礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年12月7日
 
「卑しい者に目を留め給う主」
アドベント第二聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書1章46-56節
 
 
[中心聖句]
 
  46-   わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
(ルカの福音書1章46-48節)


 
聖書テキスト
 
 
46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。
 
はじめに
 
 
・アドベント第一聖日(へブル書より):
「神はなぜ人となられたか」=昨聖日は、アドベント第一の聖日として、「神はなぜ人となられたか」と言う命題でお話ししました。へブル書全体、特に2章から、「神はすべての点で私たちと同じになられた」という真理を学びました。そこに表れているのは、神の遜りという思想です。

・アドベント第二聖日(ルカ伝より):
「神が恵み給う人」=今日は、「人の遜り」という角度からクリスマスの恵みを捉えたいと思います。主イエスのお誕生にまつわる人々、ヨセフとマリヤ、サカリヤとエリサベツ、羊飼いたち、シメオンとアンナ、そして博士たちの人柄と行動を観察して共通的に言えることは、彼らが非常に遜った人々であったということです。その中でも、際立って謙った女性であるマリヤとその賛歌を今日は取り上げます。/td>
 
A.マリヤについて
 
1.名前の意味
 
 
マリヤと言うのは、モーセのお姉さんミリヤムのギリシャ的発音です。ミリヤムの意味が、「太った」とか「強い」というヘブル語のマーラーから来ているのか、或いは「愛された」というエジプト語マリエーから来ているのか、定かではありません。ただ、BC1世紀、ヘロデ大王が、祭司の娘マリアムネを妻にしたことから広がって、当時のイスラエル女子の一般的な名前になったと言われています。
 
2.家系
 
 
マリヤの家系がどんなものであったかは、よく分かりません。ただ、ダビデ王の血を引いているだけではなく、その正当な家系にあったヨセフと婚約していたことから、その親戚筋に当たる、つまり、マリヤもダビデ王の家系にあったということは容易に想像できます。ただ、婚約者のヨセフが、当時の社会的地位から言えば低かった大工であったことなどから、先祖の栄光とは全く関係のない、それどころか、いわば、零落した状況にあったことは確かです。
 
3.住まい
 
 
マリヤの家族は、イスラエルの中心からはるか北のガリラヤ地方のナザレ村で生活していました。後になって、主イエスが人々の注目を集めたとき、弟子候補のナタナエルが「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)と言って、一顧だにしようとしなかったことからも、ナザレと言う村は、いかに辺鄙な寒村とみなされていたかが分かりましょう。
 
4.人柄
 
 
後に述べますように、彼女は重大な告知を頂いた後、旧約聖書のハンナの讃美を復唱しています。それも、そのままの引用ではなく、彼女なりに消化したものとして賛美しています。如何に聖書に親しみ、それが彼女自身の血肉となっていたかを示しています。聖書に親しむことによって培われた謙遜な品性が彼女の人柄でした。
 
5.ヨセフとの婚約
 
 
マリヤは、同じ村のヨセフと婚約しました。ユダヤにおける婚約は、今日の婚約よりもはるかに強固な関係でした。当時の習慣として、男性は18−20歳、女性は12−14歳くらいが適齢期とされていました。婚約の過程は、@両家の合意から始まり、A花婿側から花嫁の父への花嫁料が支払い、B両家の発表というものでした。その後一年間は、それぞれ両親のもとで別居し、その後盛大な結婚式を挙げて共に生活をするという習わしでした。ヨセフとマリヤのケースは、正式な婚約が発表されており、法的にはマリヤは「妻」でした。ルカ2:5には「いいなずけの妻マリヤ」という表現がある通りです。しかし、この期間は、互いの行き来は殆どなく、まして、体の交わりは全く考えられませんでした。
 
6.受胎告知
 
 
御使いガブリエルがマリヤに現われ、彼女が身ごもって男の子を生むこと、その子をイエスと呼ぶべきこと、そして、その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれ、神である主が彼にその父ダビデの王位をお与えになること、その国は終わることがない(32−33節)と告げられます。子どもが生まれること自体が驚きなのに、その子が何と、人々の待ち望むメシヤだというのです。喜びと不安が混じったような複雑な思いのマリヤでした。

どうしてそれが可能かを訝るマリヤに対して、ガブリエルは、それが聖霊によることを告知します(35節)。マリヤは素直に「私は主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と、それを受け入れます。
 
7.エリサベツを訪問
 
 
この人生最大の問題に直面して、マリヤは、そのことを打ち明ける相手として、親戚であるエリサベツの家を訪ねます。少なくとも二日がかりの旅行であったと考えられます。そのエリサベツは、マリヤの来訪を喜び、神の約束の真実さを讃美いたします。こうした物語は、ルカだけが記録しているのですが、恐らく、ルカが主イエスの物語を編纂した時、マリヤ自身とインタビューして得た直接の記録を元にしたからと考えられます。
 
B.マリヤの賛歌(マグニフィカート)
 
 
今日のテキストである46−56節は、エリサベツの讃美への応答としての賛歌です。この「マリヤの賛歌」はその出だしである「あがめる」という言葉のラテン語から、マグニフィカートと呼ばれています。
 
1.ハンナの賛歌との類似
 
 
この歌の特徴は、マリヤから千年も前に、不妊であったハンナに子供(サムエル)が与えられたとき、感謝の心をもって歌われた歌と並行しているという点です。特に下記二つの節をマリヤのそれと比べてみてください。

・神の偉大さを賛美:
マリヤは言います、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです・・・力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」(46−49節)と。これに比べてハンナは、「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」(1サムエル2:1−2)と讃美しています。大変似ています。

・神による逆転:
マリヤは「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」(51−53節)これもハンナの賛歌と似ています、「主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。」(1サムエル2:7−8)神が人間の立場を逆転なさると言う発想が共通です。

マリヤは、ハンナの賛歌を良く学び、覚えていましたが、ハンナの賛歌をそっくり復唱したのではなく、自分なりに消化した物として歌ったのです。
 
2.謙ったものに目を留め給う神
 
 
・マリヤは、自身の低さを自覚:
マリヤの賛歌と、ハンナが歌った参加とが似ている点を見ましたが、違う点があるとすれば、マリヤの遜りです。ハンナは勝利感に満ちて歌いました。マリヤは遜って、静かにその喜びを述べました。48節でマリヤは「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(直訳=主は、そのはしための低くされた状態を顧みて下さった)と語り、自分の卑しさを告白しています。52節では、「低い者を高く引き上げ」給う主を讃美しています。38節で「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と自らを低くしています。この「はしため」とは、女奴隷のことです。主人の喜びを喜びとして生きる従属的な姿勢を表しています。嫌々従う態度ではなく、神への信頼と愛の故の服従です。また、マリヤが自分を「いやしい」と言っているのは、彼女が何かまっとうではない仕事や立場を持っていた訳ではなく、聖なる神の前に出るときには、真に小さく、卑しいものだと自覚していることを表します。マリヤは考えました、「こんな卑しい者なのに、目を留めてくださる神の恵みは何と大きいことか」と。でも神の側から言うと、「あなたは卑しいと自覚しているからこそ恵みを注ぐのだ」とお思いになったのでしょう。その謙遜の故に、マリヤは救い主の母として選ばれたと私は思います。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(1ペテロ5:5)

・イスラエルの望みなき状況を確認:
マリヤは、自分が低い状態にあるだけではなく、イスラエル全体も卑しい状態に置かれていると認識していました。54節には「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」低くされた者の代表として、イスラエルが引き合いに出されています。イスラエルは今や外国に蹂躙されています。その王家であるダビデの末裔も貧しげな暮らしをしています。しかし神はイスラエルを祝福するという約束をお忘れにならないで、救いの御手を伸べようとしておられます。
 
おわりに
 
 
・自分の小ささを認めよう:
自分を卑しいと感じたマリヤよりも、私たちはさらに卑しいものです。人間は元々偉大なる神の御目から見れば、卑しく小さい、虫のような存在に過ぎません。自分が低い、卑しいものという自覚は、神を畏れる真実な畏れへと私達を導きます。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇 8:3、4)と。現代の社会は、遜りと反対の誇りの時代です。教育の誇り、民族の誇り、富の誇り、社会的地位の誇り、社会的な知識や科学技術の誇り、などなど、私達は神なしに何でも出来ると考えがちです。誇りこそ現代の大きな病です。

・主の憐れみを感謝しよう:
神は卑しいと自覚しているものを顧みなさいます。詩篇を二つ引用します。「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。」(詩篇 113:5―8)「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」(詩篇138:6)マリヤが、自分の卑しい状態を自覚した時、主は彼女に「目を留めてくださった」のです。卑しい状態なのに、というよりは、卑しい状態だから、と言ったほうが正確でしょう。顧みるとは、最も優しく同情的な態度で好意的に見て下さるということです。その理由は私の中にある価値ではなく、単純に神の親切と愛の故なのです。主は謙るものを顧みなさいます。貧しい羊飼い少年から王になったダビデのことを考えましょう。ダビデが偉かったからではなく、全くその逆で、謙った人間であったが故に、主は彼を愛し、受け入れ、豊かな恵みを約束されたのです。このクリスマス、マリヤのように心からの遜りをもって主のみ前にでて、心からの献身と感謝をささげましょう。
 
お祈りを致します。