礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年1月4日
 
「立ってベテルに行き」
年頭礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
創世記35章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  1   神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」
(創世記35章1節)


 
聖書テキスト
 
 
神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」
ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現われたからである。
 
はじめに:2015年の課題
 
 
明けましておめでとうございます。私たちは、2015年が色々な意味で区切りの年であることを意識しています。日本が戦争に敗れ、新しいスタートを切ってから70年経ちました。教団も、終戦の年に誕生してから70周年を迎え、3月には記念大会を持ちます。きよめの諸教派・教会が共同して聖書的きよめを証しするために日本聖化協力会(前身は日本聖化交友会)を結成して30周年を迎え、10月に記念大会を持ちます。暦とは人工的なものですから、年数に特別な意味はありませんが、私たちが振り返る大切な区切りとなりうることも確かです。

日本の政治も、70年の節目でいわゆる「戦後からの脱却」という言葉が特定の方向と意図を持った人々によって使われ、押し進められようとしています。私たちは決して油断してはならないと感じます。世界も、超大国がどのような意図をもってどのような方向に進むか、それらを他の国々が、或いは連携し、或いは抑制しという行動ができるかが大きな課題です。

そのように、色々な意味で節目と感じられる年の初めに思い巡らされているのが、主がヤコブに与えなさった「立ってベテルに上り・・・そして祭壇を築きなさい。」というみ言葉です。この言葉の背景から思い巡らしたいと思います。
 
A.ヤコブの生涯における「ベテル」
 
1.ヤコブの家庭と問題
 
 
・ヤコブの家庭(地図@参照):
ヤコブは、イサクとリベカの間に生まれた双子兄弟の弟です。彼らの住まいは、カナンの地の南端ベエル・シェバです。そこでヤコブは、お母さんっ子として育ちました。一方兄のエサウは狩りが好きで、もっぱらの山を駆け巡る青少年時代を過ごしました。

・家督を巡る二度の「ごまかし」;
家で豆を煮ていたヤコブの所に、腹を空かせて帰ってきたエサウが、一杯の豆スープと引き換えに家督の権を売ってしまったことが二人の争いの始まりです。それを決定的にしたのが、イサクの祝福の祈りです。ヤコブは、母リベカの勧めもあって、エサウに変装し、盲目になっていた父イサクから祝福の祈りを頂いてしまいます。
 
2.ハランへの逃走
 
 
・ベテルの経験(地図A、および絵図@参照):
二度も騙されたエサウは怒りに燃えて、ヤコブを殺す機会を狙うようになります。それを知ったリベカは、ヤコブを自分の故郷のハランへと送り出します。その独り旅の第一日目(或いは二日目)の夜、石を枕に野宿していたヤコブに主が現われ、旅の安全と旅先での祝福を保証します。ヤコブは大いに力づけられ、その場所をベテル(神の家)と名付けます。

・ハランでの生活(地図@再度参照):
ハランにたどり着いたヤコブは、伯父であるラバンの家に居候することになりました。やがて、ラバンの娘レアとラケルを妻とし、更に彼らの侍女ビルハとジルパも側室として、11人の男の子、1人の女の子を設けます。狡賢い伯父のもとでこき使われながら艱難辛苦の末、ひと財産を築いて愈々故郷へ向かうことになります。

・ラバンとの決別(地図@再度参照):
故郷へ向かうのは、彼がハランに到着してから20年余り(30年近く)経った時のことでした。この時も、伯父ラバンとひと悶着ありました。ハランを出発する時、挨拶もしないで出たことに腹を立てたラバンがギレアデまで追いかけてきて娘たちを連れ戻そうとします。しかし、これも主のご干渉によって何とか乗り切ることができました。
 
3.ハランからの帰還
 
 
・エサウとの和解(地図Aおよび絵図A再度参照):
ヨルダン川の支流であるヤボク川に来たとき、兄のエサウが武装して出迎えに来たとの知らせを聞きました。エサウはこの時カナンからはるか南東のセイルに住まいを定めていましたが、そこから遥々やってきたというのです。恐怖に陥ったヤコブは、ものすごい物量作戦で兄エサウにプレゼントを贈り、和解を成立させます。その前にヤボクの渡しで神と相撲を取る経験をします。自分の腿のつがいを外され、砕かれる経験をするのです。また、ヤコブの名前をイスラエルと変えられるという大きな転機も経験します。

・ディナを巡るトラブル(地図A再度参照):
ここでホッとしたのも束の間、カナンで一時的に住まいを定めたシェケムでまたトラブルにぶつかります。それは、娘ディナが土地の有力者の息子に見染められ、虜にされるという事件が起きたからです。義憤に駆られたヤコブの息子4人が策略を巡らし、シェケムの住民を襲って皆殺しにしてしまいます。ヤコブはシェケムに居られなくなって、南の方に居を移すことにしました。これが35:1の主のご命令の背景です。
 
B.「立ってベテルに上る」とは・・・
 
 
このような状況にあって、主はヤコブに現われ、ヤコブに告げます、「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」と。このみ告げは何を意味しているでしょうか。>
 
1.初心に戻ること
 
 
・主との個人的関係の原点に戻る事:
ヤコブは、それまでの山あり谷ありの生涯を通過して擦り切れてしまった心をリフレッシュする必要がありました。それは、ヤコブが初めて神と活きた関係を持った霊的経験の原点に戻ることでした。20年余り前、兄の怒りを買って一人寂しく旅に出た時、石を枕に野宿をしました。その夜ヤコブは、天から梯子が降りてくる夢を見、神の語り掛けを聞きました。神はいつでも一緒にいてくださること、守ってくださること、祝福してくださること、そしてこの土地に戻してくださることが約束されました。それまでは、ヤコブにとって、神は祖父アブラハムの神、父イサクの神でしたが、この経験を通してヤコブ自身の神となられたのです。その経験を覚えるために、ヤコブはその場所を「ベテル」(神の家)と名付けました。そのベテルに戻れという神の命令は、霊的経験の初心に戻りなさいという命令であったのです。

・私たちの「ベテル」は?:
みなさんは「ベテル」を持っていますか。そのベテルに戻る営みを必要としておられませんか。私はクリスチャンの家庭に育った、私は最初からクリスチャンだ、と思っておられる方もあると思いますが、私たちはクリスチャンの家庭に育ったことイコール自分はクリスチャンだとは言えません。主は、ニコデモにたいして、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と語られました。誰でも、聖霊による生まれ変わりを経験しなければ、本当の意味でクリスチャンとなることはできません。そして、折々、私たちはその原点に立ち戻る必要があるのです。
 
2.感謝の塚を立てること
 
 
・祝福の源である主を認める:
ヤコブが求められていたもう一つは、感謝の塚を立てることでした。ヤコブが故郷を離れたときは、全くの無一物、文字通り杖一本でのスタートでしたが、今や多くの家族(4人の妻と11人の男の子、1人の女の子)、多くの家畜を抱えるまでになっていました。その間、伯父のラバンに騙され、苦しめられつつも、それを乗り越える豊かな祝福を頂きました。ヤコブは、最初のベテルの経験で神と出会って、祝福を約束された時、私はベテルに戻って来て、祝福の十分の一を捧げると約束しました。

・感謝を態度で表す:
ですから、ベテルの祭壇を立てることは、感謝の塚を立てることと同じでした。最初のベテルで、十分の一を捧げると約束しましたから、何らかの形でそれを実行せねばならないとヤコブは考えました。ヤコブの感謝の内容は、兄エサウの怒りの手から逃れ得たこと、伯父ラバンの狡猾な仕打ちを乗り越えて祝福を与えられたことです。
 
3.霊的生活を立て直すこと
 
 
・崩れてしまった家庭宗教:
ベテルでの祭壇の構築は、彼の霊的生活の再構築をも意味していました。家庭宗教の乱れが、娘ディナを巡る不祥事や地域住民とのトラブルを生みました。家族の中に異国の神々が入り込んでいました。ヤコブの妻ラケルは、テラピムという家族宗教の偶像を密かに持っていましたし、側室や働き人の中には、ハランから携えてきた神々、カナンに戻った後に手に入れた神々が存在していました。

・祭壇の立て直し:
ですから、ベテルに戻るということは、崩れかかっていた家庭宗教を立て直すことを意味していました。ヤコブが「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。」と語ったのは、そのような背景があったからなのです。彼らは偶像を捨て、その身をしっかりときよめ(水で洗い)、新しい着物を着るべきでした。
 
おわりに:私たちも「立って、ベテルに上ろう」
 
 
ヤコブとは、具体的状況が異なりますけれども、私たちもそれぞれの立場で信仰生活の初心に戻り、感謝の塚を立て、霊的生活の祭壇を立て直させて頂きましょう。長い信仰生活の中には、ともすると、日々のデボーションが惰性になったり、デボーションそのものが疎かになったりし易いものです。また、神を知らない人々が大部分である世の中に生活しておりますと、彼らの考え方、習慣、価値観という物に影響されて、主のみ心を第一に歩む姿勢からずれてしまうことがあり得ます。一年の始めは、主の前に「祭壇を立て直す」絶好の機会です。献身を新たにして、この年を始めようではありませんか。

終わりの讃美は「主よ、終わりまで仕えまつらん」です。この讃美を、私たちの信仰と献身の告白として歌いましょう。
 
お祈りを致します。