礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年1月11日
 
「初めの愛に戻る」
教会総会に備えて
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの黙示録 1章9-20節、2章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  4,5   あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの行ないをしなさい。
(ヨハネの黙示録 2章4-5節)


 
聖書テキスト
 
 
9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。 2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。 3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
 
はじめに
 
 
2週間後には、当教会の第67次総会を迎えます。それに備えて、今暫く「使徒の働き」連講を離れて、教会とは何かを再考する時を持ちたいと思います。そのために今日は黙示録を開きました。
 
A.教会の主
 
1.黙示録
 
 
・宛先:
7つの教会(地図参照):黙示録とは、基本的には手紙です。それも、一般的なものではなく、アジヤ(今のトルコの西部)に存在する7つの教会に宛てられた手紙です。地図をご覧になると分かりますように、この7つは円周形で存在しており、この手紙を運ぶ人が飛脚のように一つ一つの町に立ち止まって、教会の人々に回覧してもらうことができるようになっていました。

・著者:
パトモスに流刑中の使徒ヨハネ=著者は使徒ヨハネです。その時、彼は(多分ローマ皇帝ドミティアヌスによる)迫害を受けてパトモスという島に流されていました(1:9)。パトモスとは、トルコ半島の南側・ロドス島という中規模サイズの島の西隣にある小島で、岩山で成り立っていて逃げ出すこともできない監獄のような孤島です。執筆時期はAD90年ごろと言われています。既に12使徒の殆どは召天し、ヨハネは、いわば最後の生き残りとして、ヨハネ伝、ヨハネ第一から第三の手紙を記しました。
 
2.栄光に満ちた主権者イエス
 
 
そのヨハネは、「主の日(つまり、日曜日)に御霊に感じ・・・ラッパの音のような大きな声を聞き」、そして主の語り掛けを聞きます。その時ヨハネは、教会の主として栄光の輝きに包まれた主イエスの幻を見ます。その詳しい描写については、聖書本文にある通りですので、敢えて再述しません。ただ、この方の描写として「七つ」という言葉が多く使われていますので、そこに注目します。彼は、

・「七つ」の金の燭台の真ん中におられ(12節)ます:
この燭台が教会を指すことは、20節に説明されています。

・右手に「七つ」の星を持ち給う主(16節)です:
星は、各教会の御使いと説明されています。御使いが、それぞれの守護天使を指すのか、或いは単に教会の代表者、つまり牧師を指すのか、注釈者の意見は分かれますが、私は後者が自然と考えます。
 
B.エペソ教会へのメッセージ
 
 
2章1-7節は、7つの中のトップバッターとして選ばれたエペソ教会に宛てたメッセージです。地図をもう一度ご参照ください。アジヤ州の中心的な都市で、教会はパウロによってAD50年代半ばに設立され、その後も指導的な教会の一つとして成長して行きました。
 
1.巡り給う主
 
 
・教会の擁護者、保護者、指導者、支援者:
1章の幻で見たように、主は「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」として登場します。つまり、教会の擁護者、保護者、指導者、支援者は主ご自身です。教会は、人の集まりでもありますから、色々な欠点や問題は存在します。しかし、そのことのゆえに、安易な批判や嘲笑的なコメントは慎むべきです。それは、教会の主を批判し、嘲笑することになるからです。もし、欠点や問題を見出したならば、謙った思いをもって、正しい方法でその是正を行うべきであります。

・教会の間を歩み給う主:
さて、その教会の主は、教会の間を歩み、知り給うお方です。私たち全ての営みや、隠れた奉仕をみな見て知っておられます。これは何と素晴らしいメッセージではないでしょうか。私たちが、誰も見ていない、或いは、誰も評価してくれないような奉仕をしていたとしても、主はそれをしっかりと見ていてくださり、評価してくださるお方です。私たちの奉仕の全ては、誰か人に対してのものでなく、始めから終わりまで、主に対してのものであることを覚えましょう。
 
2.誉められた点
 
 
・行ない、労苦、忍耐:
その主は、エペソ教会の「行ないと労苦と忍耐を知っている」と語られます。行いとは、普通の活動のこと、労苦と忍耐とは、活動における姿勢のことです。誰が知らなくても、主は細かく知っておられ報い給うお方です。これは、何という慰めでしょうか。

・ユダヤ主義者との戦い:
「また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。」これは、ユダヤ主義者たちとの戦いを示しています。パウロもこの人々との戦いに神経をすり減らしました。「悪い者たち」とは、キリストの福音ではなく、行いによる救いを伝えた人々のことです。彼らは、使徒と自称しながら、その実異なる教えを広めようとしていました。エペソ教会は、この偽福音を弁別し、彼らを譴責しました。

・グノーシス派との戦い:
「あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」これは、グノーシス派との戦いとさしていると思われます。グノーシス派とは、ギリシャ哲学を踏襲した人々で、人間の構成を、悪を行うものとしての肉体と善を行うものとしての霊との二つの要素に分けて考えました。肉体は悪であるがゆえに救いに与かることはできない、と言いつつ、罪を許容する生き方です。エペソ教会は、このような誤った教えに対しても譲歩することなく、正しい信仰を守りました。

・忍耐:
「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」先ほどの徳目の内、忍耐が再度掲げられます。エペソ教会の人々は、こうした異端の教えに対して、忍耐強く抵抗し、正統的な教えを保ちました。
 
3.非難すべき点
 
 
・主を真実に愛する愛からの逸脱:
「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」この非難は深刻です。エペソ教会は、奉仕において熱心であり、その教えの純粋さを保つ点においても真剣でありましたが、何よりも大切な「愛」において、無くなったとは言いませんが、初期に持っていた新鮮さと真実さを失っていたのです。「最初の」という言葉が強調されています。英語に直訳すると、the love of yours, the first oneとなり、日本語にすると「あなたの愛、あなたのその最初の愛」となります。この愛とは、主イエスに対する熱い、燃えるような愛のことです。復活後の主がペテロに対して「あなたはだれよりも(あるいは、すべてのものを愛する以上に)私を愛しますか?」と問われたあの至高の愛のことです。ですから、その愛から離れたとは、自然に愛が薄れて行ったというより、ある出来事を通して、意識的に「主を第一に愛するという献身的で真実な愛」から「離れた」のです。「神を愛する」と告白し、そう思っていながら、実際の生活では「兄弟を憎んでしまう」こともありました(1ヨハネ4:20)。信仰生活は続けていたものの、何物にも勝って主を愛する愛、自分よりも隣人を愛する愛においては、冷えてしまっていました。これは、目に見える堕落ではありませんでも、主の御目から見る「内面的な堕落」です。

・悔い改めの勧告:
ですから、教会の主はこう語ります、「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」愛するという状態からのずれは、どこか思い当たる時点からのものだ、と主は語られます。「どこから落ちたかを思い出し」なさいと主は命じられます。そうだ、あそこで従いそこなった、あそこで自分勝手な道を選んでしまった、そういう地点がある筈だと主は指摘されます。今、マクドナルドの食品に異物が混入された事件が問題になっていますが、原因を突き止めると、必ず、どこかの工場でマニュアル通りに製造がなされていなかったという場所が特定できるはずです。そして、それができたならば、それを改めねばなりません。それを怠るものからは、燭台を取り外す、つまり、教会という看板を取り去ってしまうと主は語られます。厳しいようですが、教会の証のためにこれは必要な措置でしょう。
 
4.勝利の約束
 
 
しかし、主は教会の失敗を喜びなさるお方ではありません。悔い改め、回復し、勝利の道を期待しておられます。主は、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と素晴らしい回復への期待を述べ、回復するものへの祝福を約束くださいます。実際のエペソ教会の歴史をたどってみると、2世紀から以降、キリスト教世界の中心の一つとして輝き続けました。これも大きな慰めです。
 
C.私たちの教会への適用
 
 
さて、2週間後に教会総会を控えている私たちが、主イエスさまに対して取るべき態度をこの中から学びましょう。
 
1.教会の主を崇め、平伏そう
 
 
目には見えませんが、私たちの集会に共におられ、私たちの生活のすべてをご覧になる主がおられることを認め、そのお方の前に、ヨハネのように平伏しましょう。主を崇め、礼拝しましょう。
 
2.主の推奨を感謝しよう
 
 
私たちの全てをご存じであり、それに報いてくださる主に感謝しましょう。教会総会では、教勢・財勢という数字で表れる報告もなされますし、数字に表れない報告もあります。それらに表れた一人一人の主への献身的な奉仕の全てをご覧になり、誉めてくださる主に感謝を捧げましょう。
 
3.主の譴責を受け入れよう
 
 
同時に、主からのお叱りをも受け入れましょう。私たちの足らざる点を正直に認め悔い改めましょう。特に、私たちの主イエスさまに対する初々しい愛の関係の原点から逸れていることを示されましたら、言い訳しないで悔い改め、初めの愛に戻りましょう。この文節を解説したウェスレアン注解の一節を引用して終わります。「愛は・・・継続的に栄養を補給されるべき植物のようなものである。家庭であれ教会であれ、愛は熱心な真実な努力によってのみ爛漫と花を咲かせ、良い香りを放つことができる。それは親切という水を与えられ、思慮深さによって温められ、赦す心によって、耕され、そして配慮と自己犠牲によって栄養を与えられた土壌で最もよく成育する。」
 
お祈りを致します。