礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年2月1日
 
「獄中の讃美」
使徒の働き連講(47)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 16章16-26節
 
 
[中心聖句]
 
  25   真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
(使徒の働き 16章25節)


 
聖書テキスト
 
 
16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。 17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。 24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
 
はじめに:前回の復習
 
 
昨年11月に連講を中断してから2か月経過しました。前回はピリピで伝道を始めたパウロ一行が、ルデヤというビジネスウーマンを救いに導いたところまでお話ししました。今日はその続きですが、ピリピにおける伝道の模様の復習から始めます。

・ピリピ(地図参照):
ローマ植民都市=ピリピはマケドニヤの中心的な都市、ローマ植民都市、ローマ軍の駐屯地として重要な戦略的意味を持っていました。ただ、ピリピには、他の町々に比べるとユダヤ人が多くはなく、会堂(シナゴーグ)が存在していませんでした

・パウロの伝道(ピリピ遺跡図参照):
川辺の祈り会で=パウロとその一行は、安息日に行くべき会堂がなかったので、野外の祈り会が持たれている筈の川の辺に行きました。それはガンギテス河畔であったと思われます。その祈り会でパウロは、集まった女たちに福音を語りました。聖書の希望は来るべきメシヤにあること、そのメシヤは既に来ておられ、十字架による身代わりの救いを成し遂げ、甦って、活ける救い主として信じる者の心に住んでおられることでした。

・ルデヤの入信:
受洗と会場提供=このメッセージに対して真剣に耳を傾けていたのが、ルデヤというテアテラ市に本社を持つ紫布販売会社の社長でした。そのルデヤの心が「主によって開かれ」たのです。主を求める求道心と、聖霊のお働きがマッチし、彼女はその場で主を信じ、家に戻って家族にも福音を伝え、皆でバプテスマを受けました。そしてルデヤは、パウロ達に自分の家を宿として提供しました。彼女は誕生したばかりの教会の集会所として自宅を使い続けました(16:40)。今日はその続きです。
 
A.占い女の救い(16−18節)
 
 
「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、『この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。』と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、『イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。』と言った。すると即座に、霊は出て行った。」
 
1.占いの霊(ピトン)に憑かれた女
 
 
ピリピでの伝道が進んでいた時、一つの問題が起きました。占いをしていた女の人がパウロの後をついてきて、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けたのです。彼女の言っていることは正にその通りで、一つも間違ってはいません。でも、誰が言うかが問題です。まともな人が言ってくれるのならば良い宣伝ですが、正気でない人がいう者ですから、これは言わば有難迷惑です。この人は「占いの霊(ピトン)」に憑かれた女でした。ピトンというのは、ギリシャ神話に出てくる大蛇のことで、デルフォイという小山を守っていました。アポロ神がピトンを殺して太陽に晒した故事から、「占いの霊」を指すようになりました。この女性は、ピトンに憑かれた巫女でした。先々のことを占って、しかもそれが当たるものですから、人々に持て囃され、人気を得ていました。今日でも、そのような類の人々が堂々とテレビに登場したりしています。実の所彼女は、悪霊の働きとしてそれを行っていました。もっと悪いのは、彼女の占いで儲けていたヤクザがいたことです。
 
2.パウロによる悪霊追い出し
 
 
パウロは、この女性に取り付いている悪霊を、主イエスの御名によって追い出しました。キリストの御名は、悪霊に対して絶大な権威を持っていたからです。この女性は、イエス様を信じて、普通の人に戻り、占いをやめてしまいました。それは素晴らしいことだったのですが、その女の人が稼ぐお金を収入源にしていたヤクザ達は収入の道が断たれたので、パウロとシラスのことをとても怒りました。彼らは、二人を捕まえて町の役人に連れて行きました。
 
B.パウロとシラスの投獄(19−24節)
 
 
「彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。『この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。』群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。」
 
1.ヤクザ達の怒り:収入源が断たれたこと
 
 
彼らの怒りは、単純に金蔓を絶たれたことです。この女性の人格とか、福利は全く眼中にありません。金蔓が絶たれた、それだけが問題で、パウロとシラスに怒りをぶつけました。
 
2.彼らの訴え
 
 
しかし、自分たちの損害をもって訴えるのは、ヤクザといえども気が引けたのでしょう。もっともらしい理屈で二人を訴えました。

・二人のユダヤ人性:
その第一は、この二人がユダヤ人であることです。前にもお話しましたが、ピリピにおいてユダヤ人はごく少数でしたから、ユダヤ人であること自体が人々の敵意の理由になりえたのです。今日でもヘイトスピーチという卑怯な手段で少数グループを痛めつける人々がいますが、とても悲しい、そして恐ろしいことです。

・平和の攪乱:
第二の理由は、町の平和を乱したことです。町の平和とは何でしょうか。このヤクザ達にとって自分たちが悪徳を尽くして静かに甘い汁を吸うことでしたが、そんなことは触れないで、気の触れた女性を更生させたことが、彼らにとって平和のかく乱だったのです。

・異なる風習の宣伝:
第三の理由は、この二人がローマ人達にとって「採用も実行もしてはならない風習を宣伝している」と言うのです。これも全く根拠のない言いがかりに過ぎません。ローマ史を見ますと、ローマ帝国は、地域的な文化や宗教に対しては原則寛容であり、それが反逆と結びつかない限りは、地域的文化や宗教を認めていました。
 
3.理不尽な処罰:法的手続きの無視
 
 
ヤクザ達の理不尽な訴えを受けた役人も、理不尽な対応を見せました。群衆の狂気に押されて、何の取り調べもなく、直ちに鞭打ち刑を宣告し、実行し、そして、二人を重罪犯人扱いにして投獄してしまいました。最小限、被告人尋問をしていれば、この二人がローマ市民であり、正当な裁判を受ける権利を持っていることを知ったはずでしたが、その暇も与えなかったのは、明らかに失態でした。
 
4.最悪の環境
 
 
・衆人環視での鞭打ち:
大勢の人が見ている前で鞭打ちの刑を与え、牢屋に入れてしまいました。これは、何という恥ずかしめでありましょうか。更に、鞭打ちの肉体的苦痛も計り知れないものです。その鞭というのは革のベルトに石や金属をくっつけたもので、一打ちで人間の皮膚を破ってしまうくらい恐ろしいものだったからです。

・手かせ足かせの苦痛:
その後、番人は、パウロとシラスの手と足を広げて4つの(あるいは、首も含めた5つ)穴のある木材にはめ込んで、牢屋の一番奥の部屋に閉じ込めてしまいました。

・劣悪な牢獄環境:
ピリピの牢獄が発掘され、およその状況が復元されていますが、そこは、洞窟をくり抜いて作られたもので、暗く、じめじめしていました。最悪の環境です。

これらを総合すると、通常な人間であったなら気が狂いそうな状況であったことが分かります。とても、のんびり賛美歌を歌っている状況ではありません。ここを理解しないと、次の節の素晴らしさが分かりません。
 
C.獄中の讃美と祈り(25−26節)
 
 
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」
 
1.獄中の讃美
 
 
パウロとシラスは、こんな状況にもかかわらず、「神に祈りつつ賛美の歌を歌って」いたのです。実に驚くべきことです。迫害の中でも誰をも呪わず、感謝と賛美とを続けられたのは、賛美する理由があったからです。

・主のための苦しむ光栄の故に:
自分たちが痛い思いをしているのは、イエス様の福音を伝えたためだったと感謝したのです。二人は、イエス様と同じ痛みを味わったことを感謝しました。

・命が与えられている故に:
そんな中でも命が保たれている事も感謝しました。私達は暗い方面ばかり見ればきりがありません。不平と不満の材料を探せばきりがありません。でも、その真っ暗な中にも明るい方を見れば感謝とさんびが沸き上がって来るのです。

・神は愛だから:
私たちは真の神がおられると信じています。その神がいつでも良い事しかなさらない、と信じています。時には、人にいじめられて辛い時もあるし、病気になってつらい時もあるし、お金がなくて悲しい時もあるでしょうし、お腹がすいて辛い時もあるでしょう。でも、神が生きておられる、何かのご計画で、いま私はこんな所にある、ということを信じていると、賛美が湧き上がってきます。これはやせ我慢ではありません。神の愛への信頼から生まれる讃美なのです。
 
2.獄中の祈り
 
 
二人は、賛美をしただけでなく祈りました。文字通りには「祈りつつ賛美した」と書かれています。何を祈ったのでしょうか?

・迫害する人の救いのために:
イエスさまは「あなた方を呪う者を祝福し、迫害する者のために祈れ」とおっしゃいました。パウロとシラスは、理由もないのに自分たちをいじめた人々の救いを祈ったと思います。私たちも、学校や職場でいじめられることがあるかも知れません。その時、自分を苛める人々のために祈って見ましょう。神は祈りを聞いてくださいます。

・囚人達の救いのために:
それから二人は、牢屋にいる囚人が救われるようにと祈りました。ろうやの囚人の中には、その祈りとさんびを聞いて、涙を流す人もいました。小さい時には神さまの話を聞くよい子だった、そんな昔を思い出した人もいたことでしょう。

・番人の救いのために:
この二人は、牢屋の番人のためにも祈りました。いやいや仕事をしていた番人も、イエス様の救いを必要とする人だということを二人は信じていたからです。

そして、この祈りは思いがけない方法で答えられました。その物語は来週のお楽しみとします。

 
終わりに:「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16−18)は実践可能!
 
 
パウロは、この経験をした数か月後に、テサロニケ教会に宛てて「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16−18)と勧めました。その勧めは、自らが実行したことを述べたものです。パウロにそれを可能としてくださった同じ主が、私たちにも「いつでも喜び、休みなく祈り、すべてのことを感謝する」恵みを与えて下さると信じましょう。
 
お祈りを致します。