(ヘブル人への手紙 2章17節)


 
聖書テキスト
 
 
9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
 
はじめに
 
 
今年のアドベント第一聖日を迎えました。クリスマス迄の4週間、期待の心を持って過ごしたく願います。今日は、クリスマスの一番大切な課題「なぜ神が人となられたか」と言う問題に絞って、へブル書2章から学びます。

へブル書はそのタイトルのように、ヘブル人(ユダヤ人)クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。厳しい唯一神信仰で育てられたユダヤ人にとって、人であるイエスが神であるという真理を受け入れるのは、易しいことではありません。ですから、へブル書記者は、「なぜ神が人となられたか」或いは、「なぜ人であるイエスが神であるのか」という大きな命題に取り組まねばなりませんでした。この問題に直接言及している幾つかの箇所を先ず拾って概観しましょう。
 
A.へブル書に見る「受肉の目的」
 
1.神の最終的啓示者となるため(1:1−3)
 
 
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」
 
多くの預言者たちが神の御心を伝えましたが、その最終的で、完全な形での語り手が御子キリストでした。そのために、神が人とならねばなりませんでした。
 
2.苦難の救い主として完成されるため(2:9−10)
 
 
「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。・・・彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた。」
 
救いは、苦しみを通して完成されました。そのために御子は人となられたのです。
 
3.人と同じ血肉を持つ兄弟となるため(2:14−18、5:8−10)
 
 
「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。・・・神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、・・・とこしえの救いを与える者となり」
 
罪を背負う肉体的な、そして精神的な苦しみを経験されるためには、人とならねばなりませんでした。この項目は後半に詳しくお話しします。
 
4.弱さが分かる大祭司となるために(4:15−5:2)
 
 
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。・・・彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」
 
大祭司は、弱さを持つ人の側に立って、その弱さを思い遣りつつ、神の前に執成しをします。キリストは、その大祭司となりました。
 
5.自分を生贄とするために(9:26、10:5)
 
 
「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。・・・キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。』」
 
完全な贖いを成し遂げるために、キリストはご自分を生贄として捧げる用意にと肉体を取られました。
 
6.受肉によって得た人間理解を永遠に保つため(4:14、16)
 
 
「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのです・・・私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
 
苦難を通して勝ち取られた大祭司職を今でも保って私達のために取りなして下さっています。受肉の時に取られた人間性は、十字架の死と復活によって完全に放棄されたのではなく、今でも、人を理解するために人間性の心を保っていてくださいます。今年の聖化大会の講師であるロナルド・スミス博士は、復活の体を保ち給うキリストが聖化の保証であるという趣旨の講演をしてくださいました。私の心に深く留まりました。
 
B.2:17の思い巡らし
 
 
へブル書全体の受肉観を見ましたので、今日のテキストである2:17を思い巡らしたいと思います。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」と言うみ言葉の中から、3つの点を取り上げます。
 
1.キリストは、憐れみ深い大祭司
 
 
・祭司とは:
イスラエルには、三種類の指導者がいました。政治的な指導をする王様、神の言葉を人々に伝える預言者、そして、人間の側に立って神に対して執成す祭司です。そのいずれも、認職の時には油を注がれるのですが、その三職を兼ね備えて「油を注がれたもの」をヘブル語では「メシヤ」(MESSIAH<マーサーは「油を注ぐ」)、ギリシャ語では「クリストス」χριστοsと言います。その方が救い主として旧約聖書に予言された方です。主イエスは、王であり、預言者であり、そして、祭司でありました。

・憐れみ深い題祭司:
祭司は人の側に立つ、と言いました。勿論、神の側に立って、神の律法、神への礼拝、神の正義と憐れみを人々に教えるという務めもあります。しかし、礼拝において、祭司は人の側に立ちます。人の側に立つとは、その弱さ、苦しみを代表するということです。人の苦しみを経験した者として理解し、同情しうる立場に立つことです。祭司は、人々が律法を破ったことで生まれる罪責感を、生贄を通して除きます。
 
2.キリストは、全ての点で人間
 
 
・人間としての誕生:
主イエスは、何の変哲もない普通の赤ちゃんとして誕生されました。クリスマスカードの絵などでは、その顔には光の輪が付いていたりしますが、実際は、どこの誰ともわからないようなフツーの赤ちゃんでした。

・人間としての生き方:
その育ち方も、普通の子どもとして育ちました。後に造られた神話では、イエスさまが泥をこねて鳩を作ったらその鳩が羽ばたいて飛んで行ったそうですが、まゆつばです。イエスは、隣近所にいたガキどもと遊びながら成長して行かれたと思います。

・貧しさの憂い:
イエスの家庭は、決して豊かではなかったと思います。マリヤの夫ヨセフは若くして他界したようで、イエスが12歳になり、一緒に上京した記事があるだけで、後には登場しません。イエスは、お父さんが亡き後の家計を支えるために、大工の仕事を黙々と続けられました。晩御飯のおかずに雀二羽を買うお使いをやらされたこともありました。

・人間としての喜び:
成人して、公のミニストリーに入られた後も、冗談一つ言わない謹厳実直なイメージではなくて、弟子たちとの飲食を楽しみ、軽口を語る普通の大人でした。弟子たちにあだ名を付けるユーモアもお持ちでした。

・人間としての苦しみ:
もちろん、その生涯の特色は、悲しみと苦しみでした。人々から背かれたことは何度もありました。5千人が奇跡のパンに与かり、喜びに満たされた後に、イエス様を王と立てようとします。主はそれを避けて、自分は天よりのパンとして、人々に食されるのだと宣言した途端、人々は失望して去って行きました。12弟子以外の多くの弟子も、躓いて去って行きました。あからさまにイエスに逆らったパリサイ人から、石打ちにされそうになったことも数多くありました。

・人間としての死:
そして最後の最後には、何の罪もないのに、当時の最も厳しい刑罰である十字架刑に処されました。

・纏めとして:
私たちのすべての経験に、主の足跡がある=主イエスは「すべての点で兄弟たちと同じようになられた」のです。これってすばらしいことではありませんか。つまり、私たちが辿っている人生経験の中で、主イエスが経験なさらなかった分野は一つもない、と言うことなのです。健康の弱さを体験しておられる方、疲れやすくなった方、大きな痛みを経験された方、色々おられると思います。その時、主はそのすべてを経験し、弱さと痛みを耐えなさったお方だと思い出しましょう。人から捨てられる、誤解される、苛められるという目に遭っておられる方、恐らく私たちが経験する何倍もの辛さを主は経験なさいました。お金がないってことはこんなに辛いのかと経済的な困難に直面しておられる方、主もまた、貧しき憂い、生きる悩みをつぶさになめてくださった方であることを思いだしましょう。最後に歌う「いつくしみ深き」は、まさにその恵みを歌っています。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、・・・」(イザヤ63:9)とは、エジプトの奴隷状態を共感された神を想起させます「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地・・・に、彼らを上らせるためだ。」(出3:7-8)その時、神は、イスラエルの悩みをご自身の悩みとして受け取りなさったのです。受肉は、苦しみの共体験への道を開きました
 
3.なだめの供え物となる
 
 
・なだめの供え物とは:
よく私たちの日常会話では、帰りが遅くなった旦那さんが、怒っている奥さんの怒りを鎮めるために、お土産か何かを持参するときに使われます。しかし、この聖句では、怒れる神の怒りを鎮めるというイメージではありません。ここで使われている動詞は、ギヒラスコマイで、文字通りには「誰かと和解させる、なだめる」です。この語群は、「贖いの蓋」(ヘカッポーレト)と言うヘブル語に由来しています。贖いの蓋に、生贄の血を振りかけることでイスラエルの罪を除き、きよめるという思想を表すのが動詞のキッペルです。そのキッペルをギリシャ語訳(70人訳)聖書はヒラスコマイと訳しています。「神の正義が要求する刑罰を、正しい方法で解決するための生贄をささげること」と理解できましょう。私たちは、神は限りない愛のお方と知っています。しかし、それは、どんなことをしても、無条件に受け入れる甘いお父さんのイメージではありません。神は、愛のお方ですが、同時に正義のお方です。私たちの罪と背きには、厳格に対処なさるお方です。だからこそ、旧約聖書には、繰り返し動物の生贄制度が強調され、保たれてきました。そして、最後に、そして完全に、キリストはご自分を生贄として十字架で捧げられたのです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ53:4)のです。贖いの恵みを感謝しましょう。

・完全な生贄によって、全くきよめられる:
キリストが捧げられた完全ないけにえによって、私たちは全くきよめられます。へブル書10章はそのことを力強く論証し、宣言しています。その二か節を読んで終わります。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(10:10)、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(10:14)
 
おわりに:すべてを知り給う大祭司イエスに呼ばわろう
 
 
私たちが苦しむ時、主はともに苦しんでくださいます。イエスは同じ苦しみを通り「分かっているよ」と語ってくださいます。子供が苦しみに遭うとき、親はそれ以上の苦しみを経験するのと同じように、主イエスは私達の苦しみを共に経験されるのです。苦しみを知っておられる主にすべてを打ち明け、救い給う主を信じ切り、担い給う主に委ね切りたいと思います。
 
お祈りを致します。