礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2014年12月28日
 
「水や火の中でも、主は共に」
年末感謝礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書43章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  2   あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
(イザヤ書43章2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。6 わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
 
はじめに:2014年の回顧
 
 
2014年が、あと三日余りで終わろうとしています。私はいつもの習慣で、1月1日の日記から一日毎の出来事を振り返りつつ、一年間の総括をし、感謝を捧げ、来年を展望する時を持っています。この年を纏めて言いますと、使い慣れた言い回しではありますが、個人的にも、教会においても、また、日本・世界においても、「事の多かった年」であったことを深く感じます。

世界的には、地球温暖化の影響でしょうか、洪水、暴風雨、豪雪などの被害の回数と規模が年々増加しているように思います。それに火山活動などが加わり、地球はいつまで持つのだろうかという危機を感じた年でした。イスラエル・ガザ紛争、シリア内戦、ロシア・ウクライナ紛争、イスラム国を巡るテロ事件の多発、某国によるサイバー攻撃など、以前の紛争と質の異なるトラブルが噴出しています。国内でも、表面的には平穏に社会が進んでいるように見えながら、内側には多くの危険なマグマを抱えながら過ごした一年でした。

そのような一年を振り返りつつ、私の心をよぎった聖句は、イザヤ43:2の主のお約束でした。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

まずイザヤ43章を大きく掴んで、それから2節の意義を考えたいと思います。
 
A.「輝いている」43章
 
1.宝石のような諸聖句(4、7、19節など)
 
 
43章には、有名な言葉が散りばめられています。たとえば4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」は、最近の伝道説教で一番多く登場します。7節「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」も、私たちの人生目的を指し示す言葉として有名です。19節の「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」などは、新年のみ言葉として多くの人を励まします。
 
2.テーマは「出バビロン」の約束
 
 
イザヤ書後半部分(40−66章)のテーマは、イスラエルがバビロン捕囚から釈放される「出バビロン」なのですが、その約束を明確な形で示しているのが43章です。1節は、「だが」から始まっていますが、これは、42章の終わりに預言されているイスラエルへの厳しい裁き(特に24−25節)という思想を受けての「だが」であります。裁きを受けたイスラエルには、神から大いなる恵みが注がれます。それは、イスラエルが何らかの価値を持っているからではなく、一重に神の一方的な恵みによります。
 
3.創造者、贖い主である神(1、7節)
 
 
43章の最初の数節には、神がどんなお方であるかの自己紹介がなされます。これを読んだだけでも大いに励まされ、恵まれます。いくつかに目を留めます。

・創造者:
1節の冒頭は、「あなたを造り出した方」から始まります。特にイスラエルを形作られた主としての主権が主張されます。7節はさらに、「私の名で呼ばれるすべての者は、私の栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」と記しています。

・贖い主:
1節の後半には、「(贖い主=親戚として、他を犠牲にしてでも)私があなたを贖ったのだ。」と主は宣言しておられます。4節は、イスラエルを徹底的に贔屓なさる言葉です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神の民として選ばれ、愛されたイスラエルの民なのに、彼らはその神から離れ、偶像に走り、道徳的には誠に腐敗した生活を送っていました。そしてその刑罰として、国の破滅と言う恐ろしい体験を致します。しかし、落ち込んでいるイスラエルを励ます言葉が、「あなたは高価で尊い」なのです。イスラエルのようなダメ民族をも神は愛し、守り、導かれるというのがイザヤのメッセージなのです。私達も、みんな罪だらけの生活をしていました。そんな私をI love you.とおっしゃって、十字架にかかってくださったのがキリストの愛です。

・守護者:
2節に進みますと、神はイスラエルに対して守護者であることを宣言されます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」私達を造り、贖いたまうた神は、私達を守り給います。今日はそこに焦点を当てたいと思います。
 
B.民を守り給う神(2節)
 
 
1.イスラエルは艱難を通過する
 
 
そのイスラエルが、「水の中を通り、川を渡り、火の中を歩く」と言われます。それは、民族として、困難や危険を通過することを意味します。これは、民族が体験している、或いは体験するであろう苦難や危険の象徴的表現です。具体的には、下記の事柄が含まれていると思われます。

・捕囚の苦しみ:
詩篇137篇には、捕囚の辛さ、悲しさがしみじみと歌われています。その1節から6節を引用します。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え。』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。」

・帰る道すがらの困難:
バビロンから釈放されても、旅路の困難が待っていた筈です。バビロンからエルサレムまではおおよそ千キロの旅です。半砂漠地帯でもありましたから、困難は察するに余りあります。大きな川も渡らねばなりませんでした。特に橋のなかった頃ですから、川を歩いて渡る以外には向こう岸につけなかった訳です。

・帰還後の困難:
聖地に戻ってからも、バラ色の生活が待っていた訳ではありません。むしろ、その逆でした。神殿を再建しようとしては妨害され、城壁を立て直そうとしては攻撃を受けました。捕囚中にパレスチナに移り住んだ人々、また、近隣諸国から嫉妬され、攻撃されるという困難は数限りなく続きました。その後もローマ帝国からの圧政があり、エルサレムが再度破壊され、イスラエル民族が世界中に散らされるという悲劇が起きました。そのユダヤ民族を壊滅させようとした迫害は現代に至るまで続いています。

これらのすべてが「水の中、火の中を通る」体験でした。つまり、ユダヤ人がその時も、また、その後の歴史の中でも体験し続けた、差別、迫害、苦難全体を指しているのかもしれません。
 
2.艱難の中に共に居給う主
 
 
・「からの」救いよりも、「中での」救い:
この2節をよく読みますと、こうした艱難の数々に遭わないように守るとか、艱難の中から救い出す、という表現ではなく、艱難の只中にあって共に居給う主であることが約束されています。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と約束してくださいます。必ずしも、困難と試練の中「からの」救いが約束されている訳ではありません。試練と困難の中での救いです。もっとも、詩篇66:12には、水の中、火の中からの助けが歌われておりますので、神の助けは一様ではありません。「あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」いずれにせよ、その艱難の只中に主が共にあって助け守ってくださるのです。

・ダニエル三青年:
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ=「炎がもえつかない」という約束の成就の例は、ダニエルの友人の三青年です。ダニエル書を読みましょう。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。『私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。』彼らは王に答えて言った。『王さま。そのとおりでございます。』すると王は言った。『だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。『シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。』そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。・・・この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。」(ダニエル3:23−27)このような例がないわけではありませんが、イザヤがここで述べている「火」とは、文字通りの火というより、試練を比喩的に指すものでしょう。

・艱難の只中で勝利したパウロ:
パウロも、艱難の只中にあっての勝利を歌っています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35−37)私達のだれも、患難の中から救い出されることを願います。それは答えられることもありますし、答えられないこともあります。どちらにしても確かなことは、主は共に居てくださるということです。
 
おわりに:今年を振り返って
 
 
・私達が通過した試練:
私達も、目に見える形で、目に見えない形で、「火の中、水の中を」を通り過ぎた一年であったと思います。私自身も健康の戦いから始まって、教会のこと、教界のこと、色々な戦いを通りました。

・主の臨在は確か:
しかし、感謝したいことがあります。そのような中を通っていた時も、主は共にいてくださったということです。その道を許しなさるのは主ご自身であり、そして水の中、火の中に「あっても」共におられることを示してくださいました。今「あっても」と言いましたが、正確には「水の中、火の中だからこそ」共にいてくださった、と言うべきと思います。何も問題のない時は往々にして、主の存在を忘れがちです。ですから、主は深い御心をもって試練を許しなさいます。そしてその時、主のご臨在を深く感じるのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」 (詩篇23:4)。

・品性の実を期待する:
そして、試練の中を通り過ぎるものだけが持つことの出来る品性の実が与えられることを期待したいと思います。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(1ペテロ1:6)

・感謝と期待:
感謝をもって一年を締め括りましょう。来年も、どのような試練が待ち構えているか分かりませんが、主が共にいて大いなる業をなしてくださるという期待をもって新しい年を待ち望みましょう。
 
お祈りを致します。