礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年12月21日
 
「インマヌエルの恵み」
聖誕聖日を迎えて
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書1章18-25節
 
 
[中心聖句]
 
  23   見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイの福音書1章23節)


 
聖書テキスト
 
 
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
 
始めに
 
 
クリスマスおめでとうございます。内外共、沢山の課題を抱えつつではありますが、ともかく無事にクリスマスを共に祝う幸いを感謝したいと思います。

この日、誕生された救い主について、このマタイの記事は三つの名前を紹介しています。

・職名:キリスト=「油注がれたもの」(ヘブル語ではメシヤ)
・個人名:イエス=「救うもの」(ヘブル語ではヨシュア)
・預言的名称:インマヌエル=「神共にいます」(ヘブル語の「インマ」は共に、「ヌー」は私達と、「エル」は神)です。このお名前が実際に使われることはありませんでしたが、彼の称号として言及されています。)

今日はその第三の名称で、私達の教団の名称ともなっている「インマヌエル」について、その恵みを学びたいと思います。
 
A.インマヌエル――イザヤへの恵み
 
1.イザヤ時代(BC8世紀後半)の課題
 
 
・超大国アッシリヤの脅威:
イザヤが生きた時代は、中東の超大国アッシリヤが強大な軍事力をもって周りの国々を呑みつくし、エジプトまで征服して、世界帝国を作ろうとしていた時代です。

・小国ユダの悩み:
「反アッシリヤ同盟」に入るか否か?=パレスチナの小国ユダは、このアッシリヤの脅威の下でガタガタ震える小鳥のような存在でした。ユダの王アハズはアッシリヤと戦う気を持たず、アッシリヤにすり寄って何とかその存在を確保しようとしました。他方、ユダの北にあるイスラエルとその北にあるアラム(シリヤ)は、反アッシリヤ連合を作ってアッシリヤと対抗し、その連合に入るようにユダを誘います。ユダはその誘いに乗らず、アッシリヤに密かに使いを送り、その両国を背後から攻めてくれと、誠に卑怯な手だてを講じます。怒ったイスラエル・アラム連合軍は、ユダを滅ぼしてその力を大きくしようと攻め寄せてきました。この絶体絶命の危機がイザヤ書7章のインマヌエル預言の背景です。
 
2.インマヌエル預言の意義
 
 
・イザヤの主張:
神のみに頼る中立=宮廷預言者であったイザヤは、この時、政治的な権謀術数に力を注ぐのではなく、活ける真の神にのみ頼って中立を保つことを主張します。

・インマヌエルという奇跡的な子どもの誕生:
お前は現実を知らない理想主義者だという批判に答えて、イザヤは「神がおられるから大丈夫」と確信に満ちたメッセージを送ります。その証拠は何かと問われたとき答えたのが、「インマヌエル」と呼ばれる子どもの誕生予告です。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)神が共におられることを象徴的に示すものが「インマヌエル」と呼ばれる子どもの誕生だというのです。更に、その子どもが大きくなる前にアラム・イスラエル連合軍は滅ぼされるというのです。神は、遠いところから支配をしておられるだけではなく、内在者として、私たちの政治の中に、社会の中に、家庭の中に、心の中に働いておられるというメッセージを含んだ言葉です。詩篇138:6には、「真に、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。」と記されています。何という励ましでしょうか。
 
3.インマヌエルとは誰か
 
 
・おとめから生まれる:
その不思議なるは「おとめから生まれる」とイザヤは言います。この「おとめ」とはヘブル語でアルマーで、必ずしも処女と限定的に訳されず、未婚の女性をさす広い意味です。しかしこの場合、子どもの誕生が「徴」または奇跡として与えられる、という点から、処女と受け取って良いと思います。それはヘブル語の聖書がギリシャ語に翻訳された時(つまり70人訳で)アルマーにパルテノス(処女)という言葉が当てられたことでも支持されます。マタイが引用したのは、このギリシャ語訳でした。

・彼はメシヤである:
インマヌエルと呼ばれる子どもが、イザヤ時代に生まれた誰かに当てはめられるという議論が聖書学者によってなされていますが、私は、その奇跡性から考えて、「来たるべきメシヤ」の予言とストレートに受け取ります。実際のメシヤ誕生は700年後だったのですが、それがイザヤの時代とどう繋がっているのでしょうか。

・彼の存在は励ましとなる:
預言者は時間を乗り越えて歴史を見ます。イザヤは、信仰的展望によってメシヤ誕生を既定の事実として先取りしました。かれはそれを神がこの世界に干渉なさるというメッセージとして受け止めて民を励ましたのです。神が臨在し、働いて居られるなら、私達のなすべきことは、そのお方に信じ依り頼むことしかないではないか、これがイザヤのメッセージだったのです。実際に彼は、このメッセージをもってその時代を救いました。
 
B.インマヌエル――ヨセフへの恵み
 
 
1.ヨセフへの励まし
 
 
・ヨセフの悩み:
さて、イザヤ預言から700年後、インマヌエル・メッセージを与えられたヨセフに話が飛びます。ヨセフは、この時大いに悩んでいました。婚約者マリヤが子どもを孕んでいるという知らせが来たからです。身に覚えはありませんから、一体相手は誰だろう、マリヤをどう扱えばいいのだろう、これは男ならば誰でも悩む問題です。しかもそのマリヤは、ヨセフにとってかけがえのない将来の伴侶者として愛していたからなおさらです。

・解決:
「聖霊によって懐妊!」=夢でヨセフに顕れた主の使いは、「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と、ヨセフの悩みに完全解決を与えました。同時に、それが、イザヤの預言の成就であることも知らされました。

・大きな励ましと喜び:
その子どもは「インマヌエル」=私は、マタイの記したインマヌエルに関するコメントは、ヨセフの知識の外にあったものではなく、主の使いのみ告げの中に意味されていたものと思います。つまり、マリヤは聖霊によって処女でありながら懐妊した、その子どもはイザヤが預言したインマヌエルと言う子ども、メシヤそのものであると理解できたのです。ヨセフは、この喜びをもってマリヤを妻として受け入れ、同じ屋根の下に生活しながら、宝石を扱うように尊敬と貞節をもって扱いました。驚くべきことです。それは、ヨセフが稀有のジェントルマンだったというよりも、イスラエルが待ち望んでいた救い主誕生の当事者となることができた、という霊的な喜びによって、そのように振舞うことができたのです。
 
2.ヨハネの証言(ヨハネ1:14)
 
 
・神が人となった:
イエスの弟子ヨハネは、イエスと一番近くにいてその生きざまを見た男です。彼は証言しました。「ことば(永遠者である御子の神)は人となって、私たちの間に住まわれた。」と。ヨハネは信じました。神は遠く存在するおかたではなく、われらの内にすみ、生きていてくださったのだと。人としてわれらを理解して下さるお方なのだ、その意味でキリストはインマヌエルなのだ、と。

・恵みとまことの充満:
ヨハネは続けます。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と。ヨハネは、主イエスの生きざまと言葉と行いのすべてを通して、神の独り子としての栄光、恵み、圧倒的な愛を見たのです。
 
C.私たちへの励まし
 
1.共におられるキリスト
 
 
・主イエスの臨在(マタイ28:20):
主イエスは、33年間、私達が住んでいるこの汚れた世界に共に生き、本当の愛を示し、最後には私達の罪の身代わりとなって十字架に付けられました。十字架の死から三日後に復活し昇天されましたが、その昇天直前にメッセージを残されました。「見よ。私は、世の終わり迄いつもあなた方と共にいます。」(マタイ28:20)と。

・聖霊の内在(ヨハネ14:16、17):
イエスのこの約束は、信じるものに宿りなさる聖霊の臨在という形で実現しています。ヨハネ14:16、17に「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」と記されているとおりです。
 
2.聖徒たちの証
 
 
・ジョン・ウェスレー:
ウェスレーは、信じるものが神の子とされたという確証を得るという教えを父から受け、それを自ら経験し、その証の中に生き続けました。1791年、88年の生涯を閉じて最期を迎えたウェスレーの様子がこう記されています。「回りに集まった友人達に『祈り、賛美して下さい』と求め、彼らの祈りに対して熱心に『アーメン』とこたえた。彼は、彼らの手を握り『さようなら、さようなら』と言った。彼は残された力を振り絞って『最善の事は、神が私達と共にいて下さることである』(“The best of all, God is with us.”)と叫んだ。それから勝利の徴として、衰えた手を上げ、弱々しい声を挙げて『最善の事は、神が私達と共にいて下さることである』と心を奮い立たせるような言葉を繰り返した。」

・蔦田二雄師:
第二次大戦中、軍事政府の弾圧によって2年間投獄され、独房での生活を送られた蔦田二雄先生は、その孤独の最中に、神共にいますという真理をより鮮明に、深く捉えました。それがインマヌエル教会の始まりでした。「獄中日記」と言うパンフレットの中に、巣鴨の拘置所での冬の経験がこう記されています。「空も土も凍てつくかと思われるほどの酷寒続き、正に厳冬である。夜半ふと目を覚ます。白銀のような月光が天井からひじかけ辺りまでの細長い鉄窓の磨りガラスに照り込んでいる。どこからも声がしない、れいごの夜半である。・・・じーっと窓の光に見入っていると、四方の鉄筋の囲みは消散し、心魂はこれら地上のあらゆる拘束を越えた開放と自由の意識に満ち満ちる。冷たい細い鉄窓は、世と俗とを離れて、ひたむきに神への精進を重ねる修道院の色ガラスの窓に化する。・・・行く手如何に成り行くかは別として如何に貴き一時かな。」
 
おわりに:神共におられた一年の恵みを感謝しよう
 
 
この一年、神はすべての場面で、すべての場所で、私たちと共におられました。旅をするときも、病の中を通過するときも、人々と交わっている時も、奉仕をしているときも、平凡な日常生活の最中にあっても、家族のだんらんの中にあっても、或いは、大きな試練を通過している時も、神は私たちと共にいてくださいました。

大きな希望をもって来年を展望しておられる方、反対に、暗い展望しか持てず落ち込んだ気分で年末を迎える方、色々でありましょうが、何はともあれ、主が共にいてくださると確信して、この年末を迎えたいものです。神が共にいます保証が馬小屋に生まれなさった幼子主キリストです。主を讃美しましょう。

 
お祈りを致します。